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51話 俺のスカジャン

 二人の様子が気がかりで、凍呼と春夜は急いで家へ戻った。しかし、そこにいるはずの多央と水月の姿はどこにもなかった。


 水道やガスの修理を終えて、さっさと帰ったチビヤクザは頼りにならない。春夜は舌打ちをしながら携帯を取り出し、妹の小春に電話をかけた。


 ──だが、同じく外に出ていた小春も二人の行方を知らないらしい。


 春夜は無言で通話を切り、携帯を雑にポケットへ突っ込んだ。


「……はあ、マジかよ」


 低く吐き捨てると、玄関へ向かおうとする。


「春夜くん、二人を探しに行くなら私も手伝うよ」


「ああ。幸い、水月が残した痕跡がある。この痕跡を追って二人を見つけ出そう」


 小春が水月の頬につけた傷口からは、今なお無数の鯖が溢れ出ているはず。

 実際に外へ出てみると、地面には点々と鯖が落ちていた。この目印を追えば、自ずと水月に辿り着ける。

 そう判断した春夜は、凍呼を引き連れ、生臭い痕跡を追い始めた。


「それはそうと、二人は家を飛び出す前に、俺に連絡を入れるって考えに至らなかったのか? 電話くらいできるだろ」


「きっと、思いがけない事態に巻き込まれたんだよ。でなければ、あの状態で外に出るのは危険すぎるよ」


「もしかしたら、もう死んでるかもな」


「縁起でもないこと言わないでよ。笑えないよ」


 春夜と凍呼はしばらく生臭い痕跡を追い続けていたが、やがてある地点で途切れていることに気づいた。


「ここで終わっちまったぞ。近くに二人の死体はあるか?」


「だから笑えないって、その冗談」


「けど、ここに死体がないって事は、まだ生きている可能性があるってことだからいいじゃねえか。そうだな、あそこにいる婆さんに二人を見かけなかったか聞いてみるか」


 春夜は周囲を見回し、目をつけたベンチに座る老婆に歩み寄った。彼女は白髪が風に揺れ、顔には疲れた表情を浮かべている。春夜は凍呼に一度目配せをし、老婆に声をかけた。


「よう、婆さん。少し聞きたいんだが、ここで宇宙飛行士みたいな格好した病人と、白髪の顔だけ野朗を見なかったか?」


 老婆は少し驚いた様子で春夜を見上げたが、すぐに目を細めて考え込み始めた。


「そんな人たちを見かけた覚えはないけどねぇ……」


 老婆は口を閉じ、記憶をたどるようにして思い出そうとしている様子だった。


「ところで、朝ごはんはもう済ませたかい? あたしゃ焼肉が食べたいんだがねぇ……カルビにホルモン、脂っこいものが食べたいねぇ」


 春夜は少し呆れたように肩をすくめて言った。


「ダメだな、婆さん。かなりボケが進行してるみたいだ。今は朝食の時間帯じゃないだろ。それにその老いた体じゃ肉の消化も厳しいだろうに。アメーン」


 春夜は老婆の話を聞き終えると、少し間を置いてから、無礼にも合掌のポーズを取った。手を合わせ、目を閉じて、まるで彼女の命が潰えそうだとでも思っているかのように、無表情でその姿勢を保つ。


 凍呼は春夜の行動に気づき、すぐに一歩前に出て彼の腕を軽く引いた。彼女の目は優しさを含んだものだったが、その口調はどこか厳しさを帯びていた。


「春夜くん、そんな風に揶揄うのはやめて。悪い癖だよ。私だって物忘れくらいするんだから」


 凍呼は老婆に向き直り、穏やかな口調で話しかけた。


「すみません、春夜くんが失礼なことを言って……そ、それに私も好きですよ、カルビにホルモン! 特にホルモンなんかは噛みごたえがあって美味しいですよねー」


 凍呼は春夜の無礼な言動を静かに制し、老婆に穏やかに話しかけたが、その瞬間、老婆がふと顔を上げて強い口調で言い放った。


「小娘が焼肉を語るんじゃないよ!」


 その言葉に、凍呼の表情が一変した。彼女の優しげな表情はすっかり消え、真顔で老婆を見つめる。普段の穏やかな雰囲気から一転、少しも動じないその表情に、春夜ですら少し驚いた様子で凍呼を見つめた。


