52話 謝罪
多央と水月がなぜあの男に狙われていたのか──その理由を詳しく聞くため、春夜たちはひとまずこの町で最も安全と言える場所へ向かった。
それは2年Pu組の生徒を受け持つ遠藤茉未のマンション。
遠藤茉未は、およそ人とは思えぬ力を持つ、春夜が知る中で最も強い女。だが、そんな彼女がそう易々と家へ上げてくれるとは思ってもいない。そこで、彼女がこの世で最も愛する妹・小春を利用し、大人数で押しかけたというわけだが……
「小春ちゃんこはるちゃんコハルチャンがぁ〜! 私の家で私の吐き出した二酸化炭素を吸っているんですけどぉ〜。そして私は小春ちゃんの排出したCO₂を一気に体に取り込むぅ〜。あぁっ、もうここ最近の疲れが一瞬で吹き飛んだわ」
紅潮した遠藤茉未の寒気がする言動に見下すような視線を向ける春夜。
「キモいな。本当に教師か?」
「はあ? 何を当たり前なことを。現にこうして困っている可愛い教え子に救いの手を差し伸べてるんだ。こんなにできた先生が他にいるか?」
「自己評価高えな。可愛い教え子って思ってもねえこと口にすんな」
小春の前ではいい顔をする遠藤茉未にうんざりしたように息をつく春夜。
「にしても小春の写真ばっか飾ってあるな。こんな顔だらけの部屋に居続けたら気狂うだろ」
茉未のインテリアは独特だった。壁一面に飾られているのは、小春の写真だけではない。彼女を描いた絵画が額縁に収められ、整然と並んでいる。その光景は、まるでストーカーの部屋のような異質さを放っていた。
春夜は悪気なく「気が狂う」と口にしたが、それを「小春の顔が不快だ」と受け取った当の本人は、喧嘩中ということもあって殺意のこもった視線を向けてくる。
春夜は肩をすくめ、ため息まじりにぼやいた。
「客観的意見を述べてこれか。やりづれぇ」
「今のは完全に春夜、お前が悪いぞ。まったく小春ちゃんと喧嘩だなんて、貴様は自分が兄である自覚がない! 私だったら小春ちゃんを傷つけるなんて絶対にしないし、むしろ小春ちゃんに従順な奴隷にだってなれる! なあ小春ちゃん、今からでも私の家に住まないか!? いや、住んでください!!」
茉未は鼻息を荒げ、興奮気味にソファへと身を投げ出すや否や、小春の隣にすかさず滑り込み、勢いよくその両手を握りしめた。
「あ、あはは。すごいね茉未ちゃん。けど、それはまたの機会にしてくれると嬉しいや」
ぐいぐいと迫る茉未に、小春は戸惑いながらも彼女の誘いをやんわりと断った。
「ところで多央さんの様子はどう?」
この場所に運ばれてから一度は目を覚ましたものの、すぐに再び意識を失ってしまった多央。小春はそんな彼を心配しながら、別室で静かに寝かされている様子を気にかけていた。
「本当ならすぐにでも病院に連れて行きたいところなんだけどね。でも、この町の病院じゃ多央さんの状態を改善するのは難しいだろうから。一応、ご家族には連絡を入れたよ。妹さんが明日の朝にはこの町に戻ってくるってさ」
先程まで水月の頬の傷口からは、止めどなく鯖が溢れ続けていた。しかし結局、小春は水月の傷口を治す手段を見つけられなかった為、彼は凍呼の力──正確には、彼女の中に宿る妖怪・廉禍の力を借りることにした。
凍りつく痛みに顔をしかめながらも、傷口を凍結させ、強制的に傷口を塞ぎ、鯖が出るのを食い止めた。ようやく一息ついた水月は、片手に携帯を持ちながら、小春に向かって口を開いた。
「にしても、宇宙服を着た不審者が各理多央だったとはなー。しばらく波山羊町を離れていたって聞いたが、どういう風の吹き回しで戻ってきたんだ? やっぱり地元が恋しくなったとか?」
「先生は多央さんのこと知ってるんですか?」
「そりゃあなぁ。クラスは違かったが、同じ学校に通っていたから顔と名前くらいは知っている。それに各理は食べ方が少し特殊で有名だったんだ。何を食べるにもストローを使うから、ついたあだ名は『蚊』」
「蚊って……え。いじめられてないですよね?」
水月は、多央の食べ方に癖があるせいで、からかわれたり、いじめられたりしていなかったのかと尋ねる。
