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53話 闇討ち

 夜、丘の上にある公園。月の光が木々の間から差し込む中、水月はベンチに腰掛けて静かに空を見上げていた。周りは静寂に包まれ、ただ風が軽やかに通り過ぎる音だけが聞こえる。


 水月の前に立つ蘭丸が、ふと彼を見下ろしながら口を開いた。


「行動を控えろと言ったはずだが、お前はそれすらも守れないのか? それと、生臭いぞ」


 水月は小さく息をつき、肩をすくめる。


「さっきまで鯖にまみれてたからね。このニオイはシャワーを浴びないと流石に取れないよ。それに、僕だって巻き込まれるとは思ってなかったからさ。完全に油断してたよ。でも、もし僕がいなかったら多央さんは確実に連れて行かれてただろうから、少しは大目に見てほしいな」


 蘭丸は包帯越しに水月を見据え、その表情には冷徹さが滲んでいた。


「多央『さん』、か……情を移しているわけじゃないだろうな?」


「さて、どうだろう」


 水月は月を見上げたまま、わずかに口元を緩める。


「ほら、僕はそういうのを隠すのが下手だから」


 水月は硬い表情の蘭丸に、もう少し口角を上げたほうがいいと軽く助言する。だが、蘭丸はそれに答えず、静かに息を押し出した。


「糸の力は使ったのか?」


 蘭丸の問いに、水月は足を組み直しながら答える。


「彼の生み出した幻覚から抜け出すために少しね。でも、僕の能力には気付いていないみたいだから、多分平気。とはいえ、だいぶ怪しまれたけど」


 蘭丸はわずかに顎を引き、声音を冷たくする。


「……見抜かれていないのなら構わない。だが、幻覚を操る者は得てして余計な癖を残す。何か、気になる兆候はなかったか?」


「兆候ってほどじゃないけど、目立つ特徴ならあったよ」


 水月は一度視線を宙に彷徨わせ、指先でベンチの縁を軽く叩く。


「飄々としてて、派手なアクセサリーを纏って、まるで輩。けど、何故かスクラブを着てたね。組み合わせとしては不自然だし、たぶん医療関係者か何かだと思う。春夜くんたちが遭遇したっていう仲間も、同じ服装だったらしいし」


