不憫 2
「・・・もういいですよ」
そう声をかけられて、雫はそっと目を開けた。
あたりを見渡すと、あんなにもひどい状態だった部屋が、彼女が初めてこの部屋に入って来た通り元の状態に戻っている。
次いでガイウスの足元に視線を落とせば、そこもまた水に濡れたなど嘘だったかのように、乾いていた。
「凄かったな」
感嘆したように呟くガイウスを見て、雫の目がぱちぱちと瞬きを繰り返す。
彼女には、自分がやったという意識は無い。
ただ、願っただけなのだ。
得体の知れない何か、いや、レヴィンが言った魔術というものを、自分が使ったとは到底考えられず、雫は困ったように眉を寄せた。
「シズク、そんな顔をしないで下さい。これからゆっくり知ればいいんです」
「でも・・・」
「そうだな。術に関しては俺もさっぱりわからん。だが、そんな顔をする必要もないだろ」
ぐりぐりと雫の髪を乱すように、ガイウスは彼女の頭を撫でる。
その手の強さに、彼女がよろめきそうになった時、なんとも情けない声が三人に届いた。
「あの・・・俺、そのままなんだけど・・・」
全身びしょぬれ状態のまま、イズリアが困ったように手を上げていた。
「あ」
忘れていた、というように雫が小さく呟く。
その隣で、ガイウスが耐え切れずに、ぶっと吹き出した。
「イズ坊、いつまでそんな格好でいるつもりだ? さっさと着替えて来い」
「えー!? 俺もっ俺もやって欲しい!」
言うなり、普通の部屋よりは狭い洗面室にイズリアは入り込んだ。
流石に背丈のある男3人と女1人がそんな場所に集まると、更にそこは狭く感じる。
何より、皆、自分を取り巻くように立つため、急に圧迫感が増したような気がして、雫は一歩後ろに下がった。
その頬に少しばかり赤味がさす。
「ね、俺の事も乾かしてよ」
そう言って、イズリアはレヴィンと先程まで合わせていた雫の手を取った。
ぎゅっと握る彼の手は、まだ水分を含んでいて冷たく、その感触をリアルに感じた雫の頬に更に熱が集まる。
急に赤くなった雫を見て、イズリアは、ん? と疑問符を浮かべて、彼女に顔を近づけた。
どうしたの? そう口を開こうとした彼の頭に、状況を見守っていたガイウスの拳が落ちる。
「いってー! 何するんですか!?」
「お前も人の事言えないだろうが」
「乾かすといえば、私も不本意ながら、火と風の術士ですので、私がやりましょうか?」
薄黒さを滲ませ、口元だけで笑うレヴィンに、イズリアはぶんぶんと首を振った。
何だか、危険な予感がする。
「結構です」
「遠慮なさらず。昨日、私の力も別の方法で役に立てるのではないかと、考えたのですよ」
「いや、なんか怖いんで、本当いいです」
両手を上げて、拒否の姿勢を見せるイズリアに、ガイウスがまた笑った。
「やってもらえばいいだろ。レヴィンも二級術士、失敗なんかしないさ」
「ガイさん、人事だと思って・・・」
「シズクも見てみたくないか?」
急に話題を振られ、雫はどう返事を返していいのか解らずに、えっと、と瞬きをしながら、レヴィンとイズリアの二人を見た。
この部屋で全身ずぶ濡れのイズリアの姿は確かに可哀想だ。
しかも、その原因はよくわからないままだが、自分にある。
けれど、自分にもう一度、先程のように乾かす自信があるかと問われれば、答えはノーだ。
そうなると、答えは一つ。
「・・・見てみたいです」
「ええっ!?」
雫の答えに、誰よりも早く反応して、イズリアが驚きの声を上げた。
その目が、助けを請うように彼女に注がれたが、雫はどうしていいかわからず、ごめんなさいと呟いた。
謝って欲しいわけではないのだと、イズリアも困ったように眉を寄せたけれど、意を決したように、深く息を吐いた。
「では、ここは狭いので出ましょうか」
レヴィンが、さっと洗面室から抜け出す。
その後を、渋々ながらもイズリアが続き、ガイウスが戸惑う雫の手を引いた。
素直に自分に従い手をつなぐ彼女の姿を、快く思い、ガイウスは口元を緩ませた。
「そこに立っていて下さい」
レヴィンの言葉に、イズリアは頷くと部屋の中央に立った。