「ま、まあ落ち着けって凍呼。この婆さんにも譲れねえものがあったんだろ……だからそのチベスナ顔はやめてくれ、プッ」


 春夜は笑いを堪えながら、軽く凍呼の背中を叩いた。


「──さてと、手がかりが消えちまった以上、二人を見つけ出す手段はこれしかないな。いやまあ、厳密に言えば、まだまだ聞き込みをすべき段階なんだろうが、そんな面倒なことはしてられねえ。凍呼、今からやることは絶対に母さんに言うなよ」


「春夜くん、まさか」


「ああ、そのまさかだ。右目を使う」


 春夜は軽く息を吐き、ゆっくりと右目に手をかざした。指の隙間から覗く赤い瞳が、じわじわと鮮やかな青へと変わっていく。色が完全に切り替わった瞬間、彼の視界は一変した。


「よし、これでアイツらがどこに行ったかわかる筈だ」


 不可視のものを捉える能力が発動し、今まで見えていなかった痕跡や存在が、青い光の中で浮かび上がる。春夜は目を細め、じっくりと周囲を見渡した。


「私も、おばさんと同じで力を使うのは賛成できないけど……どう? 何か見えた?」


 春夜は青く染まった瞳をゆっくりと動かしながら、視界に映るものを精査する。すると、不自然に途切れた足跡と、その横に深く刻まれたタイヤ痕が浮かび上がった。


「……車で連れ去られたな」


 彼は声を潜めて言い、タイヤの跡をたどるように視線を移す。


「タイヤの幅が広い……バンか、それ以上のサイズだな。ここで歩いた痕が消えてるってことは、抵抗する暇もなく押し込まれたんだろ」


 凍呼が眉をひそめた。


「じゃあ、どうするの?」


 春夜はしばらくタイヤ痕を観察し、進行方向を指さした。


「エンジンオイルの染みもある。こっちに向かったのは確かだ。辿るしかねえ、急ぐぞ」


 二人はタイヤ痕を辿り、山を越えて進んでいった。道を外れて草木をかき分け、足を速める。やがて視界の先に海岸が広がっていた。風が潮の香りを運び、波の音が静かに響くその場所に、黒いバンがひっそりと停まっている。


 そのバンの窓は開けられ、車内からは信じられないほど大量の鯖が溢れ出ていた。魚たちは無造作に積み上げられ、車の床に転がり、海風に吹かれて揺れている。車内の様子は異様そのもの。


「ここで間違いないが……どんだけ歩かせんだよ! 山越えるの知ってたらタクシー呼んだわ!」


「それだともっと時間かかるでしょ。この町でタクシー使うなら予約必須なんだから」


「くそっ……凍呼が運転免許さえ持っていたら」


「ごめんね。18歳になった瞬間、絶対免許取るから」


 春夜の期待に応えられなかったことを感じ、凍呼は少し肩を落とす。彼女の表情はわずかに申し訳なさそうだが、すぐに切り替えようとするように言葉を続けた。


「それより、二人はどこに行ったんだろうね。見た感じ、車は乗り捨てた感じだし」


「二人は海の上にいる。恐らくだが、水月の頬から出る鯖は、まるで『僕を見つけてくださいっ!』って言ってるようなもんだからな。攫った奴からすると、陸にいるよりも海にいた方が、見つからずに過ごせると思ったんだろ」