「……スクラブ、か」


 蘭丸はその言葉に僅かに反応を見せ、沈黙の中で思考を巡らせていった。


「それと、幻覚の使用者の名前はわからなかったけど、仲間の名前は『丹香(にか)』って人らしい。キャラクターのお面をつけた。知ってる?」


「いや、聞かぬ名だ。後ほど調べておく」


 そう言うと蘭丸は懐から小さな瓢箪を取り出し、無言で水月に差し出した。


 受け取った瞬間、水月は嫌な予感を感じて眉をひそめる。


「これ……まさか」


「ああ、虎龍(フゥロン)の密造酒だ。返却を試みたが、突き返されてな。『俺の酒が飲めねえとは言わせねえぞ水月』と伝言付きだ。すまない」


「いやすまないって……僕は未成年だって知ってるでしょ。捨てたら後が面倒だし……そうだ、蘭丸が引き取れば?」


「遠慮する。虎龍の作る酒はとてもじゃないが、飲めたものじゃない。文字通り喉が焼け爛れる。人の子が飲めば喉が溶け、穴が開き、酒が垂れ流しになるだろうな」


「そんなもの回してこないでよ……はあ、一応持っておくけど、あの人に変なことは言わないでよ」


「心得た」


 ◆◆◆◆◆


 春夜は仲直りした小春とともに、ようやくちゃんとしたご飯を食べることができた。春夜が全員分の料理を作り終えたと思ったら、今度は洗い物を任される羽目に。


 凍呼と小春はその日の出来事を受けて早めに床についた。遠藤茉未は別に疲れていない様子なのに、小春に寄りかかるようにして、ゆるんだ顔で涎を垂らして寝ていた。


 夜も更け、春夜はようやく寝ようとしたが、どうしても自宅に残してきた私物が盗まれてないか気になり、眠い目を擦りながら玄関で靴を履く。


 外に出ようとしたその時、後ろから足音が聞こえてきた。


 振り返ると、意識を失っていたはずの多央が、ヘルメット越しに顔を覗かせながら声をかけてきた。


「子供が深夜に外出なんて、いただけないぜ」


 春夜はその姿を見て、驚きの表情を浮かべる。


「アンタ、生きてたのか」


「ゴホッゴホッ。今さっき、目を覚ましたところだぜ。水月くんには感謝しないと。彼はいるかい?」


「いや、アイツならとっくに帰ったぞ。というか、目を覚ましたならエンマ……エンマミにこのこと伝えねえと。いや待て。そしたら俺が自由に動けなくなるから、アンタはもう一回寝ていてくれねえか」


 春夜は、素性もよく知らない相手に喧嘩を売ったせいで、遠藤茉未から『今は外に出るな』と念押しされていた。特に夜だと、闇討ちに遭うリスクも高い。母の美春が帰ってくるまでは、遠藤茉未の監視下で過ごさなければならない。それが自分の安全を守るために必要なことだと彼自身も理解していた。


 しかし、多央が目を覚ましたことで、思惑が狂ってしまう。もし茉未にこのことを伝えたら、外出するタイミングを逃してしまうだろう。


 春夜はどうにかしてその場をしのごうと、多央に再度寝てくれるように頼むが、もちろん多央がその要求に応じる理由はない。


「なるほど、ここは遠藤茉未さんのお家なのか。なら、彼女にもお礼を言わないと」


「おい待て待て。アイツは今寝てるんだから、わざわざ起こすなよ」


「そうなの? でも、こうしてお世話になったんだし──」


「寝てるやつを起こしても話にならねえだろ。あとで勝手に言っとけ」


「……まあ、それもそうか」


「そういうわけだ、俺は一度自分の家に戻る。アンタはここで大人しくしてろ。まだ体に怠さあるだろ?」


 春夜はそう言うと玄関の扉を開けて外に出た。だが、まだ回復しきっていないはずの多央まで、どういうわけか春夜の後を追い、夜の外へと足を踏み出した。


「おい。アンタ何考えてんだ?」


「外の空気を吸いたい気分でさ。それに、こんな時間に君一人で外を出歩くのは危ないだろう? だから大人である僕が君について行く。保護者は必要だろう?」


「いつからアンタは俺の保護者になったんだよ。しかも、危険度でいったら俺よりもアンタの方が格段に上だろ。水月から聞いたぞ。連中に狙われてんだって?」


 春夜は、水月から各理多央の身の上の事情を聞いたことを伝えた。

 それを聞いた多央は『やっぱりそうだよね』と小さく頷き、『本当なら、居候を決めたその日に話すべきだった』と呟く。そして、申し訳なさそうに春夜へと軽く頭を下げた。


「それに関しては隠してた母さん、あと華火も悪いだろ。どうせ二人のことだ、事情は知ってたんだろ?」


「うん、その通りだぜ。だけど、連中が君たちを巻き込んできたのは……こればっかりは彼らを甘く見ていた僕の責任だぜ」


「責任感じてんだったら頼むから今は大人しくしてくれ。自分の身は守れても、アンタまでは庇いきれねえぞ。俺はそれほど強くはねえ」


 多央を下手に連れ出して、また連中に捕まったりしたら洒落にならない。ましてや、自分が連れ出したせいで居なくなったりでもしたら、それこそ責任が重すぎる。どうにかしてこの家に閉じ込めようとしたが、多央は予想以上に頑固だった。


「ゴホッゴホッ、ぼ、僕を外に連れ出す気がないなら、遠藤茉未さんを起こして君の外出を阻止するけど、大丈夫?」


 そう言って、多央は揺さぶりをかけてきた。


「なにが大丈夫だ。居候のくせに俺の行動を邪魔しようしてんじゃねえ。けど、そこまで言うなら自己責任だぞ。俺についてくるのは構わねえが、奴らに捕まっても決して俺のせいにするんじゃねえ」


