異世界 2
・・・逃げなくちゃ。
そう思うのに、雫の身体はがくがくと震え、今にも崩れ落ち膝をつきそうだった。
暗い木々に囲まれたこの場所に誰にも気付かれずに辿り着けた様に、今度もまた誰にも気付かれないように先程の場所に戻る。
頭の中では理解している。
ただそれだけの、とても簡単な事だ。
なのに、なんとか力を込めた足は一歩も動く事が出来ず、倒れそうになる身体を支える為に伸ばした手が、近くの木の幹に縋り付くことさえ出来ず、指先に小さな傷を作った。
その痛みに、雫は泣きたくなって眉を寄せた。
いっちゃんがいてくれたら・・・
思っても無駄だとわかっているのに、今までの常として考えてしまう。
いつも自分を支え、甘やかしてくれたイツキの存在は大きく彼女の心に浸透していた。
もしも彼が傍にいたら、こんな時はどうするだろう。
そうだ、もしもいっちゃんが一緒にここにいたら・・・
『雫、こっち』
そう言って、いつもよりずっと真面目な顔をして、いつもよりずっと強く自分の手を引いて、この場所から走り出すだろう。
いつも何処かふざけた姿を見せるのに、いざという時の判断力と強さを持っている人。
めんどくさいと肩を竦めて笑いながら、グループをまとめるのが上手い人なのだ。
『でも、雫の事でめんどくさいって思う事はないからね?』
聞こえるはずのない、けれど、心と身体に染み込んだイツキの声が聞こえた気がして、雫の口元に笑みが浮かぶ。
その途端、自分を支配していた恐怖が薄れてなくなり、振るえが治まっている事に気付き、彼女はそっと目を閉じた。
傍にいなくても、自分を支えてくれる確かな存在。
それを思い出し、雫はきゅっと両手を握り締め口元に当てると、安堵するように息を吐く。
必ずここから帰る。
絶対、この世界から帰ってみせる。
帰りたいと嘆いていたばかりの雫の心に、その時初めて、そんな思いが沸き上がる。
その願いともいえる強い思いは雫を奮い立たせ、彼女は戦場と呼ぶにふさわしい現実を、その漆黒の瞳に真っ直ぐに映した。
いっちゃん、あたしここに来てから、変な力があるかもしれないんだ。
こんな時、どうしたらいいかな?
『・・・雫に危険な事はしてほしくないけど、力があるなら、俺だったら使うよ。しばらくの間でも、この世界で生きていかなきゃならないんだから。自分に出来る一番の事をする』
そうだよね。うん。
帰るために、帰るまで、あたしにはこの人達が必要なんだ。
あたしも、出来る事を、する・・・!
こくんと生唾を飲み込み、雫は歩き出した。
嘆き、逃げる事だけを考えていた異世界への、今がまさに第一歩だった。
「・・・?」
些細な異変に真っ先に気付いのは、接近戦を生業とする剣士の彼らと違い、一歩離れた場所から魔術を駆使するレヴィンだった。
口で呪文を紡ぎながら、目を細め眉を寄せる。
魔鳥の内、一番大きな体格を持つそれがふいに何かに気付いたように首を回していた。
小さな鳥がやれば可愛いかもしれないその姿をいぶかしく思いながら、レヴィンも同じ様に周囲に視線をさ迷わせる。
だが、周囲は薄暗く崩れる建物の上げる粉塵のせいで、何も見つける事が出来ない。
何に気を取られているのかわかりませんが、こちらとしては好都合。
遠慮なく狙わせてもらいますよ。
手に握る杖を構えなおし、その先にある魔石に意識を集中させる。
威力のある魔術は呪文と杖と、意思や魔力の強さが必須になる。
戦いの場に素早く簡単に編み出される術と違い、一撃必殺の術は要する時間や魔力の質量も全て違うため、彼はある意味、隙だらけであるその魔鳥に的を絞る事に決めた。
戦局は五分五分。
いや、砦の半分が壊されようとしている今、こちらが後々不利といったところですかね。
そんな戦況を一気に立て直すためにも、自分が仕留める必要があると、レヴィンは自信に満ちた目で魔鳥を見つめ口早に呪文を紡ぐ。
自分の体から魔石へと、魔力が吸い取られるように流れていくのを感じる。
意識を集中させるべく握り締めた指先から、知らず体温がなくなり始める。
「!」