「海の上……泳いで行くとか言わないよね?」


「山登りして疲れてんのに、泳ぐわけねえだろ。アレを使うんだよ」


 凍呼は「もしかしてボートでもあるのかな」と期待しながら、春夜の指さす方向を見た。だが、そこにあったのは簡素なイカダだった。


「……まさか、これで海を渡るつもり?」


 原始的すぎる手段に、凍呼は思わず絶句する。一方の春夜は特に気にする様子もなく、適当にイカダを叩きながら言った。


「どっかのチビ共が冒険感覚で作ったんだろ。まあ、浮いてるし乗れるんじゃねえか?」


「乗れるかどうかじゃなくて、沈まないかどうかの問題なんだけど」


 彼女はイカダの縄の結び目や板のつなぎ目をじっと見つめた。どれも素人が適当に組み立てたような頼りない造りで、見ているだけで心許ない。


「他に手がないなら仕方ないかぁ。でも、エンジン付きのボートとかないの?」


 そう言いながら辺りを見渡す凍呼。しかし、近くにはまともな船どころか、小さな手漕ぎボートすら見当たらない。


 春夜はそんな凍呼を横目にしながら、イカダの上に片足を乗せ、試すようにわずかに体重をかけた。


「見てみろ、意外と頑丈そうだぞ。沈む前に漕ぎきれば問題ねえ」


 そう言ってニヤリと笑う春夜を見て、凍呼は思わずため息をついた。


「肝心の漕ぐやつがないけど」


 ◆◆◆◆◆


 幻覚の世界から自力で抜け出した水月。奪われた右目の視力は戻っていたが、頬の傷口は依然として塞がっていなかった。


 彼が目を開けると、そこは小型の漁船の上。身動きが取れない。手足をしっかりと縛られ、顔だけが海の外に突き出されていた。


 頬の傷口からは今も鯖が次々と溢れ出ている。もし船の中にいれば、すぐに鯖で埋め尽くされてしまうだろう。だからこそ、こうして顔を海に向けさせることで、湧き出る魚をそのまま広大な海へ流しているのだ。


 水月は冷たい海風を受けながら、静かに息を吐いた。


「──俺の作った世界は楽しかったか? ただの高校生の水月くん」


 声の方に視線を向ける水月。そこには、幻覚の世界を仕切っていたスカジャン司会者──宝玉を狙う男がいた。


 その隣では、多央が荒い息を漏らしながら横たわっている。意識があるのかは分からず、体がわずかに震えているだけだった。


「多央さんに何をしたんですか」


「ああ、これか? ちょちょっと腹に手を突っ込んだら、随分と苦しんでな。こんな風にさ!」


 水月の問いかけに、男は袖を捲り、ゆっくりと多央の腹部へ腕を押し込んだ。だが、血が流れることもなく、スーツが破れることもない。男の腕は、まるで魔法のように抵抗なく沈み込んでいく。多央は息を詰まらせ、全身をこわばらせた。


「こんな感じで宝玉を強引に取り出そうとしたんだが、この方法ではどうやら無理みたいだな。手応えすらねえ。それに時間稼ぎで用意したゲームもお前たちはたったの1回目で終わらせちまった。これじゃあクリエイター失格じゃねえか」


「あんな危険なゲーム誰もやりたがらないでしょうから、転職をお勧めしますよ」


「ハッ、言ってくれるねえ。まあいい、少し話でもしようか」


 男は多央の腹から手を引き抜くと、無造作に近くの椅子を引き寄せ、水月の前に腰を下ろした。


「ではまず、一体どうやって俺の幻覚から抜け出すことができた? まあ俺も完璧じゃないから、多少なりとも穴はあったと思うが、それでも普通の人間が抜け出せるようには作ってねえぞ」