「お、いいね。僕の求めていた答えが返ってきたぜ。僕たち、もうだいぶ心が通じ合っているんじゃない? 親友といっても過言でないのでは」


「過言だろ。連れ去られた際に頭でも打ったか?」


「頭は打っていないけど、君たちが助けに来てくれた事に心は打たれたぜ。僕のようなお兄さんに手を差し伸べてくれる子が実在するだなんてね……」


 多央は静かに俯き、子供たちが自分のために動いてくれたことを噛みしめるように息を震わせた。涙は見えない。それでも、微かに漏れた息が、彼の胸に去来する感情の深さを物語っていた。


「え、嘘だろ。泣いてんのか? やっぱ年取ると涙腺がもろくなるって本当なんだな。というか、今自分のことをお兄さんって……アンタ、母さんと同じ年齢なんだろ? だったらお兄さんじゃなく、おじさんじゃねえか」


「いいや、僕は君たちのお兄さんだぜ。だからいつでも『多央兄さん』と呼んでくれ。僕はいつでも待ってるぜ」


「その年でお兄さんは無理があるだろ。外見がそこまで老けてないにせよ」


 美春ですら凍呼におばさんと呼ばれているのに、母親と同い年の多央が『お兄さん』と呼ばれるのを望むのは、さすがに無理があるだろう。母親も母親で、息子の嫁を望むような強気な性格だし、遠藤茉未も小春に心酔している。こうしてみると、この世代にはまともな人間がいないのではないかと思えてくる。


 そんなこんなで二人は夏出の家に戻り、春夜は私物が盗まれないよう、持ち運びが不可能で、血液認証が必要な強固な金庫に貴重品をすべてしまい込んだ。各理多央は、居候している部屋で何かを探しているようだった。


「こっちは終わったぞ──あ? なんだ、探し物か?」


「うん、ちょっとね。確かこの辺に落としたと思ったけど……おっ、これこれ! あったぜ」


 多央が手にしたのは、少し色あせたタコのストラップだった。見るからに年季が入っていて、どこか懐かしい印象を与える。


「妹の多子が中学生の時にくれたやつなんだぜ。『町を出ても私のこと、ちゃんと覚えていてね。元気でね』ってさ」


「……ふーん、なるほどな」


 春夜がちらりとストラップを見た。


「タコと多子、名前が似てるからって選んだらしい。『どんなに離れてても、これがあれば寂しくないでしょ?』って、得意げに渡してきたのを覚えてるよ」


 多央はヘルメット越しにストラップを弄びながら、軽く息をつく。


「まぁ、その時は『こんなもので寂しさが紛れるのか』って疑問だったけど、気づいたらずっと持ってるんだよね」


 多央は外の空気を吸いたいと言って春夜に同行したが、実のところ妹からの贈り物を取りに戻るつもりだったのではないか──春夜はふと、その可能性に思い至った。


「なんだよ、結局アンタも私物が盗まれてないか気になってたんじゃねえか。外の空気を吸いたいとか言わずに、素直にそう言えばいいだろ」


「外に出てリフレッシュしたかったのは本当だぜ。ただ、君のわがままに便乗したのも事実。僕は立派な大人だし、子供みたいに振る舞うわけにはいかないからね」


「その言い方だと、俺がガキみたいじゃねえか。それにアンタは立派とは程遠いだろ。高校生の世話になってるようじゃな」


「あれ、おかしいな。なぜか反論できないぜ」


 目的を果たした二人。そういえば、この家の配管修理をチビヤクザに任せきりだったが、あの男はちゃんと仕事を終えて帰ったのだろうか。春夜はキッチンに立ち、水道とコンロの動作を確認する。どちらも問題なく使えるようだ。


「こんな時間に料理でも始めるのかい?」


「さっき散々作らされたんだ、しばらく料理はしねえよ。それに、まだ部屋が全然片付いてねえだろ。照明もやたら明滅してるし……母さんが帰って来たら手伝ってもらうか。今度は部屋が荒らされる心配はないだろうしな」


 これまでは部屋を綺麗に掃除しても、小春がすぐに荒らしてしまうため、無駄なことのように感じていた。しかし、小春と仲直りした今なら、荒らされる心配もなく掃除ができ、気兼ねなく業者も呼べる。心が前よりもずっと軽い。