しかし、茉未によれば──当時、多央の友達の中には、いろんな意味でやばかった春夜と、小春の母・夏出美春の姿があった。
しかも、この頃の彼女は一度目をつけた相手には容赦がないことで知られていた。
そんな彼女の存在もあってか、多央にちょっかいをかけようとする者は、一人としていなかったという。
「確かに、あのメシの食い方は蚊と言われても不思議じゃないが……それより母さんは、本当にクソヤンキーだったのか?」
「いや、ヤンキーではないが……まあ、色々とな。とてもじゃないが私の口からは言えない。聞きたけりゃ、自分で聞くんだな。もっとも、美春があの黒歴史を自ら語ることは絶対にないだろうが。こ、小春ちゃんもどうか私に聞かないでくれよ! 私が美春の過去を許可なく喋ったりしたら、一体何をされるか……」
あの、誰に対しても物怖じしない遠藤茉未が、美春の学生時代の話となると青ざめ、口を強く結び、わずかに震えている。
普段ならどんな相手にも堂々としている彼女が、ここまで露骨に怯えを見せるなど、あり得ない光景だった。
しかし、これだけ含みを持たせた態度を取られると、かえって母の過去が気になって仕方がない。
「うちにお母さんの卒アルどころか昔の写真がまったくないのはそういう事だったんだね。見たかったなー、昔のお母さん」
「写真がない理由は他にもあるが……で、でもまあ、美春は昔から可愛かったんだぞ! そこは保証する! うん、だからこの話はもう終わり!」
「えぇ、終わらせちゃうんですか茉未先生。せっかく、おばさんの弱みを掴めると思ったのにー」
「いくら美春からのあたりが強いからといって、正気の沙汰じゃないな凍呼。美春の過去は弱みではなく、寧ろ過去を知ってしまったが最後。乳を『完全に』もぎ取られることになってしまう」
「完全に……今まではもげそうなくらい強く引っ張られることはあったけど、過去を知ったら完全にまな板確定。だ、だったら今は弱み握るのやめちゃおっかなー。アッ、アハハー」
美春の過去が弱みにならないとわかるや否や、凍呼はそっと目を泳がせ、この話を聞かなかったことにしようとする。
「そもそも、凍呼はそんなに胸ねえだろ」
春夜のデリカシー皆無な一言が落ちた瞬間、部屋の温度が数度下がった。
「……はい?」
凍呼の眉がぴくりと動き、唇が引き結ばれる。
その隣で小春が「えっ、えぇ……」と困惑し、茉未に至っては「こいつマジか?」という顔で春夜を見下ろしていた。
「お前、女に向かって言っていいことと悪いことの区別もつかないのか?」
「さすがに無神経すぎる。こんなのが兄なんて心底ガッカリだよ」
茉未と小春の冷え切った視線が突き刺さる。
「うん。それで、俺のスカジャンを盗んだ野郎は、あの居候のタマを狙ってんだって? 二つともか?」
「おい、話逸らした上に、とんでもない下ネタぶっこんできたぞコイツ」
茉未が、呆れた顔をしながら春夜に向かって吐き捨てるように言った。
だが、ここにいる女性陣を同時に敵に回すのは、どう考えても厄介だ。春夜は、こういうときの判断だけは異様に早かった。
「春夜くん、ふざけるのはやめようか。君の想像しているタマは誰一人として狙ってないからさ」
多央がこの町に戻ってきた理由。そして、スカジャンを羽織った男がなぜ多央を狙ったのか、水月はすでにここにいる全員に説明をした。
多央自身はその事実を伏せるべきだと言っていたが、事態が事態だけに、隠し事は無理だと判断した水月は、今後の対応を考えるためにも、事情をすべて打ち明けることを選んだ。
「茉未ちゃんはこのこと知ってた?」
「当然、私が知るわけない! 私と各理は別に仲のいい関係ではなかったし、昔の各理はこんな目立つスーツを着ていなかったからな。けど、美春はおそらく事情を知ってて、家に上がらせたんだろうな。あーあ、私も入りてえなぁ、小春ちゃんのお部屋」
「また言ってる」
夏出家の話になるたび、小春の部屋に行きたいと言い出す茉未は相変わらずだ。
「母さんも母さんだよな。こんな大事なことを俺たちに伝えずに仕事に行っちまったもんな。しかも華火は音信不通だし……あの兎、マジでどこで何してんだよ。職場にも姿を見せてないって、これ確実にどこかで野垂れ死んでんだろ」
