50話 囚われた運動音痴
「ハァ、ハァ……こ、こんなに激しい運動は久しぶりだぜ……し、しんどい!」
「我慢してください! 僕だって体育の授業以外でこんなに走ったことはないですから!」
宝玉を狙う者が夏出の家に現れ、先手で攻撃を仕掛けた多央、そして水月は隙をついて逃げるも運動不足の影響か、息を切らしながら足を重くしていた。
ただ何も考えずに家を飛び出した為、彼らは無我夢中で人通りのある道を走っている。
「それで! これはどこに向かっているんだ水月くん!」
「と、とりあえず……交番が近くにあるので、そこへ!」
「ゲホッ、ゲホッ! こ、交番だって? 僕の追手は普通の人間じゃ太刀打ちできない相手だと思うけど、大丈夫!?」
『金色の宝玉』をその身に封じる各理多央は、これまで幾度となく追手に命を狙われてきた。
その多くが異能を持つ者であり、人間だけでなく、妖怪の類すら混ざっていた。
そんな相手を、一介の公務員がどうにかできるとは到底思えず、多央の顔には困惑の色が濃く浮かんでいる。
気配を全く感じさせずに家に乗り込んでた時点で、男が無能力者である可能性は万に一つもないだろうが、一般人の家に押しかけ助けを求めるよりかは、武装した警官に相手をさせた方が幾分かはマシか……
そんな考えを巡らせながら多央は水月の後ろをついて走ると、次の瞬間、二人の視界が波状のように揺らぎ、足元が崩れる。
「「……なッ!?」」
すると突然、鼓膜をつんざくような拍手の音が耳に飛び込んできた。
ぼやけていた視界が、徐々に鮮明になると、そこは見覚えのない場所だった。明るい照明が頭上から降り注ぎ、色とりどりのセットが目を引く。
『さあ、本日のゲストはこの二人だ!』
どこか興奮気味の司会者の声が響く。拍手喝采の中、隣を見れば、自分と同じく困惑した表情の水月がソファに座っている。スタジオの空気は軽やかで華やかだが、妙な違和感が漂っていた。さっきまで追手から逃げるため町を全力で走っていたのだが、この空間は一体何なのか。
明らかにテレビの中の世界であることは確かなのだが、波山羊町には当然テレビスタジオなど存在しない。
それに声を張った陽気な司会者は先程、家に侵入してきた宝玉を狙う者であった。
「おっと、さては混乱しているな? でも大丈夫だ。ここは楽しいトーク番組のスタジオ! さあ肩の力を抜いてリラックス! リラァックス!!」
「……多央さん、僕は夢でも見ているんでしょうか」
「落ち着いて水月くん……どうやら僕も君と同じ夢の中にいるみたいだぜ」
目の前の観客席に座る大勢の人間から視線を向けられ、スタジオの中心に鎮座する重厚な放送用カメラに、どう反応したら良いのかわからない二人。
スカジャンを羽織ったチャラついた司会者が、軽く手を叩いてスタッフを呼びつける。すると、二人分の皿と箸を持ったスタッフが無言で現れ、それをゲストに手渡した。
皿には香ばしい鯖の煮付けがきれいに盛り付けられている。
「これは、そこのガキ……糸南水月、で合ってるよな? そう、水月の傷口から取れた鮮度抜群の魚を使った料理だ。腹減ってるだろ?」
鮮度抜群とはいえ、人の傷口から出てきた魚を使っての料理。
見た目も香りも申し分ないが、海ではなく人の血を伝って出てきた鯖という事実が、食欲を根こそぎ奪う。
水月は眉間にシワを寄せながら皿を睨むが、そのときある事に気づく。
先ほどまで頬の傷口から溢れ出していた魚が、この場所に飛ばされてからというもの、ぱったりと出てこなくなっている。それどころか、傷口はきれいに塞がり、まるで初めから怪我などしていなかったかのようになっていた。
