砦 3
ぽろぽろと終わりを知らないように、雫の大きく黒い瞳から溢れた雫が零れ落ちる。
ガイウスはそのたびに、親指の腹で優しくその頬を拭っていたが、その内心は戸惑いに満ちていた。
正直、女の涙ほど苦手なものはない。
彼にとって煩わしいとしか思えないそれを、根気強く、それも彼女の肌が傷つかないように優しく拭うなど、彼を知る者、例えばアーデルが見たなら、指を差して笑うだろう。
その様をありありと想像してしまったガイウスの眉間に、しわが寄った。
・・・胸くそ悪い。
自分の行動に、自分で見切りを付ける。
ガイウスは雫の頬から手を離すと、彼女の横たわるベッドへと腰掛けた。
彼の重みにベッドがギシッと音をたてて揺れたのを感じ、顔を上げた雫に、彼はぽつりと告げる。
「拭くのは止めた」
言って、ガイウスは雫の体をシーツごと自分の膝の上へと引き寄せ、抱え込んだ。
いきなりの彼の行動に、雫の口から小さく悲鳴が漏れる。
そんな彼女の小さな頭に、ガイウスは右手を添えると、自分の胸に押し付けた。
「好きなだけ泣けばいい」
止まらない涙を、何度も拭う必要などなかったのだ。
最初からこうして、落ち着くまで泣かせてやれば良かったのだと、ガイウスは腕の中の小さな少女の背に手を伸ばした。
昨日、彼女を抱きしめて安心させようと決めたばかりではないかと、ガイウスは思った。
小さな子供をあやす様に、彼の大きな左手がぽんぽんと彼女の背を叩く。
彼女の気持ちが落ち着くように、涙が止まるように。
だが、ガイウスの腕の中の少女は、彼の思惑とは別に、身をよじってその腕から逃れようとしていた。
胸元で、じたばた慌てる雫の様子に、ガイウスは首を傾げた。
子供扱いし過ぎたのかと、顔を覗きこもうとして、真っ赤になった彼女の耳に気付いた。
こんな色だったか?
そんな筋違いな事を思い、ガイウスは自分の思考の馬鹿らしさに呆れ、一旦その視線を逸らした。
腕の中の少女は、自分が思っているよりは、子供ではないのかもしれない。
自分を男として意識している。
それを感じて、ガイウスは思わず、ぱっとその手を離した。
「っ・・・いたっ!」
急に解かれた腕に、ガイウスの体から離れようと抗っていた力のまま、雫の体は彼の腕の中から一気に離れ、そして、その勢いのままにベッドから転げ落ちてしまった。
どすんっと音をたてて、床に転がり落ち、したたかに腰を打ちつける。
あいたぁ・・・と呟く雫を見下ろし、ガイウスは慌てて彼女に手を伸ばした。
「すまない」
「あ、いえ・・・ありがとうございます」
ガイウスのせいで床に転がり落ちたと言える状況なのだが、雫は伸ばされた腕に素直に捕まって立ち上がった。
彼女のまだ赤味の残る顔を、ガイウスはまじまじと見る。
不躾ともいえるその視線に、雫は意味がわからず、気まずそうに彼を見返した。
「あの・・・?」
「そういえば、シズクの年を聞いてなかったな。いくつになるんだ?」
急な問いかけに、雫はきょとんとした顔で、17ですと答えた。
それを聞いて、ガイウスの顔もまた、同じ様に驚きに彩られる。
そうか・・・と呟くと、ガイウスはがしがしっと右耳の後ろあたりを掻いた。
12、3かと思ってたが、17か。
「ガイウスさんは、おいくつなんですか?」
「俺は22だ。お前がもう少し下かと思って、さっきは急に悪かったな」
「え、いえ、ちょっとびっくりしましたけど、大丈夫です」
「良かった。まあ、落ち着かせようと思っただけだ。軽く流してくれ」
ガイウスの言葉に、はいと雫はまだ赤味が残る顔で頷いた。
素直ないい子だと、ガイウスは彼女の印象を持ち、ふと口元を緩ませた。
彼女の頬が、子供扱いされた事と自分を意識した事で赤く染まっている。