「今度は? ……ということは、遂に小春ちゃんと仲直りできたのかい!? じゃあ二人は温かいご飯をようやく食べることができたんだね? うんうん、よかったぜ!」


 多央が眠っている間に起こった出来事だったため、二人が仲直りしたことを知らなかったが、春夜の言葉からそれを察し、心から嬉しく思った。


「なんでアンタがそんなに喜んでんだよ、親か。それに温かいご飯って、俺が作った飯だぞ。まあ、久々にまともなもん食えたから、俺も小春も思わず涙しちまったが……墨はやっぱり不味いんだな」


「ゴホッゴホッ、何を当たり前のことを。けど、本当、安心したぜ。二人は変なところで素直じゃないから──って、まだ付き合いの浅い僕が言っても説得力ないかな?」


「……いや、アンタの言う通りだ。俺と小春はお互い意地になってたからな。それに、小春が怪我せずに済んだのは……その、一応、感謝してる」


 素直じゃないと言ったそばから感謝の言葉を口にする春夜。彼の性格を考えれば、感謝や謝罪が軽々しく出るはずもない。それを理解していた多央は、内心大いに驚かされた。


「あ、あはは……一応、聞くけど仲直りできたのは小春ちゃんが歩み寄ろうとしたからで合ってるよね?」


 思わず念を押す。春夜が自分から謝る姿を想像できなかったわけではないが、どうにも現実味がなかった。


「おい、なんだよその反応。確かに小春が先に謝ってきたことで和解もでき、肩の荷がおりたっていうか、色々と楽になった部分も大きいが──」


「そ、そうだよね!」


 多央は勢いよく頷いた。

 そうじゃないかと思っていたが、もし春夜が自発的に謝っていたのなら、それはそれで事件だった。


「いやあ、君たちが仲直りしたところを直接目にしたわけじゃないから、春夜くん自ら率先して謝ってたらどうしようって思ってたところだぜ」


「クソ失礼じゃねえか! アンタの中で俺はどんなイメージなんだよ? まさか、頑固で融通の利かねえ偏屈野郎だとでも思ってんのか!?」


「ごめんごめん。すごく偏屈な子だとは思っているけど、それ以上に家族のことを大事にできる優しい子と思っているぜ。美春ちゃんも二人が仲直りできたって知ったら、泣いて喜ぶんじゃないかな?」


 茶化すような言い方ではあったが、多央の言葉に揺るぎはなかった。

 泣いて喜ぶのは少し大げさかもしれないが、子供たちに対する愛情の深さを考えれば、美春がそれくらいしてもおかしくはないだろう。むしろ泣いて喜び、暴れ回る姿が容易に想像できた春夜は、思わず顔を青くした。


 すると、不意に多央の腹の鳴る音が響いた。


「なんだ、腹減ったのか?」


「そうみたいだ……あはは。今日はいつも以上に動き回ってエネルギーを使ったから、体が食べ物を欲してるみたいだ。というわけで、春夜くん、頼んだ! 僕のためにご馳走を振る舞ってほしいぜ! できれば、僕の好物の素甘を!」


「図々しいな! さっき料理はしねえって言ったばかりだぞ!? しかも素甘はご馳走とは呼べねえだろ!」


 春夜の容赦ないツッコミにも、多央は気にした様子もなく笑っている。


「いいじゃないか、ご馳走の定義なんて人それぞれだぜ?」


 まるで屁理屈をこねるように言いながら、多央はのんびりと椅子に腰を下ろした。どうやら本気で作ってもらう気らしい。


「……はぁ、ったく。アンタ、本当に年上か?」


 春夜は呆れつつも、仕方なく冷蔵庫を開けてみるが、当然のように素甘など入っているはずもない。代わりに目に入ったのは、墨と水。ここ最近の食事が全て墨だったせいで、他の食材はすっかり姿を消し、冷蔵庫の中はありえないほど真っ黒になっていた。