不気味さを感じながらも、水月は皿の鯖を前に固まったままだった。
「僕の傷……どうやって」
「どうやって治したか? そんな事はどうだっていいだろ。それより早く食わねえと冷めちまうぞ、鯖」
「いや、こんな得体の知れない物を食べるつもりは毛頭ないですが」
「得体の知れないってお前の体から出てきた魚だぞ。陸に上げられた所為で多くの命が散って行ったんだ。それに報いるためにも、一匹くらいはな。収まるべきところにちゃんと収めねえと」
柄の悪い見た目に反して、食べ物を粗末にするのを嫌う男。
男が指を鳴らすと、皿の上にあった鯖の煮付けが突如と消え、次の瞬間には二人の口の中に収まっていた。
「んぐっ!?」
「慌てるなー、毒は盛ってない」
「これっ……ど、どうやって口に」
「俺は手品が得意なんだ! って言ったら信じるか? なんてな、よく噛んで味わえよ」
「訳の分からない場所に飛ばされ、今度は僕の口に食べ物を……任意の場所に人や物を移す能力?」
場所を移すにせよ、この空間を選択した意図は掴めないが、男の能力がどのようなものか段々と掴めてきた水月。
魚に毒を盛っていないという男の言葉を信じるほど、愚かではないが、既に口の中に含んだ食べ物を吐くことに抵抗を覚える彼は難しい顔で咀嚼する。
「回りくどいやり方だぜ。君の狙いはこの僕だろ? だったら水月くんは解放してあげてくれないか」
「解放? それは無理な話だ。確かに俺たちの狙いは各理多央、アンタで間違いないが……だが、俺の邪魔をしたコイツを見逃すほど、俺たちは甘くはない。規則が思いの外、厳しくてな」
「規則? 君はどこかの組織に属しているのか?」
「当然だろ。でなければこんな辺鄙な田舎、わざわざ訪れたりしねえよ。コンビニ一つ見つけるのにどれだけの時間を食ったか」
波山羊町は現代の進化に取り残された廃れゆく町。
若者の減少により後退の一途を辿るこの町は、どこへ行くにも車が不可欠でありながら、バスの便も極端に少ない。
そんな田舎町の洗礼を受けた男は右手で腕時計を確認する。
「っと、無駄話はこれくらいにして……じゃあ早速、番組らしいことでもしてみようか! 名付けて──『取るか取られるか!? 欲望ゲーム!!』」
司会者が片手を高く突き上げた瞬間、派手な効果音がスタジオ中に響き渡り、続いてノリのいい音楽が流れ出す。観客席からは大きな拍手と歓声が湧き起こり、スタジオのテンションが一気に高まった。
「このコーナーでは、この俺が欲しいもの──そう、各理多央がその身に隠している『金色の宝玉』をかけてゲームをしてもらう! ゲスト二人には、体を張って俺のお題に挑戦してもらうぞ。もしお題を見事クリアできたら、宝玉は晴れて俺のものになる! ……だが、手を抜くなんて無粋なマネは一切ナシだ。失敗したら……そうだな、ここから出られるなんて思うな。永久に」
司会者の背後にある巨大なスクリーンに、多央の姿が映し出される。カメラに映った自分の姿を見て、多央は肩を強張らせた。宝玉を狙う司会者の罠にはめられたことは明らかだったが、何故こんな理不尽なゲームを受け入れなければならないのか、まったく腑に落ちない。
普通なら、こういう番組ではゲストが挑戦して失敗し、罰として何かを奪われるのが定番だろう。だが、この状況では、ゲームをクリアしたとしても宝玉を奪われるという理不尽さだ。
多央と水月は、目の前に突き付けられた不条理に前向きになれるはずもなく、どこか険しい表情で司会者を見つめていた。
「馬鹿馬鹿しいですね。多央さん、こんな場所さっさと出ましょう」