ふいに飛んできた壊れた砦の残骸が、呪文を紡ぐレヴィンのこめかみ辺りをかすめて行った。
少しだけ擦れてうっすらと血が流れたが、それでも彼は呪文を紡ぎ続ける。
大きな術を使うには、途中で呪文を止める事が出来ないのだ。
止めてしまうと、そこまで集められた魔力が暴走してしまうためである。
しかし、この場所でまさか聞く事になるとは思ってもみなかった声がレヴィンの耳に届いてしまった。
彼の呪文詠唱が途絶える。
「うーん・・・術ってどうやって使うの・・・?」
「シズクッ!?」
この戦場にいるはずのない少女の声に、思わず反応して声のした方を振り返った。
次の瞬間に、しまったと思う。
杖先に集めた魔力と、途中まで紡がれた呪文の暴走が、杖を通してレヴィンの指先に伝える。
それと同じくして、レヴィンが狙い定めていた魔鳥が大きく羽ばたき、上空で一度大きく旋回した後、真っ直ぐにこちらに急降下しようとする姿を、彼は目の端で捉えた。
魔力の暴走を少しでも押さえ込もうと、レヴィンは意識を集中させた。
せめて、暴走させるなら、あれが近付いた時に・・・
-キシャアアッ
魔鳥の狂喜とも取れる鳴声が響いたのと同時に、レヴィンの持つ杖の先から灼熱の炎が生み出された。
その威力はすさまじく、本来なら対象の敵だけを捉え燃え尽くす紅蓮の炎が、魔鳥だけではなく術士であるレヴィンの身体をも包む。
「くっ・・・!」
魔鳥もまた、急に現れた炎に包まれ怒りの声を上げた。
猛然と炎で包まれた身体を動かすと、焼けた羽が火の粉となって辺りに降り注ぎ、熱風が巻き起こる。
その風を間近でくらったレヴィンの身体が、よろけて数メートル後ろに飛ばされた。
じりっと髪が焦げる嫌な匂いと、肌の焼ける痛みにレヴィンは顔を歪めた。
・・・情けない。
膝をつき、自分の身体を覆う炎を消そうと意識を集中させようとするが、それを怒れる魔鳥が阻む。
自分を焼き払おうとしたレヴィンに我を忘れ、炎で包まれた真っ赤な身体で襲いかかった。
「レヴィンッ!」
離れた場所で指示を出しながら動いていたアーデルが大きな炎の塊に気付いて、声を上げた。
同時に、イズリアの放った矢が燃える魔鳥の身体に数本突き刺さる。
しかし、怒れる魔鳥はそんな些細な痛みには気付きもしないで、レヴィンだけに狙いを定めたまま、鋭い爪が彼の身体を薙ぎ払った。
「ぐっ!」
骨が何本かいったかもしれない。
身体を襲う火傷の痛みよりも、与えられた衝撃に意識が飛びそうになったレヴィンの身体が、砦の周りを囲むように立つ大きな木の幹にぶつかった。
せめて、あれだけでも道連れに・・・
くらりと揺れた視界の中、意識をしっかり保とうと杖を持つ手に力をこめ、痛みに顔を歪ませながら呪文を詠唱する。
そこに再び突っ込もうと羽ばたく魔鳥。
どちらが先か。
口元を歪ませてレヴィンが笑った、直後。
「だめっ!」
魔鳥を睨みつけていたレヴィンの視界に、この場所に不似合いな姿が飛び込んだ。
薄暗い闇に溶けそうな漆黒の髪が、自分の身体を包む炎に照らされて目を奪われる。
いや、奪われてる場合じゃありません・・・!
「シズクッ下がりなさい!」
「嫌ですっ! こんなの、こんなのはダメ・・・!」
咄嗟に目の前の少女に手を伸ばそうとして、レヴィンは自分の身体を包む炎に改めて気付いて、手を止め、ぐっと手の平を握り締めた。
術で生み出された炎は、なかなか消える事はない。
そして、自分の中に残る魔力とせめぎ合い、ゆっくりと肌が焼ける痛みにレヴィンは喘ぐように、大きく息を吐いた。
「シズク、早く逃げてください」
「逃げません! あたしに力があるって言ったのはレヴィンさんじゃないですか。あたし決めたんです。絶対逃げません。だから・・・っ」
言うなり、雫はレヴィンに向かって手を伸ばした。
いきなりの彼女の行動に、後ろに引く事を忘れたレヴィンの手が、雫の手に掴まる。
彼女は迫る熱さに一瞬顔を歪ませ、ぎゅっと目を瞑った。
「お願い、あたしに本当に力があるのなら、今すぐ出てきて・・・!」
「シズク・・・」