召還 1
絶体絶命。
そんな言葉は、いざという時には頭にない。
助かった時に、過去を振り返り、ようやく口に出せる言葉である。
くそっあと一匹。
自分の背後に蹲る仲間を庇うように立ち、男は自分の身の丈を倍に越す醜悪な最後の一体の魔物に剣を向けた。
その剣は既に幾体の魔物の血に汚れ、切れ味は格段に落ちている。
無いよりはましなそれを両手に持ち、魔物との距離をじりじりと測る。
一匹だけなのに。
戦えるのは自分だけという状況に、男は舌打ちした。
降りしきる雨が視界の邪魔をする。濡れた地面が足をすくい剣の威力を弱める。魔物にも同じ悪条件ではあるが、魔物と人間の本質の力の差が浮き彫りになったのが今回の戦いだった。
周りにはそれでもなんとか倒した魔物の死体。だがその数以上に、重なる仲間の無残な姿。
背後にいる仲間もまた傷つき、かろうじてその命の灯火を繋ぎとめているに過ぎない。
彼らには剣を振るう力も、術を唱える魔力も既に残っていないのだ。
だが、見捨てるなんてしない。
なんとかして、こいつらだけでも・・・
男は、降りつける激しい雨にさえ流れ落ちる事のない、どろりとした魔物の黒い血と泥にまみれた重い体を叱咤するように、極めて明るい声で背後の仲間に声をかけた。
目と意識は、自分達、獲物の疲れを知り、どう捕らえ食そうか楽しむ魔物を見据えたまま。
「おい、訓練の時を覚えているか?」
「・・・え・・・?」
「もう疲れて動けないと倒れたのに、レティシア姫が散歩ついでに訓練場のそばを通った時だ」
「ふ・・・覚えて、ます・・・」
「倒れてた奴も皆一気に立ち上がって、剣を振るったな」
はっと息をはいて笑う男の意図している事を的確に汲み取り、背後に蹲っていた男達は重く痛む体を無理やり起こし立ち上がった。
流れ出る血の多さにくらむ体を、それぞれの剣と杖でなんとか支え、荒い息を整える。
「俺が奴に切り込んだら、一気に走れ」
そこで男は一旦、大きく息を吐いた。
「・・・命令だ」
重く低いその声は、有無を言わせない迫力に満ち、傷ついた男達は無言で自分達の動きを決めた。
男は将軍と呼ばれ、自分達はその下に付く者。
彼の言葉は時として絶対である。
例えそれが、彼を見捨てる選択であっても、この状況で全員が無駄死にする事だけは避けようとする彼の意思に、自分達の傷ついた体で逃げおおせるかどうかは解らなくても、従うのみ。
「先に帰って、酒の用意を頼む」
「・・・了、解・・・っ」
気を抜けば倒れそうな体に最後の力を込め、彼らは男の背を見つめた。
その背が、再度剣を握りなおし、最後の魔物と対峙しようとした、その時。
-ぐがあああああっ!
周りで倒れていた魔物の死体と思われた一体が、地を振るわす咆哮と共に飛び起きたのだった。
もう一体!?
男達の意識がそちらに向かったのを、もう一方の魔物が見過ごす事はなかった。
その一瞬の隙に、男の体へと飛び掛り、その体を地面に叩き伏せた。
「くっ・・・!」
雨に濡れた地面の上を男と魔物の体がその勢いのままに横滑りし、あたりに雨水と泥しぶきが舞う。
思うように男の体に牙を食い込ませることが出来なかった魔物が、再度喉元を噛み切ろうと口を開き襲い掛かる。
そこから覗く牙を剣で受け止め、間近に迫った生臭い口内に顔をしかめながら、男は魔物の腹に蹴りを入れた。魔物が怯んだ一瞬の隙に、彼は足に留めておいた短剣を抜き出し、魔物の比較的柔らかな腹に突き立てた。
-ぐるああっ!
魔物が痛みで捻り起こした体の下から、転がり出た男の目に、もう一体のそれが仲間の元へと駆けるさまが映った。
まずいっ!
そちらへ走ろうと腰を浮かせた男の背に、容赦の無い衝撃が走り、彼は再度地面に転がった。
対峙していた魔物が痛みに振り下ろした長い腕の先が、彼の背中を打ったのだ。
慌てて体勢を立て直し、横目で仲間を確認した男は、ぎりっと歯軋りした。
ここまでか・・・!