理不尽極まりないゲーム。そのどちらに転んでも最悪な結果しか見えない展開に、水月は時間を費やす価値などないと判断した。観客席からのブーイングをものともせず、スタジオを去ろうとする。だが、司会者が軽く指を一度鳴らしただけで、水月は元いた場所に戻されてしまう。
「……やっぱり、この空間から抜け出すには根本を断たないと駄目みたいですね」
水月は苦々しい表情で状況を見極めつつ、抜け道を探る。
「おいおい、駄目だろ? 俺の許可なしに勝手に外に出ようとするなんて。減点だ」
司会者は薄笑いを浮かべながら、片手で水月を指さした。その瞬間、水月の右目に強烈な違和感が走る。先ほどまで両目で見えていた景色が急に狭まり、右目の視界が閉ざされていることに気づいた。
「……何をしたんですか?」
水月は右目を押さえながら、声を低くして問い詰める。しかし、司会者は愉快そうに肩をすくめただけで、まともに答える気配すらない。
「ルールを破るとこうなる。今のはお仕置きのデモンストレーションだ。次は左目を狙うぞ」
司会者の笑い声が、二人の耳に冷たく響き渡った。
「水月くん、大丈夫かい?」
多央が焦りを滲ませながら問いかけると、水月は右目を押さえつつ、平静を装った声で返した。
「み、右の視力を奪われましたが、なんとか……多央さん、この男は思ったよりも厄介です。早いとこ打開策を見つけなければ僕たちの身が持ちません」
「視力を奪っただって? 彼の能力は空間系じゃ……」
「僕もさっきまでそう思っていました。でも、どうやら僕の眼球は飛ばされておらず、ここに残っています。つまり、この男は別の能力を持ち合わせている可能性が高いです」
水月は右目に触れ、わずかな感覚を確かめながら、司会者に対しての警戒を強める。
まさか神経や脳に干渉して視覚信号を遮断してくるとは……こうなってくると先程食した鯖の煮付けが今後体にどう影響してくるのか、正直怖いところだ。
「しかし、なんというか……随分と落ち着いているな水月。各理多央とそのお仲間たちの情報は前もって調べていたが、お前は特筆すべき点のないただの高校生。なのに何故、視力を奪われて狼狽えない? 近頃の高校生は皆こうなのか?」
高校生問わず、普通の人間なら驚いて腰を抜かしてしまうような状況だった。見知らぬ場所に飛ばされた挙句、今度は視力を失ったとあれば、恐怖や不安に飲み込まれるのが常だろう。未知の力によって己の感覚が奪われるという事実は、人間の理性を簡単に崩壊させるものだ。
しかし、水月は違った。右目を失った事実にも、足元が揺らぐ異変にも、彼の表情はほとんど変わらない。冷静さを装っているというより、内側から本当に恐怖を感じていないかのように見える。
司会者はそんな水月を観察しながら、次第に薄笑いを消した。視力を奪われたにもかかわらず平然と構えている態度には、さすがに疑問を抱かざるを得ない。
「そう見えるなら、僕も中々の演技派ってことですかね。本当は、この不条理な状況に泣き出しそうなくらい参ってるんですよ」
「ハッ、怪しいな……本来ならすぐにでも身元を洗い直すべきだが、時間も押している。それに本番はここからだ。お前にはすぐに泣きたくなる状況が待っているから腹を括れよ」
男は指を鳴らすと、瞬時に空間がねじ曲がり、テレビスタジオの照明と喧騒が消え去った。代わりに、無限に広がる海が目の前に広がり、荒れ狂う風が体を打つ。何もかもが目まぐるしく変わったその場所は、どこまでも続く海の上、そして巨大な軍艦の甲板だった。
「これはまた……えらい場所に飛ばされてしまったぜ。これから戦地へ派遣されるのかい」