春夜の何気ない一言に、凍呼はふと表情を曇らせた。
「華火さんも多央さんの事情を知ってそうな感じだったの?」
「知ってそうっていうか……あの二人は医者と患者のような関係って前に言ってたからな。むしろ華火がその辺の事情について一番詳しいんじゃねえのか──あっ! だから連中に消されたのか!?」
無神経な発言の連続に、凍呼はそっと瞼を閉じた。
春夜に悪気がないのはわかっている。それでも、華火が本当に行方を絶っている今、この言い方はあまりにも思いやりがなさすぎる。まあいつものことではあるが……
「なあ水月、さっきのムカつくチャラ野郎はお前に幻覚を見せてきたんだよな?」
「え、うん、そうだよ。僕と多央さんは、彼の作り出した世界に閉じ込められたんだ。幻とはいえ、感覚は確かにあったよ。向こうで食べさせられた鯖の煮付けも、ちゃんと味がしたし……ヘリでミサイルを撃った感覚は、今でもこの手に残っているよ」
「なんだそれ、楽しそうだな」
「まあ、君は好きそうではあるよね。でも実際は、ヘリの揺れはすごいし、竜の迫力はとんでもないしで、命がいくつあっても足りない状況だったよ」
「竜も出てきたのか!?」
幻覚で竜まで見せてくれると知り、急に少年のように声をあげる春夜。実際に体験していないからこそ、こんなに呑気に言えるのだ。
今でこそこうして話せているが、あの状況は二度と経験したくない──そう思いながら、水月は別室にいる多央に視線を向けた。
「けど、よくそんな世界から戻って来れたね。私だったら、その世界が幻覚だって気づく前に力尽きちゃうよ。水月くんがあの人の能力を打ち破ったの?」
「あはは……ま、まあね」
水月は、凍呼の問いかけに対して笑って誤魔化したが、内心では僅かに胸の奥が強張る。自分も異能を持っていることを、皆には隠している。ここで下手に深掘りされるわけにはいかない。
だが、他人の嘘に敏感な春夜の目が、ふと細まる。
「どうかしたのかい、春夜くん」
「……お前、嘘だろ?」
少しの沈黙の後、春夜が水月をじっと見つめながら言った。
「え、嘘?」
水月はわざと間の抜けた声を出し、春夜の言葉を受け流そうとする。だが、春夜の視線は揺るがない。
「何の力も持たない、顔だけのひ弱が能力者に太刀打ちできるわけないだろ。もし太刀打ちできたとしても、それは相手がバカ弱いだけであって……俺の目にはあのクソ野郎がそんな風には映らなかったぞ? どうせ居候の力を借りたんだろ? あのスーツには色々と秘密がありそうだしな」
「あっ、そっち?」
水月は一瞬驚き、思わず口をつぐむ。春夜に自分が能力者だとバレたかと思ったが、そうではなく、むしろ自分の言葉をそちらに向けられたことに安堵の息を漏らす。
「なんだよ、そっちって」
「ああ、いや。君は相変わらず手厳しいなあって。でもそうだね。僕は多央さんのサポート役を徹していただけだから、自分が何かをした気になっていたのかもしれないね」
「おお、急に大人な対応してくるとか、俺が悪役みたいになるからやめろよ」
この言葉を聞いて、茉未は冷静に思った。今更、春夜が何をしようと、その悪いイメージが払拭されることはない。それがわかっていないのか、春夜は一体どんな反応を期待しているのか。
「悪役以前にお前はもう手遅れだろ。色々と」
「う、うっせえ! 暴力こそ全てだと勘違いしてるアンタには言われたくねえ!」
「それで、お前たちは今日うちに泊まっていくのか? もちろん小春ちゃんは大歓迎だぞ!!」
「だから無視すんな!」
言うだけ言って、こちらの意見は耳にも入れないことに、春夜は声を荒げる。
「すみません、先生。今日は色々とありすぎて、少し頭を整理したいので、僕は帰ります。また明日、多央さんの様子を見に行きますね」
「水月さんは帰っちゃうんだ、残念。トッコはどうするの? 茉未ちゃんの家に泊まる?」
「私? えっと、闇討ちに遭うのが怖いから、茉未先生と一緒にいようかな。は、春夜くんも──そ、そばに居てくれるよね?」