 居候の多央もまともに食事をとらないため、彼のために振る舞う食材も残っていない。


「素甘で使う材料は、砂糖と水……あとは上新粉だったか?」


 春夜が呟くと、即座に多央が口を挟んだ。


「春夜くん、食紅を忘れてるぜ」


「食紅なんかあってもなくても味は変わらねえだろ。だから食紅は要らん」


 春夜の軽率な発言に、多央の声に力がこもった。まるで素甘に対する情熱を語るかのように、彼の言葉が続く。


「なんて失礼なことを言うんだい! 素甘は、柔らかく上品な印象を引き出す優しい桜色あってこそじゃないか! 今の発言は素甘に対する冒涜だぜ」


「めんどくせ。どのみち、うちには食紅も上新粉もないから素甘は作れねえぞ。この時間にやってる店ももうないだろうし。どうしても素甘が食いたいなら、エンマの家に戻ってからだ。あそこの家主は普段料理なんてしねえくせに何故か食材だけは揃っているからな」


 遠藤茉未は、小春にいい顔をするため、自分を「料理好きな女」だと印象づけようとしている。


 そのため、頻繁に食材を買い込み、その様子を毎度のように小春に見せつけていた。

 しかし、実際には料理などほとんどせず、買った食材は放置されるばかり。当然ながら、消費期限が迫れば無駄になる。


 そこで彼女は、食材がダメになりそうなタイミングを見計らい、美春や春夜を呼びつけては、数日分の料理を作らせる──という、とんでもない女だった。


 だが、今回ばかりは好都合だった。

 珍しく多央が料理を作ってほしいと頼んできたのだ。ならば、一度くらいは構わない。


 どうせなら、遠藤茉未の家にある食材を余すことなく使い尽くしてやろう。

 ついでに、彼女への嫌がらせも兼ねて。


 春夜は不敵な笑みを浮かべながら、そんなことを考えていた。


 そして二人は遠藤茉未の自宅へ向かい、夜の道を歩く。


 こんな時間では人の姿もなく、街灯も少ないため、あたりは暗闇に包まれていた。多央を狙う者がまた現れないとは限らない。春夜は青い右目を光らせながら警戒し、慎重に進む。


「春夜くん、いくらなんでも警戒しすぎじゃないかい? 行きは平気だったんだ、帰りもきっと大丈夫だぜ。その力を使ったら美春ちゃんに怒られるんだろう?」


 多央がふと口を開く。その声音は気楽だったが、春夜を気遣う色がにじんでいた。


「バレなきゃ怒られないから別に問題ない。ったく、そんな調子でよく今まで生きてこれたな。知っての通り田舎の夜は視界最悪、周囲に人はいねえ。俺がアンタを狙う立場だったら、これほど絶好な機会は逃さねえぞ」


「そうだけどさ。僕はずっと追われ続けてきた身だ。それはもう国際指名手配でもされてるのかってレベルでね。だから、生まれ育ったこの町くらいは、ゆったりとした時間を過ごしたいんだ。もちろん、この油断が君に負担をかけているのは理解しているけど……いいだろう?」


「……はあ、調子狂うな。けど、アンタの身に何か起きたら絶対に俺が責められる。それだけは避けたいから、用心はしとけ。まあ、アンタの要望にはなるべく応えてやるからよ」