何やら小さくレヴィンが言葉を紡ぐと、イズリアを中心に、火のサークルが現れた。
それだけならば彼らにとって珍しい事でも何でもなかったが、ガイウスの手を握る雫の手に力がこもる。
それを優しく握り返しながら、ガイウスはその火を見つめた。
「本当に大丈夫なんですよね・・・?」
「私もこんな事を試そうとは思ってなかったし、不本意だと先程告げたと思いますが、まあ、たぶん大丈夫でしょう」
レヴィンのなんとも頼りない返事に、イズリアが目を丸くする。
不安を感じ、待ったをかけようとした、その時。
イズリアの体を風が包んだ。
「うわ・・・」
温かな風が、その全身を撫でるように吹き上げ、彼の濡れた水色の髪を揺らす。
「・・・ドライヤー?」
雫が小さな声で、聞きなれない言葉を呟いた。
ガイウスがそれに気を取られ、気持ちいいかも、とイズリアが思った直後。
「ん? ・・・あっちいっ!! 熱いっこれ熱過ぎるっ!」
度を越えた熱風に変わったそれに、イズリアが悲鳴を上げた。
火のサークルの中で吹き荒れる風が、それと同時に消える。
「ああ、やっぱり失敗でしたか」
「っ!やっぱりって、さっき大丈夫って言ったじゃないですか!」
「たぶん、と言ったでしょう。すいませんね」
悪びれた様子もなくそう謝罪したレヴィンに、イズリアが罵りの言葉を吐く。
それを、しれっと受け流すレヴィンの態度に、水色の髪が焦げなかったのを確認しながら、イズリアは更に声を荒げた。
それをぽかんと見ている雫の隣で、ガイウスは呆れたように二人を一笑すると、身を屈めて雫を覗き込んだ。
「阿呆だろ、あいつら」
その中に自分もよく入る事は置いておくとして、顎で言い争う二人を指して笑う。
端正なその顔が今のように笑みを称えると、大抵の女性は声もなくうっとりと見つめてきて煩わしいものだが、目の前の少女は、自分の視線を受けて、どう返していいかわからないというように、小さく眉を寄せる。
ガイウスはそんな雫と繋ぐ手に力をこめた。
「なあシズク。そんな顔ばかりするな」
雫はじっとガイウスを見つめる。
「身構えるな。目の前に馬鹿な奴らがいたら笑えばいい。ただそれだけだろ」
言って、ガイウスは彼女から視線を外すと、いつの間にかこちらを伺っている二人の男に視線を移した。
それに促されて雫も二人へと視線を移すと、レヴィンは馬鹿は心外です、と肩をすくめてみせ、イズリアは見て、と自分の衣服の焦げ跡を引っ張った。
この人最低だから、と顔を歪めて隣に立つレヴィンを指すイズリアの姿を見た後、雫はもう一度、ガイウスを振り返る。
「ほら、笑え」
ぺしぺしとガイウスの手の甲が雫の頬を優しく叩く。
間近で見る深い藍色の目を見つめ、彼女は彼の不遜ともとれる態度の奥にある気持ちに、その時、ようやく気付く事が出来た。
心配、されてるんだ・・・
彼の気遣いが心にすとんと落ちて、雫の口元が笑みを形作った。
それはまだ彼女の心からの笑みよりは、ずっと強張ったものだったけれど、ガイウスは満足して彼女を見つめ、自分も素直に笑みを崩した。
「・・・笑った」
そんな二人の様子、特に雫を見つめていたイズリアは小さく呟いた。
可愛いなぁ。
昨日思った通り、小さい体に不安を一杯詰め込んで、不安定な、可愛い彼女。
自分もその笑顔を近くで見たいと思った時、イズリアの胸が小さく音をたてた。
それは本人も気付かないほど小さく、イズリアはそれを自覚する前に、声を上げた。
「ガイさんがまた泣かすんじゃないかと思って、俺、どきどきしたー」
「・・・お前な」
「だって女を泣かすの、ガイさんの専売特許・・・」
言葉が言い終わらないうちに、ゆらりと黒いオーラを全開にしたガイウスがイズリアに詰め寄る。
「逃げるな」
「逃げますよっ・・・ふぁ、へっくし!」
「・・・遊びはこれくらいにして、イズリアは着替えてきたらどうですか?」
そんな彼らを、雫はいつのまにか自然と微笑みながら、見つめていた。
帰れる時まで、彼らに心配かけないようにしよう、そう心に決めながら。