先程の男の素性がわからない以上、帰り道、一人になったところで襲われる可能性も否定できない。そこで、凍呼は茉未の家に泊まる意を告げると同時に、さりげなく自分の想い人にもそばにいてほしいというアピールをするが……
「何言ってんだ。俺は帰るぞ。これ以上、俺の部屋から物が消えるのは我慢ならねえからな。自分の物は自分で守る」
「あ、そっか……うん、そうだよね。」
ほんの少し、寂しそうに目を伏せる凍呼。しかし、すぐに気を取り直したように笑みを作り、何事もなかったかのように茉未の方を向いた。
「じゃあ、私はお邪魔しますね、先生」
「はいよ」
茉未は軽く頷くと、ちらりと春夜の方を見て、まるで当然のように言い放つ。
「春夜、お前も泊まれ」
「は? なんでだよ」
不服そうに眉をひそめる春夜に、茉未はわざとらしくため息をついてみせた。
「各理を狙ってた奴は今も野放しなんだろ? それに、ただその場に居合わせただけの糸南まで標的にされた。お前は仲間の一人にテーザー銃をぶっ放したってな。報復されないとは限らないぞ」
「だからって、俺が泊まる理由にはならねえだろ」
春夜が腕を組みながら言うと、茉未は肩をすくめ、やれやれといった様子で続けた。
「美春が不在の時にお前の身に何かあったら、それこそドヤされる。こうして関わっちまった以上、お前はおとなしくうちにいろ」
そう言ってから、一拍置いたかと思うと、不意ににやりと笑う。
「で、ついでに飯を作れ」
「……おい。それが本音だろ!?」
認めたくはないが、春夜の料理は絶品だ。愛情のかけらも感じられないのに、それはもう、何故かこの上なくうまい。愛情は最高のスパイスとはよく言うが、春夜の料理はそんな定説を軽々と覆してしまう。せっかく家に来たのに、飯当番を押しつけずに帰すなんてありえない。心配するふりをしつつ、実際には最初から春夜に料理を任せるつもりだった。
「トッコって本当に見る目ないよね」
「へ!? なな、何を言ってるのかな小春は! 私ほど優れた審美眼を持ってる人はそうそういないと思うけど!?」
「つまり兄やんは容姿だけのカス人間と。そうだね、合ってるよ」
「そうは言ってないでしょ!」
形はどうあれ春夜も泊まることになり、凍呼は緩みきった表情を浮かべる。春夜は母親、そして遠藤茉未には逆らえないため、不本意ながらも料理担当を受け入れるしかなかった。
「ったく、好き勝手言いやがって。大体、俺は食える飯が限られてんだぞ? というか墨一択。それなのに俺に料理をさせようって、給料も出ねえのにやってられるかってんだ」
「それならお前もちゃんとした飯を食えばいいじゃないか」
「アンタ人の話聞いてたか? 俺は墨以外のものを食ったら母さんから罰を与えられんだよ。それは小春だって同じなんだぞ」
墨しか食べられないのに、人のために料理をするなんて、苦痛以外の何物でもない。そんな思いをするのはバイトだけで十分だと感じる春夜は茉未の横暴さに嫌気が差す。
「そんなこと知ってるに決まってるだろ。私が小春ちゃんの事情を把握してないとでも?」
「ちょっと茉未ちゃん、その言い方怖い」
遠藤茉未は小春のプライベートを何が何でも把握したいと思っている。それに対して、小春は自分のことが何故か筒抜けで、毎度のこと恐怖を感じていた。
「けど、二人は仲直りをすれば、まともな食事に戻れるらしいじゃないか。なら答えは簡単だ。今ここで春夜、お前が小春ちゃんに謝れ」
「なんで俺なんだよ! アンタは俺がどういう理由で小春と喧嘩したのか知ってんのか!? 知ってたら俺に謝れって言葉は出てこねえぞ!」
「まあ大体のことは美春から聞いた。お前が常用しているわさびチューブの中身を小春ちゃんがイタズラで『ずんだ』とすり替え、それにキレたお前はあろうことか小春ちゃんの作務衣に穴を開けた」
しかも、ハサミで切り取った場所はお尻の部分。小春はそれに気付かないまま、外に出たため、道ゆく人々に子供パンツを見られ、辱めを受けた。
それがきっかけで二人は墨の生活に行き着いたわけだが、喧嘩の内容を初めて聞かされた凍呼と水月は唖然としていた。