「まずは第一のゲームだ。あそこに艦載機が見えるか? 戦闘機、攻撃機、ヘリコプター、その他色々だ。お前たちにはあの中から好きな乗り物を選んでもらって、ここから50km先のゴール地点を目指してもらう。制限時間は設けてないが、時間が経過するにつれて道中の障害物が増えていくから、早めにゴールすることをお勧めする。質問は?」
司会者が簡潔にゲームのルールを説明すると、二人は同時に手を挙げた。
「はい、なんだ?」
「『第一の』って聞こえたけど、このゲームって一回で終わりじゃないのかい?」
「ゲームは3回を予定している。それがちょうどいいだろ? それで、水月は?」
「道中の障害物って、具体的にはどんなものなんですか。まさか命に関わるような危険なものじゃ」
「冗談は顔だけにしろよ。サプライズのない番組なんてつまらないだろ? だが親切心から教えてやる。巻き込まれたら命を落とす危険もある障害物だってことは確かだ」
そもそも、一度も乗ったことのない軍用機に、無理やり乗せられる羽目になる。
あてにならない右目を抱えた水月は、事故を起こさない確率の方が遥かに低いという現実に直面し、心の奥底で焦燥感がじわじわと広がっていく。どうにもならない状況に追い込まれ、胸が苦しくなる中、多央が声をかけた。
「運転なら僕に任せてくれよ」
「多央さん、パイロットの経験があるんですか?」
「あはは、そんな大層な役職に就けるわけないだろう。でも、このスーツには命を繋ぐだけじゃなく、色々な機能が搭載されてるんだぜ。例えば追手から逃げるために必要な知識を独自の回線から引っ張ってくるとか。飛行機の運転も……まあ何度か経験はあるぜ。軍用機は初めてだけど、似たようなもんだろう?」
病弱でありながらも多央がこれまで宝玉を狙う追手から逃げ続けてこられた理由──それは宇宙服を模した特殊なスーツの力によるものだと、水月はこのとき初めて気づいた。そして、この状況をどうにかするには多央に頼るしかないと感じ、彼に委ねることにした。
「折り合いはついたかー? なら俺はスタジオから見守ってるから、せいぜい頑張ってくれ」
そう言って司会者は空気に溶け込むように姿を消した。
「さて、何に乗りましょうか」
「比較的安全を選ぶならヘリコプターが無難だけど、時間経過とともに障害物が増えるって言ってたよね。だったら戦闘機で最速ゴールを目指すのも……いや、やっぱり戦闘機はナシで。体にかかる負担があまりにも大きすぎるぜ。いくらスーツを着てるとはいえ」
戦闘機に乗ったときのことを想像し、途中で意識が薄れて墜落するという最悪のシナリオが浮かんでしまった多央は、その選択肢を除外した。
「それならヘリで行きましょう。障害物が気になりますが、まずは目先の安全です」
渋々ながらも、水月と多央はヘリコプターに乗り込んだ。機体が揺れ、風の音が耳を突き、緊張感が一層高まる。水月は不安そうに多央を見ながら、静かに座席に身を沈めた。
「どうです、操縦できそうですか?」
「まあ、見てて」
水月が声をかけると、多央はすぐに宇宙服の袖元に埋め込まれたパネルを操作し始めた。
青白い光を放つパネルが、ヘリコプターの操縦システムとリンクを始める。だが、その瞬間、多央の手にわずかな違和感が走った。いつもならすぐに同期するはずのシステムが、今回は微かなノイズを伴い、うまくいかない。
手が震え、体全体に伝わるような不快な感覚が広がる。何かが歪んでいる、何かがずれているような気がした。
「……ん?」
多央は眉をひそめ、もう一度パネルを操作した。すると、すぐにその違和感が収まり、今度はスムーズに同期が完了した。
「よし、これで大丈夫だぜ」