先程までの涙のせいで赤味の残る黒く大きな瞳は、昨日の自分の行動も含めて、自分を強引な男とでも思っているのか、困惑と少しの非難めいた感情に揺らいでいた。
そんな表情を見ると、彼の中の悪戯心が刺激されてしまう。
「・・・泣き止んだな」
言って、ついっと雫へと手を伸ばすと、彼女の体がぴくっと揺れた。
その反応の良さも、ガイウスにとっては自分を刺激するものでしかなく、彼は感情の赴くままに手を伸ばし、彼女の頭に手を乗せた。
固まる彼女の体と表情に笑いそうになるのを堪えながら、シーツの中にいた時から乱れていた髪を、指ですいて元に戻す。
指先からさらさらと流れ落ちていく髪が心地よいと、ガイウスがその髪を指先にからめようとした。
その直後。
「おはよー・・・って、何でガイさんがもういるんですか!?」
ガイウスの目が嫌そうに細められ、ノックもなく扉を開けた水色の髪の少年へと注がれた。
その視線に射殺されそうになりながらも、少年、イズリアは負けじとムッと彼を睨み返す。
「部屋に入る時は扉を叩けと教えてもらわなかったのか?」
「ガイさんだって、僕の部屋に入る時、一回もそんなのした事ないじゃないですか」
「阿呆。男と女じゃ違うだろ」
「ずるいっ差別ですよっ!」
「黙れ、クソガキ」
突然始まった、ぽんぽんと言い争う二人の男の姿を目の当たりにして、雫はどうしていいかわからずに、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「彼女の事は俺が将軍に頼まれたんです」
「は? 俺だってアーデルに言われてる。お前だけじゃない」
「でも年が近い俺の方がいいって、昨日言ってたじゃないですか!」
「知らん」
「ひどいっ!」
なにやら自分の事で言い争っているようだと、ようやく気付いた雫は、どうしたものかと近くのベッドに座るガイウスを見た。
その困惑した視線を感じて、ガイウスはちらっと雫を見た後、子供じみた事をしてしまったと自嘲気味にため息をついた。
「イズ、飯持って来たんだったら、さっさと渡してやれ」
「え? あ・・・ごめん、驚かせたよね」
急に変わったガイウスの態度と、雫の困った表情を見て、イズリアもまた焦って言葉を紡ぐ。
手に持っていた食事をテーブルに置くと、彼女に食事をするよう促した。
朝はあまり食べられない雫であったが、ここに来てから何も食べていない事もあって、素直に空腹を感じた。
しかし、心の奥で、そんな自分に嫌気がさす。
こんな時でもお腹って空くんだ・・・
その考えに、また鼻の奥がツンとする感覚を感じて、雫は慌てて言った。
「あの、先に顔洗ってきます」
パタパタと隣室へと駆け込む彼女の背を見送ってから、ガイウスはイズリアへと視線を投げた。
「あれ、まだ全然落ち着いてないからな」
「・・・そんなの見た時にわかりました。一瞬、ガイさんが泣かせたのかと思いましたけど」
「お前な・・・」
呆れたガイウスの様子に、冗談ですとイズリアは笑った。
「寂しいに決まってますよ。いきなり知らない世界なんて、考えた事もないだろうし」
僕は僕の出来る限り、彼女のそばにいたいと思います。
直球に告げたイズリアの言葉に、ガイウスが苦笑する。
子供は何でも簡単に言葉にすると何処か羨ましくも感じる。
「それじゃ、俺はそれをとことん邪魔するとするか」
「はあ!? ガイさんってたまに本気で殴りたいんですけど」
「いいぞ。お前の手が俺に届くならな」
余裕の笑みを見せるガイウスに、イズリアの表情が歪む。
剣の腕では彼とアーデル将軍には勝った事が一度もないのだ。
「いつか絶対、ぎゃふんって言わせてやります・・・」
「楽しみにしてるよ」
くっと笑うガイウスに、それでも彼らを目標とするイズリアが悔しそうに唇を引き結んだ。
その耳に、隣室へ消えた雫の悲鳴が聞こえたのは、丁度その時だった。