異世界 1
長年掛けて築き上げた物程、壊れる時は一瞬である。
「何だあれ?」
見張り台に立つ男は、夜も更け始めた頃、ふと空を過ぎった影に目を凝らした。
星明りが綺麗な夜だった。
もしも雲があれば、男はその姿を見る事もなく、自分が死んだ事にも気付かなかっただろう。
それは本当に一瞬の出来事だった。
「・・・鳥?」
違う。
あれは、鳥は鳥でも、魔鳥だ。
長い尾に人間の五倍はある体長を持ち、その嘴には獲物を引き裂く鋭利な牙を持つ。
本来なら、山の頂上付近で生息する、魔物の一種。
真っ直ぐにこの砦を目指して下降してくるその姿に、男は慌てて警鐘を鳴らした。
だが、その次の瞬間には、その警鐘は音を失くす。
それ以上に大きな轟音で掻き消されたのだ。
男の恐怖で歪む顔諸共、魔鳥はその長い爪で見張り台を凪ぎ崩し、その羽が起こす突風は壊れた残骸を、砦に降らせた。
「何だ!?」
いきなり襲った揺れに、寝る前の酒を嗜んでいた者達は、一様に顔を見合わせた後、部屋の脇に備えられていた武器を手に、慌てて廊下を走った。
地震とは違う、断続的な揺れに足を取られそうになりながら、音と揺れが酷い場所へと向かう。
明らかな異常事態に、武器を持つ手に力がこもる。
突如、男達の走っていた廊下の前方の壁が、横からの衝撃で轟音と共に崩れ落ちた。
慌てて足を止めた男達は、崩れた壁が起こす砂煙に目を凝らす。
同時に、身の危険を感じて、じりじりと後ろに下がる。
「何だ? 何がいる?」
ごくりと誰かが喉を鳴らした、その時。
第二波は自分達のすぐ横で起こった。
吹き飛んできた石の壁が、一人の男の脇腹に当たり、その体は他の者達をも巻き込んで倒れた。
その体の上を、尚も続く衝撃で飛んでくる石の壁の残骸が覆い尽くしていく。
「う、うわああっ!!」
目の前で起こった、いや、起こっている事態に、難を逃れた男は慌ててそこから背を向けて走り出した。
戦うためにこの砦にいる兵士の一人だが、この一本道では危険だ。
そう考えたのかもしれないし、はたまは今の状況に恐怖を感じたのかもしれない。
けれど、その男も次の瞬間には、上から崩れて落ちて来た壁に押し潰されてしまった。
「・・・くそっ。何だあれは」
離れた場所から届く重い地響きに似た音に、ガイウスは自室の窓を開け、音のする方角を確かめた。
微かに聞こえる悲鳴と、嫌に耳に響く高い鳴声に、目を眇める。
壁に立掛けて置いた剣を掴むと、廊下へ飛び出した。
「ガイウスッ中からはまずい、外から回れ」
廊下を数歩走った所で、雫の手を引いたアーデルに出くわし、ガイウスは頷いた。
雫の目が不安そうに揺れているのを見て、彼は先に行くと一言呟き、その脇を走り抜けた。
今の状況が解らない限り、部屋に残しておくのは確かに心配だ。
アーデルが彼女を何処か安全な場所へ避難させてから、来るのだろうと予測がついた。
「ガイさん! グァウディが八匹もいます!」
外へ出た所で、先に状況を確認していたイズリアが自分の姿を見るなり、声を上げた。
三匹くらいなら今この砦に残るメンバーで取るに足らないレベルだった。
それが八匹・・・三日前の戦いのすぐ後に、まさかのこれか。
本来ならこのような場所に降りてくる事はない、魔物である。
ガイウスは、ちっと舌打ちした後、イズリアに付いて来いと顎で合図して走り出した。
イズリアは軽く頷いて、彼に続いて走り出した。
「ガイさん、俺が一匹、こっちに引きつけます」
「ああ」
悲嘆している暇等ない。
確実に一匹ずつ仕留めていくしか手はない。
程無くして辿り着いた惨劇の場所の、倒壊する砦が上げる砂煙の間から見えた魔鳥の一匹に、イズリアは弓を引いた。