「さあ。ただの高校生にも運ぐらいあるんじゃないですか?」


 男は片眉を上げ、水月の返答を疑わしげに聞いた。


「運ねえ……まあ、そんなもんかもしれねえな。でも、たまたま抜け出せたにしては随分と落ち着いてるじゃねえか」


 男は椅子の背もたれに身を預け、指先でリズムを刻む。


「それとも、本当は何か手があったんじゃねえのか? 言ってみろよ、ただの高校生」


 水月は肩をすくめ、軽く息を吐いた。


「疑われても困るんですけどね。本当に大したことはしてないんですよ。ただ、気がついたら抜け出せてたってだけで」


 もちろん、本当は違う。

 蘭丸から「競争相手との接触は控えろ」と言われていたが、巻き込まれてしまった以上、下手に知られるわけにはいかなかった。

 あの幻覚の世界で起こったこと知られているだろうが、全てではない。現に糸を使って脱出したことは相手に悟られていないのだから。

 水月は能力を使う際、感知されないよう細工を施していたが、念には念を入れて正解だったようだ。


 男はじっと水月を見つめていたが、やがて鼻を鳴らし、片肘をついた。


「……まあいいさ。こっちもそう簡単に白状するとは思っちゃいねえ」


 ふと、男は水月から視線を外し、ちらりと多央の方を見やった。


「それに、今はこっちのほうが重要だからな」


 そう言って、ゆっくりと指を鳴らす。


 水月の視線の先で、多央が小さく息を詰まらせた。体を動かそうとしているのか、指先が微かに痙攣しているのがわかる。


「おいおい、あんまり無理すんなよ。宝玉はデリケートって聞いたぞ。箱であるアンタが死んじまったらどんな影響が出るか。っていうか、実際どうなるんだ?」


 宝玉を封じる人間がそのまま死んだら、宝玉は外に出てくるのか。それとも魂と共に消失してしまうのか。


 ふと興味がわいた男は、ポケットから携帯を取り出し、手慣れた様子で番号を押す。しかし、コール音が続くだけで相手には繋がらない。


 男はサングラス越しにわずかに目を細め、舌打ち混じりに携帯を閉じた。


「繋がらねえな……まさか丹香(にか)、足止めに失敗したのか?」


「丹香? それは、お仲間の名前ですか?」


「あ? そうだが──」


 男が言葉を継ごうとしたその瞬間——


 バァンッ!!


 乾いた衝撃音が鳴り響き、男の体が前のめりに揺れる。


「……っ、が……」


 後頭部に木の板を叩きつけられた男は、サングラスを宙に弾き飛ばしながら、目を見開いた。だが、意識は一瞬で途切れ、そのままぐらりと膝から崩れ落ちる。


「コイツが二人を連れ去ったのか?」


 木の板を握ったままの春夜が、右目の能力を解除し、短く息を吐く。船の揺れに合わせて倒れ込んだ男の体がゆっくりと横たわると、顔の横に落ちたサングラスがカラン、と甲板の上を転がった。


「二人とも、大丈夫?」


 素早く縄に手をかける凍呼。結び目を探りながら、焦る気持ちを押さえつけるように息を整えた。


 水月は疲れたように微かに頷いたが、多央の方はまだ反応が鈍い。それでもわずかに指が動いたのを確認し、凍呼は安堵の息を漏らしつつ、さらに手を動かす。


「もうすぐ解けるから……待ってて」


 一刻も早く助け出さなければ。そんな焦燥感を押し殺しながら、凍呼は必死に手を動かし続けた。


「ヒーロー参上って感じだな」


 春夜が無表情で言い放ったその言葉に、普段ならば少し不安になりそうな雰囲気を感じる水月は、小さく口角を上げた。日常的に信用ならない感じの春夜が、まるで本物のヒーローのように振る舞う様子に、なんとも言えない奇妙な感覚を覚えた。


