砦 2
「彼女は俺達を助けてくれたんですよ!?」
幼い故に感情に流されやすいイズリアの、反抗した声が上がった。
そう来るだろうと予想していたアーデルは、ふ、と軽く息を吐く。
「確かにそうだ。が、それはあくまで偶然の産物でしかない。常に最悪の事態は頭に入れて行動しろ」
偶然の産物を、人は奇跡と呼ぶのではないかと、レヴィンは思ったがここでは口にするのをやめた。
イズリア以外は気付いている事だろう。
何度も期待してはいけない、その現象。
人々が請い願い、叶わずに何度も裏切られる、それ。
「それも含めて、明日から彼女と接して行けば良いだけの事だろ」
ガイウスがテーブルに乗せられた食事に、手を伸ばしながら言った。
肉と野菜を薄いパンで挟んだピタを手に取り、口に運ぶ。
アーデルは立ち上がると、彼の部屋に備え付けれた棚から、酒瓶を取り出して栓を抜き、ガイウスの傍にあるグラスにそれを注いだ。
「ああ。彼女の力の種類を知り、彼女がこの国の脅威になりうる存在なのかどうかを調べる。彼女の存在に何か意味があるのか、もし本当に誰かが喚んだのなら・・・」
「渡すんですか? 無理矢理喚ばれたのかもしれないのに?」
「まだ可能性の話だ。それはその時に決めればいい」
むっと眉を寄せたままのイズリアを一瞥し、ガイウスはグラスに注がれた酒を飲み干した。
一杯だけと、アーデルから酒瓶を受け取り、自分のグラスにそれを注ぎながら、レヴィンが言う。
「では、術のこともありますし、彼女の事は基本、私に任せて頂いてよろしいですか?」
「ずるいっ!」
レヴィンのまとめの言葉に、やはりイズリアが抗議の声を上げた。
「僕だって、何か彼女の役に立つ事がしたいです。年だって一番近いし・・・」
レヴィンから酒瓶を受け取り、アーデルとガイウスの空になったグラスにそれを注ぎながら、彼はアーデルに懇願の目を向けた。
アーデルの顔が困った奴だと語り、彼の口の端が上げる。
「そうだな、確かにお前と一番近いだろう・・・話し相手にでもなってやれ」
「はい!」
アーデルの言葉に、イズリアは嬉しそうに頷いた。
話し相手なら、術の指導の合間に自分で十分だろうとレヴィンは思ったが、イズリアの無邪気な笑顔を見ていると、年上としては仕方が無いかと酒を喉に流し込んだ。
「俺は好きなようにやらせてもらう」
ガイウスが最後にそう言って、今日はここまでと四人の会話は終わった。
ゆっくり休めとアーデルに告げて、三人の男達が彼の部屋を出る。
イズリアが心配そうに、彼女の部屋の方に顔を向けたのを、ガイウスが皮肉気に笑った。
「寝てる女の部屋を尋ねるのは、まだ早いんじゃないか?」
「っ!」
ガイウスの言葉にむっとしてイズリアは彼を睨んだ。
だが、心なしか彼の頬に朱が上っているのを見て、レヴィンは息をついた。
「とにかく今日はお互い休みましょう。もう遅い」
「失礼しますっ」
「ああ、おやすみ、イズ坊や」
最後までからかわれ、足音荒くイズリアが自室へと引き上げる。
それにやれやれと思いながら、レヴィンもガイウスを一瞥すると、部屋へと向かった。
二人の姿が廊下から見えなくなるのを確認した後、ガイウスはくるりと向きを変えた。
彼女の部屋の方向へと数歩進んだ所で、アーデルの部屋の扉が開く。
「お前も寝ろ、ガイウス」
行動を読まれていたかと、ちっと舌打ちしてガイウスがアーデルを振り返った。
そんな彼の姿に、アーデルもまた、レヴィンのようにやれやれと肩をすくめてみせた。
窓に引かれたカーテンの隙間から、朝日が室内を明るく照らし始めた明け方。
ぼんやりとした意識の覚醒と共に、目に映る見慣れない高い天井に、少女、雫は数回瞬きを繰り返した。急激に襲った眠気にそのまま意識を手放したせいか、頭がひどく重い。
視界がクリアになると共に、首を傾けて質素な室内を確認する。そこで改めて昨日の出来事をまざまざと思い出し、彼女の目尻から音も無く涙が零れ落ちた。
夢、じゃなかったんだ。
本当の事なんだ。
瞬きも忘れて、涙を流す。
