不憫 1
「シズ・・・くっ!?」
素早さではガイウスより、イズリアの方が若干上だ。
そのため、彼は耳に響いた悲鳴が消えないうちに、雫のいる洗面所への扉を開けていた。
まさか、その直後に。
「どわあっ!?」
そこから飛び出してきた大量の水に押し流されるとは、彼も、その横に立つガイウスも思ってもいなかった。
水圧によってイズリアの体は、軽々と後ろに飛ばされ、傍にあった椅子も巻き込んで派手に倒れた。
そんな彼の上を最初の勢いこそは落ちたものの、浅瀬の川の中にいるように水が流れていく。
息が出来ず、イズリアは慌てて飛び上がった。
鼻の奥がつんとする。
「びっくりしたー」
「シズクッ」
ぶるぶるっと首を振り、水を払うイズリアを無視して、ガイウスは雫がいるはずの部屋の中を覗き込んだ。
普通だったら考えられない量の水が、いきなり扉から飛び出してきたのだ。
中の彼女はさぞかし悲惨な事になっていると思われたのに、雫はまだ水が溢れ続ける部屋の中でぽつんと立っていた。
何だ・・・?
扉を開けたイズリアの体は、その全身が濡れ、直撃を免れたとはいえ扉の横にいたガイウス自身も、水飛沫と流れる水の量で膝元まで濡れている。
それなのに、水で埋め尽くされたであろう、床から天井まで全て水浸しの部屋の中心で、彼女の体は何処も濡れていなかった。
まるで彼女の周りにだけ、何かの結界があるかのように、水が避けて部屋の外へと流れている。
驚き、瞬きも忘れたままの彼女の大きく開いた瞳が、ゆっくりとガイウスを振り返る。
「・・・あの、あたし・・・」
「あ、ああ。大丈夫か?」
ガイウスはざばざばと水を掻き分けながら、雫の傍へと歩み寄った。
見ると、洗面台の蛇口からこれでもかと勢い良く水が溢れている。
それが部屋を埋め尽くすほどになったとは到底思えないが、ガイウスは腕を伸ばして栓を回し、それを止めた。
きゅっと栓の閉まる音と共に、水の流れる音も徐々に消えていく。
「・・・壊れたわけじゃなさそうだな。おいシズク、大丈夫か?」
再度声をかけられ、ガイウスの手元を見つめていた雫は、一度瞬きをして彼を見上げた。
「あの、あたし顔を洗おうとして蛇口をひねったんです。そしたら・・・」
言いながら、困ったように眉が寄り、顔を俯け、小さくなっていく雫の声に、ガイウスは溜息を吐くと、彼女の顎に手をかけて上向かせた。
驚きに丸くなる彼女の瞳を真っ直ぐに覗き込む。
「シズク、お前を責めてるわけじゃない。俺はお前が大丈夫だったのかと聞いたんだ」
「・・・え? あ、はい。あたしは大丈夫です」
見ての通りと、雫は自分の胸元に手をあてて、頷いた。
彼女の体を再度確認してから、ガイウスもそうかと頷く。
「・・・ガイさんて、やる事が基本たらしですよね」
本当に女嫌いですか?