それは真っ直ぐに、魔鳥の腹部に刺し込み、それが怒りの鳴声を上げる。
痛みの走った場所を確認もせずに、魔鳥はその大きな体を羽ばたかせて、広い場所で一人立つイズリアの方へと飛来した。
その爪が彼の姿を引き裂く前に、横からの衝撃に地面に叩き付けられる。
「ったく、鳥のくせに固いな」
文句を吐きながら、体勢を整えようとした魔鳥の首に、ガイウスは剣を振り下ろした。
暴れる魔鳥が広げた羽が、風を巻き起こす。
それに飛ばされぬように、一旦攻撃を止め、後方に引いたガイウスを追って、魔鳥が嘴を突き出す。
そこを背後から、イズリアが握り締めた剣に力を込めて、飛び掛りその背に剣を差し込んだ。
魔鳥の悲痛な声が上がりかけた所を、ガイウスがその口中目掛けて、剣を貫いた。
「まず、一匹」
「先は長いですよ」
ぴくぴく揺れる魔鳥の背から剣を抜き取りながら、イズリアが溜息を吐く。
一匹が簡単にやれた事に安堵したイズリアの、一瞬の気の緩みに、彼の体が背後からの突風に飛ばされた。
「うっ・・・わ?」
「油断するな」
「・・・将軍!」
木に叩きつけられそうになったイズリアの体を、アーデルが受け止めていた。
先程仕留めた魔鳥が上げかけた声を聞きつけた、他の一匹がいつの間にか背後に来ていたのだ。
二人を捕らえようと魔鳥の鋭い爪を持つ脚が飛び掛る。
それをガイウスが両手剣を振り上げて、弾き返した。
魔鳥の重さにびりびりと痺れた手を、ガイウスは軽く振った。
「だから、重いんだよ。鳥のくせに」
「明日は焼鳥にしましょう」
「私は遠慮します」
その声と同時に、魔鳥の羽が起こすのとは違う、空を切るような風が三本彼らの横を走った。
レヴィンの風の術だ。
それは魔鳥の羽を切り裂き、大きな羽が辺りに舞う。
体勢が崩れた所を、ガイウスが素早く動いて斬り付けたが、魔鳥もやられてばかりと行かず、傷ついた羽で彼の体を払いのけた。
「そう簡単には行かないな」
ちっと舌打ちして、ガイウスが剣を構え直す。
その少し離れた所で、レヴィンが次の呪文を唱えていた。
遠くで上がる悲鳴と怒号、崩れ落ちる建物にアーデルが眉を寄せる。
早く向こうに行かなければならない。
「イズリアは右に回れ。俺が左に行く」
「はいっ」
俺は正面か、とガイウスはちらりとアーデルを見た。
二人の視線が一瞬重なり、次の瞬間には、三人同時に走り出した。
魔鳥は迎え撃とうと大きく羽を広げる。
「そうはさせません」
レヴィンが一言呟くと、魔鳥の頭部四方向に炎のサークルが現れた。
嘴が大きく開き、炎を掻き消そうとするかのように動く。
だが、それはサークルの一部を消しただけで、次の瞬間には残った炎が魔鳥の首に巻き付いた。
魔鳥の比較的柔らかな喉もとを覆う羽が焼ける。
その痛みに鳴声を上げた体を、三人の剣が切り裂いた。
雫はその様子を木の陰に隠れて見ていた。
辺りは砦の周りに掲げられた灯篭で、比較的明るくなっているとはいえ、夜の闇の中。
彼女の姿に気付く者はいない。
何アレ・・・
アーデルは、その戦闘の場所よりも、ずっと離れた場所で雫に隠れているように言ったのだが、遠くから響く音にいても立ってもいられず、ここまでそっとやって来ていたのだ。
けれど、来なければ良かったと雫の体も心も震えていた。
映画で見たような非現実的な魔物との戦い。
三日前にここに自分が来た時に見たような大きな体を持つ歪んだ魔物の姿と、それに向かう彼らの姿。
あの日、垣間見たのは何もかも終わったような場面だった。
魔物の事よりも、自分がこの世界にやって来たことの方が強く心に残っていたため、雫は今初めてこれが彼らの日常なのだと、その時ようやく理解した。
ここは危険な、異世界なのだと。