「ヒーロー? ふふっ、君がかい?」


 水月が少し意地悪げに答えると、春夜は冷めた表情で鼻を鳴らした。


「何笑ってんだよ。実際こうして救いに来てやってんだから、立派なヒーローだろうが。さっきのお前、どう見ても『後がない一般市民』って感じだったぞ」


「あはは、ごめんごめん。助けに来てくれたことは素直に感謝してるから。にしても、よくここが分かったね。泳いで来たのかい?」


 水月が半分冗談めかして尋ねると、春夜はふっと目を細め、どこか得意げに口元を緩めた。


「泳ぐ? そんな無駄なことはしねえよ。都合よく海辺にイカダがあったからな、それ使って来た」


「おお、やるね。古代人みたいだ。……でも、まさか凍呼ちゃんに漕がせたりしてないよね?」


 春夜は男女関係なく面倒ごとを押し付ける性格をしている。幼馴染ともなれば尚更遠慮もない。

 それを一年近く見てきた水月は、「どうせまた凍呼に無茶をさせたんだろう」と疑いの目を向ける。


「そ、そんなことはしてねえよ!」


 春夜がわかりやすく動揺し、水月はさらに目を細めた。


「……本当に?」


「俺をなんだと思ってやがる! イカダはあっても(かい)はなかったから、海に住んでる妖怪に頼んでここまで流してもらったんだよ」


「頼んだ? 君がかい? 脅したとかじゃなく?」


「だから俺をなんだと思って……」


 一瞬言い淀み、春夜はそっぽを向く。


「……まあ、協力しなかったら海の中で小便垂れ流して住処を汚してやるとは言ったが」


「……うん、酷いね」


「そんなことはどうだっていいだろ! とにかく、そうやって来たんだよ!」


 水月はため息をつき、春夜の胡散臭さはやっぱり変わらないなと、どこか安心したように小さく笑った。


「というか、このチャラついた野郎は誰なんだ? なんでお前ら狙われてんだよ。しかも、コイツが着てるスカジャン……おい待て、俺のじゃねえか!? めっちゃ見覚えあるぞ!」


 春夜の中で怒り、呆れ、疑問、そして妙な既視感が入り混じる。言葉にできない感情が渦を巻き、拳を握る力が無意識に強まる。


 しかし——


「いってぇ……思いっきりやってくれたなぁ」


 倒れたはずの男がゆっくりと身を起こした。後頭部を押さえながら、ヘラヘラとした笑みを浮かべ、先ほどの出来事など気にも留めていない様子で口を開く。


「会いたかったぜ、夏出春夜。お前のスカジャンのセンスもなかなか気に入った。どうだ? 似合ってるか?」


「おい、コイツ海に沈めてもいいか?」


 店の商品は金を払わず勝手に使うくせに、いざ自分の物を盗まれると途端に腹立たしくなる。そんな都合のいい性格の春夜は、それから木の板をしっかりと掴んだ。


「おいおい、噂通り気の短え奴だな」


 男は「暴力反対」とでも言うように両手を上げ、降参のポーズを取ってみせた。だが、その余裕ぶった態度が逆に春夜の神経を逆なでし、ますます苛立ちを募らせる。


「あのふざけたお面つけたオタクもお前の仲間か?」


「あー、丹香か? そうだな。一応同僚として共に行動してるけど、アイツは生きてるのか? まったく連絡が繋がらねぇ」


「安心しろ。玩具屋で伸びてるから。テーザー銃がよほどお気に召したんだろうな」


「なるほど、丹香は電気耐性がないのか……でも、アイツを置いてきたのは甘いな。どうせこの後は情報を整理して対策でも練るんだろ? だったら必要な駒はちゃんと手元に置いておかねえと」


 男は春夜に冷ややかな視線を送りながら、皮肉混じりに言った。その言葉は、春夜の思考を揶揄するように響いた。


 仲間を心配して駆けつけるのは理解できるが、怪しい人物を放置するというその判断が、まだ高校生のような甘さを感じさせる。


「何勘違いしてる。情報を持ってる駒なら、今俺の目の前にいるじゃねえか。生憎、俺はそこそこ強えし、凍呼なんて女のくせに俺よりもずっと強え。逃げられるなんて思うなよ」


「うーん、俺が何の情報もなしにお前らの前に立っていると思うか? 俺だって力量の判断くらいはできる。だから今ここに立っている俺はいわば幻だ。ハハッ、残念だったなあッ!」


 春夜は再度、握りしめた木の板を男に向かって振り下ろした。しかし、板が男に当たることはなかった。腕に伝わる衝撃も感じず、振り下ろすべき対象が消えていることに気づいた瞬間、春夜は足を止め、目を見開いた。


 男は不敵な笑みを浮かべ、まるで初めから存在していなかったかのように消えていった。消える直前、春夜を挑発するかのような笑いを見せ、その態度は楽しむかのようだった。


 春夜は周囲を見渡し、無意識にもう一度板を握り直すが、何も見当たらない。その冷静さを欠いた焦りが、怒りと共に込み上げてきた。


「クソッ!! あの野郎、俺のスカジャン、マジで盗んで行きやがった!!」


 男が勝ち誇った表情で消えた瞬間、春夜の胸の奥に沸き上がる怒りは抑えきれなかった。あの顔、あの態度、すべてが腹立たしくて仕方なかった。


 凍呼は一着のスカジャンを失った春夜を見て、つい苦笑を浮かべる。その顔には、呆れ半分、心配半分の複雑な感情がこぼれていた。

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