 普段の春夜なら、家族以外の頼みを聞くことなどありえない。だが今は、多央のために右目の能力まで使い、らしくもない振る舞いをしていた。

 静かに青い瞳を彼へと向けると、多央は意外そうに目を細める。


「春夜くん、変なものでも食べた?」


「食べてねえよ。……あ、いや、さっきフグの肝臓食わされたな。エンマが『捨てるのは勿体ない』とかほざきやがったから」


 さらりと告げる春夜に、多央の表情が引きつる。


「ゴホッゴホッ! さらっと言ってるけど、それだいぶヤバいぜ。よく平気で歩いていられるね。遠藤茉未さんの無茶振りは今でも健在なんだ」


「命を落としかねない無茶振りを生徒にさせる教師は、一刻も早くくたばって欲しいけどな」


 春夜のぼやきを聞き流しつつ、多央は考え込むように首を傾げる。


「それにしてもフグかぁ。僕が寝てる間に随分豪勢な食事を楽しんだんだね。フグを捌く君の姿を近くで見たかったぜ……調理師免許を取るのは大変だっただろう?」


「免許? そんなもん俺が取ってるわけないだろ。無免許だ、無免許。フグを捌くのにわざわざ免許取らないといけねえとか、非効率だろ」


 あまりに堂々とした言い草に、多央は思わず立ち止まる。


「それが許される世界線……恐ろしいぜ」


 そうこうしているうちに、遠藤茉未の自宅マンションが視界に入った。しかし、春夜はふいに足を止める。


 青い右目が捉えたのは、見覚えのある二つの影だった。

 ひとつは、先ほど自分のスカジャンを盗んだ男。

 もうひとつは、アニメキャラクターの仮面をかぶった、男か女か判別もつかない人物。


 どちらも忘れがたい存在であることに、嫌でも気づかされる。


「ほら、やっぱり出やがった」


 低く呟いた春夜の声に、多央も足を止める。


「ゴールはもうすぐそこだけど、簡単に通してはもらえないようだね。どうする春夜くん?」


「どうするって、そりゃあ──ここに泥棒がいまあああす!! 誰か助けてくださあああい!!」


 何をするのかと思えば、いきなり大声を上げて助けを求める春夜。

 その声が遠藤茉未に届けばそれでいいし、最悪、誰かの目に触れ騒ぎになったとしても構わない。

 状況が好転する保証などないが、何もしないよりはずっとマシだった。


「ハッ、やっぱコイツいかれてやがる」


 その声に、スカジャン泥棒は小さく鼻で笑った。

 挑発にも似た春夜の行動を、愚かだとでも言うように口元を歪める。


 対して、仮面の人物は微動だにしない。

 反応を返すことなく、ただ無機質にそこに立ち尽くしているだけだった。


「イカれてんのはお互い様だろ。というかそこの仮面、丹香っていったか。お前そんな顔してたんだな、性別は……なるほどな」


 春夜の言葉に、仮面の人物は一切反応を示さなかった。アニメキャラクターの仮面が、その顔を覆い隠している。仮面の表情は笑っているように見えるが、それが本当の感情を反映しているのかは、春夜にはわからない。


 右目を鋭く光らせ、仮面の下に隠された顔を透視するが、目に映るのはただ笑みを浮かべた仮面だけ。隠された感情や動きは一切読み取れず、その不気味さが春夜をさらに不安にさせる。


「春夜くんのその目は透視もできるのかい?」


「透視どころか幽霊だって見ることができるが……アイツの額にある焼印のような黒い痣、あれは一体なんだ? 見ているだけで気分が悪くなる」


「黒い痣?」


「ああ、鋭い刃が絡み合うような円の中に、歪んだ星が沈んでる感じ、まるで紋章だな。それにあの形、どこかで見たことがあるような……駄目だ、頭痛え」


 春夜が言う黒い痣。それには何とも悍ましい力が働いていて、直視するとどうも頭が痛くなる。まるで悲痛な叫び声が脳に直接響いてくるような。春夜は体に不快感が走り、反射的に丹香を避けるように視線を外した── が、もう一人の男の右肩にも、同じ黒い痣がはっきりと見える。それを確認した瞬間、春夜はすぐさま透視の能力を解除した。


「てめえら、永遠の愛でも誓い合ってんのかよ? 気色悪い痣でペアルック決め込んでんじゃねえよ」


「覗きが趣味のヤツに言われたくねえな。俺はコイツと何度かメシを食ってるが、素顔は一度も見たことがねえし、同じ印が額にあるのも今初めて知った。顔に仮面が張り付いてるからな。……で? 丹香は今どんなツラしてんだ? 相方の機嫌くらい知っときたいんでな」


「相方の機嫌? ハッ、誰が教えるかよバーカ!! 知りたけりゃ、その半端な両目で確かめやがれ! 夜にサングラスなんかかけやがって、気取ってんじゃねえよバーカ!」


 相手に自分より劣っている部分があるとわかるや否や、春夜は小学生レベルの稚拙な悪口と中指を突き立てて全力で相手を罵倒した。あまりに直球で低俗な侮辱に、男も対応しきれなかったのか、こめかみに浮かぶ血管を必死に抑えている様子が見て取れた。