「春夜くん……仕返しするにしても、もう少し可愛い感じにならなかったのかい? 君がわさびを好きな気持ちもわかるけど、やり返しのレベルがあまりにも小学生だよ。正直、呆れたよ」
「あ!? 俺はわさびを『ずんだ』に変えられたんだぞ!? リフレッシュがてらわさびチューブを吸った瞬間、あの刺激が来ると思ったら……口の中が甘ったるかったのだ! これで喜べるのずんだ◯んだけだぞ!」
小春のイタズラも確かに悪い。だが、それ以上に妹を皆の前で恥をかかせた春夜の仕返しは、兄としてどうなのかと水月は思う。こればかりは春夜が非を認めるべきだと、擁護しきれずに告げた。
「凍呼! お前は俺の言ってること理解できるよな!?」
「えっ、私!? そ、そうだね、春夜くんが怒ってる理由はちゃんと理解してるよ。けどそれは、小春も同じであって……ごめん春夜くん! 今回ばかりは小春に味方させて! 女の子のパンツは簡単に見せちゃいけないと思うんだ!」
長い付き合いの凍呼なら、きっと自分が求めていた答えをくれるだろうと信じていた。だが、予想に反して見事に裏切られた春夜は、納得がいかない様子だった。何より、わさびがあろうことかパンツに負けたという事実が、どうしても腑に落ちなかった。
しかし、春夜も子供じゃない。周囲の冷たい視線を浴び、これ以上自分が悪いと言われると、その事実を受け入れざるを得なかった。兄としても、一人の男としても。
「ああ、ちくしょう! これは墨生活を抜け出すためだ……お、おい小春」
「なに」
春夜に声をかけられた小春は、目を細めて不機嫌そうに兄の方を向いた。普段ならすぐに軽口を叩くところだが、今はそんな気分でもないらしい。二人の間に流れる沈黙が、まるで部屋の中に張り詰めたような緊張感を生んでいた。
「お前は俺のわさびチューブにイタズラしたこと悪いと思ってんのか?」
春夜の言葉に小春は視線を逸らし、しばらく黙っていた後、ようやく口を開いた。言い訳のような、しかし少し反省した様子で言葉を続ける。
「あれは……面白そうだからやっただけで……まさかあそこまで兄やんが怒るとは……お、思ってる」
その言葉には、明らかに後悔の色が滲んでいた。小春もどこかで、自分のしたことが悪かったと感じていたのだろう。ただ、面白半分でやってしまったことを、まさかここまで大事になるとは思いも寄らなかった。けれど、今さらその結果を悔やんでも仕方がないと感じていた。
春夜は一瞬、ふっとため息をついた。小春の表情を見て、怒りだけではない何かがこみ上げてきた。しかし、その気持ちをどこに持っていけばいいのか分からず、言葉が喉に詰まってしまう。
「そうか、思ってんのか……じゃあ小春、お前が先に謝れ。そしたら俺も謝ってやる」
てっきりここは兄としてリードし、小春に謝る流れになるかと思いきや、予想の斜め上を行くのがこの男。
彼の言葉に、一同はぽかんとした表情を浮かべる。
妹に先に頭を下げさせようとするその態度が気に入らなかった遠藤茉未は、迷うことなく春夜の胸ぐらを掴む。
「貴様、それでも小春ちゃんの兄貴かッ!」
言うが早いか、春夜の額めがけて渾身の頭突きをかます。
「ッ……がっ……!?」
衝撃で白目を剥きかけた上に舌まで噛み、春夜は悶絶しながら口元を押さえた。
「こ、殺す気か、おい!!」
「貴様が先に謝れ。さもなくば殺す。美春には不慮の事故に遭ったとでも伝えておこう」
「こ、この女、やっぱ教師向いてねえぞ!」
たった一度謝れば済むだけの話なのに、春夜は頑なに頭を下げようとしない。言ってもダメなら、力づくで謝らせてやろうとする茉未の目には、確固たる決意が宿っていた。
春夜の情けない姿を見て、水月と凍呼は無意識に視線をそらした。まるでこの状況に関わりたくないかのように、二人は黙ってその場をやり過ごすしかなかった。
しかし、その時、少女の声が小さく響いた。
「ごめんなさい、兄やん」
小春の言葉に、場の空気が一瞬で変わる。兄の春夜よりも遥かに大人びた彼女の謝罪には、真摯な反省の気持ちが込められていた。まさか小春が自ら謝るとは思いもよらなかった茉未は、驚きとともに春夜の胸ぐらから手を離し、その力がスッと抜ける。春夜も間の抜けたように口を開く。