そんなニュアンスを込めた言葉を言い放ったのは、二人の様子を洗面室の外から伺っていたイズリアだ。
その髪を濃くした深い空色の目は、一人蚊帳の外に放置され、釈然としないと細められている。
そんな言葉をいきなりかけられた二人は、同時に彼を振り返り、また同時にお互いを見やって、今の状況を理解した。
男が女の顎に手をかけ、見詰め合っているのだ。
慌てて身を引いた雫から外れた手を、ガイウスは少しばかり物足りなく感じ、近くにあった濡れたタオルを取るなり、イズリアに投げつけた。
いきなりの事に避けられず、存分に水を含んだタオルは、べしゃっと情けない音をたててイズリアの顔にぶつかった。
「ひでえっ!」
「お子様はそれで拭いてろ」
「拭くも何も濡れまくってるじゃないですか!」
「タオルを渡してやった優しい俺様に取る態度か、それが」
「これのどこが優しいんですか!」
言って、ぶつけられたタオルをイズリアはぎゅうっと絞る。
そこから大量の水が搾り出され、床に溜まる水にぶつかり大きく音をたてた。
「騒がしいと思えば、やはりあなた達でしたか」
「レヴィンさん聞いて下さいよ! ガイさんが」
雫とガイウスがいる洗面所からは見えないが、急に聞こえた声に深い青の髪を持つ青年、レヴィンがこの部屋へとやって来たのだとわかった。
ぴしゃぴしゃと水をはじきながら歩く音が近寄ってくる。
イズリアは驚く様子もなく彼に言葉を返すと、絞ったタオルで顔を拭い、立ち上がった。
その全身からぽたぽたと水滴が零れ落ちる。
そんな全身ずぶ濡れ状態の彼を見て、レヴィンが唇の端を持ち上げて笑う。
「部屋の外まで水が流れてきてましたけど、かなり面白い事があったみたいですね」
「全然面白くないですよ」
むっと目を眇めて答えながら、イズリアは次いで衣服の端を掴むとぎゅっと絞った。
その間に、レヴィンは開け放されたままの洗面室の扉に目を留め、ひょいと中を覗き込んだ。
膝下まで濡れたガイウスと、何処も濡れていない雫を交互に見て、何となく事態を理解する。
「シズク」
レヴィンに名を呼ばれ、雫は、はいと慌てて彼に向き直った。
背筋を正す彼女の姿に、レヴィンは好感を持ちながら、口を開く。
「私はレヴィンといいます。あなたにすぐ理解しろというのは酷かもしれませんが、この世界には魔術というものが存在します。このように」
言うなり、レヴィンは軽く手首を振って、その指先に炎を出現させた。
呪文詠唱なしで出来る術範囲の、初歩中の初歩だ。
雫の目が、驚きに丸くなるのを確認してから、彼は指先をくっと曲げる動作をしてその火を消した。
「この部屋の状況からして、あなたの力が何かしら働いたと考えるのですが」
「あの、あたしよくわからなくて・・・」
「今はわからなくても大丈夫です。でも、簡単な事だけ試してみましょう。ね?」
戸惑う雫を、レヴィンは優しく諭すように微笑むと、その手を差し出した。
彼女はその手を見つめた後、隣に立つガイウスを見上げ、彼の目が取ってやったらどうだ? と暗に物語っている事を汲み取ってから、レヴィンの手におずおずと自身の手を重ねる。
雫とガイウスの信頼が近寄っている事に、いささか気を留めながらも、レヴィンは重ねられた手を軽く引き寄せ、手の平を合わせた。
「この部屋から溢れた水が乾くよう想像して下さい」
私がサポートします。
「え、でもあたし」
「否定しないで。何も難しい事は言ってないでしょう? 部屋が水浸しなのを元に戻るよう考えるだけです。ガイウスの足を見て御覧なさい。濡れている靴を履いて歩くのは案外気持ち悪いものですよ」
言いながらレヴィンの視線がガイウスの足元をちらりと見る。
その視線を追って、雫もガイウスの履くブーツと、そこから続くスラックスが膝下あたりまで水浸しになっているのを改めて確認した。
確かに、濡れた靴で歩くのはがぽがぽして気持ちが悪い。
納得してレヴィンを見上げる彼女に、レヴィンは頷くと安心させるように微笑んだ。
「目を閉じた方がいいかもしれません」
その言葉に素直に従って、雫が瞳を閉じる。
レヴィンを見上げる角度で目を閉じた彼女を、ガイウスは目を細めて見つめた。
レヴィン自身は、それを気にするふうでもなく、言葉を続ける。
昨日見た彼女の力の具現を考えるならば、難しい表現や、呪文は必要としないのは明らかだ。
それならば、後は彼女自身に、その力を否定させない事。
「想像して下さい。願うだけでもいいですよ。ここから溢れた水が無かったように、部屋が元に戻るように」
ガイウスの靴が乾くように。
レヴィンの紡いだ言葉を、雫は心の中で繰り返してから、そう頭の中で付け足した。
レヴィンと触れている手の平から、何かきらきら光る熱のようなものが流れてくるのを感じる。
何だか心地よい気分で、彼女はそれが全身を包む気配を感じながら、この部屋が元に戻るように再度願った。
目を閉じていた彼女は知らない。
その直後に、洗面所から溢れこの部屋の外まで流れ出た水が、音も無く大きな水の塊となり、そして、音も無く消えた事を。