視界の端で、三人の仲間の元に魔物が飛び掛る。
彼らの悲鳴と強くなった雨音が、彼の耳に響いた。
直後。
「きゃあっ!!」
どしゃっと何かが落ちる音と共に、この場に不似合いな、子供のような高い声があたりに響いた。
「ひゃっ泥だらけ・・・最悪っ」
突然現れたそれは、まだ幼い少女だった。
驚愕に見開かれた男の視界に、この国では見た事のない黒髪も、見た事もない服装も、この降りしきる雨の中、今、初めて濡れ始めたと、さあっとその色をかえてゆく様が映る。
いきなり現れた少女に、魔物も含め、その場の生あるもの全ての意識が、彼女へと向かった。
「ん? あれ、いっちゃん? え、何、ここ・・・」
少女もまた自分の置かれた状況に気付き、戸惑いの声を漏らす。
男達は見た事もない少女の容姿に驚き、状況が飲み込めないその一瞬の間に、魔物が狂喜の声を上げた。
-かはあああっ
見た事のない人種が突然現れた事に気を取られた者達と違い、魔物にとっては突然とはいえ、餌がもう一つ現れた、ただそれだけの事として人より早く状況を把握したのだ。奴らは知っている。
今、自分達が対峙していた男の肉よりも、女子供の肉が柔らかく甘い事を。
駆け出した魔物の動きで、ようやく我に返った男は、その醜い体を追いながら、焦って声を上げた。
「走れっ!」
いきなり響いた大声に、少女は驚いて顔を上げた。
丸く大きなその漆黒の瞳に、見た事もない醜悪な生き物の姿が映る。
「え、何!? なっ、ちょ・・・い、やああああっ!」
魔物の肢体が顔を覆い蹲る少女へ喰らいつこうと跳ね上がった。
その時。
降りしきる雨が意思を持って、その角度を変えたのである。
何千本ともとれる鋭利な水の刃物となり、彼女に襲い掛かる魔物らの体を突き通し、魔物は柔らかな彼女の体に触れる事なく、その姿を変え地面へ崩れ落ちたのだった。
あたりは一瞬にして、また、雨音だけが支配する静寂へと切り替わる。
術師、か?
眼前で起こったそれに、男は目を瞬かせた。
魔物が息絶えているのを横目で確認して、自分の体を抱きしめて蹲り震える少女へと歩み寄る。
雨の中震えるその姿は、無条件に守らなければと思う程に小さかったが、この場所に不自然な真っ白の、雨によって体に張り付く衣服が、彼の目に奇妙に映った。
何者だ、何処から現れた?
いきなりこの場所に・・・?
疑問は次々に浮かんだが、今はそれを気にかけている場合ではない。
男は泥にまみれた顔を腕で乱暴に拭い、顔に張り付いた髪を後ろに流すと、震えるその肩に、そっと手を伸ばした。
触れると同時にびくっと激しく揺れたそれに、自分でも驚きながら、彼は慎重に口を開く。
「・・・驚かせて、すまない」
相手を気遣うように、けれど疲労で掠れたその声を聞き、少女は恐る恐る顔を上げる。
日本人ではない顔立ちの、洋画で見たような泥と何か奇妙な液体で汚れた甲冑と衣類を身につける男に見つめられ、少女はまたぶるりと怯えてその身を震わせた。
髪だけではなく、瞳までも、黒か。
男は自分に向けられた彼女の不安に揺れる瞳を見つめた。
この国では、その色を身に持つ人間を、彼は見た事がなかった。
顔立ちもこの国の人間とは違い、とにかく幼い子供に、彼は眉を寄せた。
「・・・将軍ッ・・・!」
二人のお互いを観察するような見つめあいは、痛みに喘ぐ他の声によって終わった。
声に二人で顔を向け、少女の前で片膝をついていた男が、慌てて立ち上がる。
「大丈夫か!」
危機は去ったのに、折角繋いだ命を消しそうな、重い怪我を負う仲間の元へと駆けていく男の後姿を追って顔を向けた少女の瞳に、恐々たる周囲の状況が映る。
ひっと喉を鳴らしそうになったのを堪え、彼女は口元を手で覆った。
ここ、・・・何処?
雨はまだ降り続いている。