「……マジか」
「なにその反応……兄やんが先に謝れって言ってきたんじゃん。ほら、私言ったよ……だから兄やんも謝って」
「えっ、ああ、ごめん」
春夜が反応するも、その謝罪の仕方はあまりにも淡白で、思わず小春が眉をひそめる。
「はあ? 何その淡白な謝罪は。ちゃんと頭下げて謝って!」
「そ、そうだよな。悪かった小春。お前の大事にしていた服に穴を開けたのはどうかしてた。服を失う気持ちは今の俺ならわかる。も、もちろん弁償はするからな!」
春夜は謝罪を終えると、少し照れくさそうに腕を広げて言った。
「よし、じゃあこれで仲直りってことでハグとか……」
その言葉が終わらないうちに、小春は思いっきり顔をしかめて手を振った。
「気持ち悪いから嫌。あと、切り替え早すぎ。私たち結構長い間、喧嘩してたんだよ? 兄やんは気まずさとかないの?」
「別にないわけではないが……お前のことを心の底から嫌いになんてなれるわけねえからな。そうだ、テレビも投げつけて悪かったな。あれはもう少し冷静になるべきだった」
「──なっ!? 貴様は小春ちゃんに暴力を振るったのか!!」
いくら喧嘩とはいえ、妹に物を投げつけるなんて許せるわけがない。自分の知らないところで、大切な小春を傷つけようとした春夜に茉未は激怒し、感情的に叫びながら彼の首に手をかけ、力強く締め上げた。
「し、死ぬぅ!」
春夜は顔を真っ赤にしながら必死に茉未の手をほどこうとするが、容赦のない力に抗えない。
「茉未ちゃん、離してあげて」
そんな中、小春が少し困ったように肩をすくめながら、宥めるように言った。
「えっ……い、いいのか? コイツは小春ちゃんに手を上げるようなクソったれだぞ!?」
「それを言ったら私だって兄やんに向かってハサミ投げたし、お互い様だよ。それにあの時は多央さんが庇ってくれたから私、怪我してない。だから離してあげて」
その言葉に、茉未はぎりっと奥歯を噛みしめながらも、しぶしぶ手を離す。
「そ、そうか? 小春ちゃんがそう言うなら……チッ、小春ちゃんの広大な心に感謝しろよ、クソったれ春夜!」
春夜は解放された途端、肩で息をしながら茉未を睨みつけた。
「この暴力女、いつか絶対仕返ししてやる……!」
「言ったな? 今すぐもう一度絞めてやろうか?」
「やめてくださいお願いします」
春夜はすぐに両手を広げ、必死に防御の姿勢を取る。
そんなやり取りを見届けた小春は、ふと水月の方を向いた。
「……あの、水月さん。今回の喧嘩で色々迷惑かけちゃったよね。その傷……ごめんなさい」
そう言って、改めて深く頭を下げる。春夜との揉め事に巻き込み、余計な気を遣わせてしまったことを申し訳なく思っていた。
水月は少し驚いたように瞬きをすると、すぐに柔らかく微笑んだ。
「大丈夫だよ。別に小春ちゃんが謝ることじゃないし。何より二人が仲直りできて本当によかったよ。これで二人とも墨生活から脱却できるね」
「うん。トッコもごめん」
「もう小春は律儀だなー。けど反省してるなら、そうだなー。今度アイスでも奢ってもらおっかな?」
「えっ、それだけでいいの?」
「あっはは! 冗談だよ冗談! 私の方がお姉さんだからね、逆に奢ってあげるよ! 自分から謝れる大人な小春に」
春夜は周囲に迷惑をかけたことを感じていても、それを素直に認めて口にすることはない。だからこそ、小春のようにきちんと謝れるのは、すごいことだと凍呼は微笑んで褒めるのだった。
「そんな、私別に……」
照れくさそうに笑う小春だったが、ふと春夜の方を見て、自然に笑顔を浮かべた。そして、兄の袖を軽く引っ張り、耳元でひそやかに言った。
「兄やん、多央さんに言ったんだって? 私に手を出したら後悔させるって。ふふっ、私のこと好きすぎでしょ。このシスコン」
「は!? 違えよ! 『母さん』と小春な! だからシスコンじゃねえ」
「あはは! はいはい!」
春夜は思わず顔を赤くし、そっぽを向いてしまう。だが、その仕草こそが何よりも照れ隠しだった。