「丹香、あのクソガキ今すぐに潰してやろう」


「ああ。私の顔が見られた以上、このまま帰すわけにもいかない。もとより──この場での標的は『箱』ではなく、夏出春夜、貴公だ」


 そう告げた瞬間、丹香は迷いなくデーザー銃を春夜に向けて引き金を絞った。

 だが、物の動きを予見する右目を持つ春夜にその弾が届くはずもない。僅かな動きの先を読み、軽く身体を逸らすだけで避けてみせる。


「はい、残念でしたー。さっきその銃で俺に撃たれたの根にもってんのかー?」


 そう呟きながら、春夜は懐から手榴弾を取り出すと、二人に向かって軽やかに放り投げた。


 次の瞬間、破裂音が夜の静寂を引き裂く。

 鼓膜を割らんばかりの轟音があたりに響き渡り、マンションの壁が軋むような震動さえ伝わる。

 爆風の熱気と煙が渦を巻き、視界を遮った。


 ──その混乱を、春夜は既に計算済みだった。


「この隙に行くぞ! これだけ騒げば、エンマも目を覚ましたはずだ」


 春夜は、2対2の戦いよりも、凍呼や遠藤茉未といった波山羊町の最高戦力を相手にぶつけたいという思いが強かった。自分が無駄に疲れることなく、圧倒的な力で相手が屈服する瞬間を見たいという欲求が、行動の裏に渦巻いている。この場で戦いを続けることは得策ではない。手榴弾で爆散してくれるのは望ましいが、それでも今は逃げるのが最良だと判断し、すぐに多央に声をかけ、遠藤茉未の自宅へ向かって駆け出した。


「春夜くん、何であんな危険な物を持っているんだい!? ゲホッゲホッ! け、怪我をしたら大変だぜ!」


「母さんの仕事道具から拝借してきた。使い方は見れば何となくわかるし、俺はあんな物で自爆するほどアホじゃねえ」


 春夜は青い右目で爆発現場を確認する。爆炎をまともに浴びた二人が地面に倒れ伏しているのが見え、これで安全圏まで逃げ切れると踏んだ──しかし、次の瞬間、その目が異常を捉えた。


 コンクリートの足場が突如として泥のように崩れ、足元を奪おうと蠢く。さらに空から無数のイナゴが降り注ぎ、視界を覆い尽くす。身の毛もよだつ光景だった。だが、冷静に分析すればそれは全て幻。


 見通せるはずの右目がもたらす過剰な情報に気を取られ、春夜は肝心な現実への注意を怠っていた。


 背中に、鋭く焼けつくような痛みが走る。振り返ると、切れた電線が彼の背に触れていた。


 ビリビリと全身を駆け巡る痺れと、焼け焦げた匂いが鼻を突く。

 足元がぐらりと揺れ、視界が白く霞んでいく。

 右目ですら像を結ばず、ただノイズのような光が瞬いているだけだった。


「それは卑怯だろ……」


 歯を食いしばったものの、膝が崩れ落ちる。

 手をつくこともできず、まるで糸の切れた人形のように、春夜は地面に倒れ込んだ。

 あっという間に意識が暗転していく。


「春夜くん!?」


 あと一歩で逃げ切れるというところで、春夜がダウンした。多央はすぐに駆け寄り、彼の体を支えようとしたが、その隙を突くように丹香たちの手が伸び、春夜はあっさりと奪われてしまう。 結局、手榴弾で吹き飛んだように見えた光景も、奴らの作り出した幻だったというわけだ。


 その時、マンションのエントランスから寝巻き姿の遠藤茉未が現れる。眠気と苛立ちを隠そうともしない表情。その理由は明白で、春夜の引き起こした騒動で深夜に叩き起こされたからだ。しかも、被害者は彼女一人ではない。周囲の住宅も次々に明かりが灯り、窓から外を覗く影が見える。


 多央は顔を引きつらせながら、慌てて声をかけた。


「遠藤茉未さん……春夜くんが……!」


「各理? なんでお前がこんなところに……体は平気なのか? それに春夜って……おいまさか、アイツのわがままに付き合って外に出たのか? ったく、あのバカは。絶対に家を抜け出すと思っていたが……肝心の奴はどこにいる。説教してやる」


「え……?」


 多央は周囲に視線を走らせたが、春夜の気配は消えていた。

 丹香たちは各理多央の人脈を事前に把握しており、遠藤茉未を相手にするほど無謀ではない。彼女が現れた時には、もう影も形も残していなかった。

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