その日は朝から土砂降りの雨で、誰もが憂鬱そうに一日を過ごしていた。
学校が終わり、いつものように恋人である少年、イツキと放課後待ち合わせて、二人で学校を出る。
小雨程度なら二人で一つの傘を使い帰る道を、あまりの雨の激しさに、その日は別々の傘で二人で並んで歩いていた。
「それにしても凄い雨だね」
傘だけでは防ぎきれない足元の雨を蹴り上げるように歩くイツキの姿に、雫はぷっと吹き出した。
「いっちゃん、濡れるよ」
「もう濡れてる。あ、でも雫は濡れないようにしなよ? すぐ風邪引くからさ」
「・・・あたしが風邪引いたら、いっちゃんも必ず風邪引くくせに」
「仕方ないだろ。風邪の時の雫って何かやらし・・・ほっとけないんだから」
途中むっと雫が目を光らせたのを感じて、イツキが慌てて言葉を言い換えたが、彼女は、ぷいっとそっぽを向いて足早に歩き出した。
雫の風邪が早く治る様に、自分がもらう。
そう言って、嫌がる彼女の熱で潤んだ瞳を覗きこみ、頬を押さえ、何度も唇を落とすイツキの行動を思い出し、彼女の頬は赤く染まっていた。
「本当にいっちゃんはすけべで変態で」
「すけべは否定しないけど、変態じゃないよ」
降りしきる雨の強さに負けないような足取りで、ずかずか歩く雫の姿に、イツキが苦笑した。
「雫、雨ひどいんだから、滑るよ」
「大丈夫だよ」
そう言って、くるりと彼を振り返ろうとした時。
ずるっと足元を滑らせた。
「雫っ!」
そうだ、あの時。
いっちゃんのあたしを呼ぶ声がして。
いつもだったら、やっちゃったなんて腰を打った恥ずかしさで、慌てて立ち上がるのに。
何で、今回は違ったんだろう。
いつもと、何が違ったんだろう。
いつもの日常から、急に引き離されて、連れて来られた非日常。
体を覆うシーツに頭まで潜り込み体を丸める。自分の意思に関係なく流れ落ちていた涙を堰き止める術もわからず、雫は声を上げて泣き始めた。
「・・・くっ・・・いっ、ちゃん・・・いっちゃん・・・」
自分の声なのに、他人の声のように聞こえて、それが酷く可哀想で更に涙が溢れた。
帰りたい帰りたい帰りたい。
優しい腕で私を包む、大好きな彼がいる場所へ。
あたしの大事な大事な世界へ。
「・・・泣くな」
急に聞こえた声と、シーツの上から肩に置かれた手に、雫の体がびくりと揺れた。
慌ててシーツを握り締めて、しゃくり上げる喉を押さえた。
そう上手くいきなり涙を止める術など知らない彼女は、ひっくと喉を鳴らした。
「いや、泣いた方がここはすっきりするのか?」
わからん。
そう小さく困ったように呟かれた声音がやけに優しく耳に響いて、雫の呼吸はゆっくりと落ち着きを取り戻した。
けれど、どうしていいかわからず、シーツに埋もれたままでいると、泣き声が止まった事に気付いた声の主がそっとシーツに手をかけた。
ゆっくりと捲くられた真っ白なシーツの隙間から、雫の黒い髪が散らばる様を見て、声の主、ガイウスは慣れぬその艶やかな色がシーツの上に乱れる様に、目を細めた。
おずおずと自分を見上げる赤く潤んだ雫の瞳と、彼女の様子に動揺を隠せない男の藍色の目が合った。
「・・・ガイウス、さん」
「一応、扉は叩いたんだが、返事がなかったので勝手に入らせてもらった。悪いと思ったが・・・すまん」
言い訳が苦手だというように、最後は言葉を濁して、ガイウスは謝ると、そっと彼女の頬にその手を伸ばした。
触れる直前、何をされるのかと彼女の肩がぴくりと揺れる。
それを安心させるかのように、ガイウスは雫の瞳を覗き込んだ。
怖がらせるつもりはないのだと、伸ばされた指先が一旦彼女の視線を受け、躊躇い軽く握られる。
一呼吸置いたことで、心構えが出来た彼女を感じ、改めてガイウスはそっとその頬に触れた。
大人しく自分の指先が触れるのを許す彼女に、ガイウスは小さく笑うと、その指をまだ濡れたままの頬に滑らせて、それを拭った。
イツキ以外、触れた事がなかったその頬に。
イツキではない、固い男の指先を感じて、雫の瞳からまた涙が一筋こぼれ落ちた。