多央は深く息をつき、腕を一度軽く振ってから操作を再開した。顔には安堵の表情が浮かんでいたが、心の中ではまだその微かなノイズが気になっていた。
水月はその様子を見つめ、心配そうに眉をひそめながらも、その驚異的なスーツの性能に改めて感嘆していた。その時、外からアナウンスの声が響いてきた。
「準備は整ったようだな。ナビに設定した目的地はちゃんと確認しろよ。それじゃあ行くぞ! 位置について、よーいドン!」
司会者の合図を皮切りに、多央は操縦桿を握ると、ヘリコプターがエンジンを唸らせながら離陸した。ローターが風を切り裂き、周囲の空気を震わせる。その音は徐々に高まり、地面との接触が切れると、機体がふわりと浮き上がり始めた。しばらくすると、安定した飛行を始め、眼下に広がる景色が小さく、遠くに感じられる。
「水月くん、ほらこれヘッドセット。僕はヘルメットがあるから大丈夫だけど、ヘリの音はうるさいからね」
多央からヘッドセットを受け取った水月は耳をつんざく音を遮断する為、すぐに装着する。
「あー、あー、声届いてますか」
「バッチリ届いてるぜ。けど、早速障害物のお出ましみたいだぜ」
ヘリは目標地点へ向けて静かに空を滑っていた。だが、安堵の時間は一瞬だった。操縦席のモニターが警告音を発し、赤い三つの点がレーダー上に浮かび上がる。
「戦闘機が三機、こちらを狙ってますね」
遠くの空に黒い影が現れた。鋭いジェット音が耳をつんざき、戦闘機の流線型のシルエットが視界を捉える。やがて、機体の先端から赤い閃光が走り、ミサイルが一斉に放たれた。
「水月くん、掴まって!」
多央の叫び声と同時にヘリは急旋回を始めた。機内が傾き、座席に体が押し付けられる。ミサイルはすぐ後ろで爆発し、ヘリは煙と衝撃波の中をすり抜けた。
「次の攻撃が来るぜ」
敵は執拗に追ってくる。鋭い反転機動で距離を詰め、再び照準を合わせてきた。この追撃を振り切るには──何か手を打たなければならない。
「水月くん、右側のパネルに赤いスイッチがあるのが分かるかい? それを引き上げて、次に緑色のボタンを押す。そしたらトリガーを引く。するとこのヘリはミサイルを発射するから、どうにかあの戦闘機に当ててほしい。できるかい?」
「み、ミサイルを撃つ!? 右目も機能しないのに? というかあの戦闘機に人は乗ってないんですか!?」
「コックピットがないから無人と思われるけど、向こうも僕らを撃ってきたからね。撃たれる覚悟はできている筈だぜ。それにあの男が言っていただろ? これはゲームだって」
「ゲーム……そうですか、わかりました。撃ち落とさなければ僕たちがやられる。なら、やってやります!」
水月は深く息を吸い込み、震える指を強引に動かして赤いスイッチを引き上げた。次いで緑色のボタンを押し込むと、ヘリ内部が低い機械音で震え、操作パネルがわずかに光を放つ。
水月はトリガーを握りしめ、一瞬だけ目を閉じてから、迷いなく引いた。
次の瞬間、ヘリの下部から白煙を引きながらミサイルが発射され、轟音とともに空を裂いていく。目標は目前の戦闘機──高速で旋回を続ける敵機に向かい、追尾を開始した。
「頼むよ、当たってくれ」
水月が祈るように見守る中、ミサイルは急激に軌道を変えながら敵機の背後へ迫る。そして、激しい閃光とともに目標が爆発し、空中で火の花が咲いた。
「やった……撃ち落とした!」
水月の歓声が上がる。しかし、油断する間もなく、残りの敵機が再び鋭い角度でこちらに向かってきていた──次の攻撃はすぐそこまで迫っている。
「水月くん、次は僕がやるぜ」
操縦桿を握る多央の声は落ち着いていた。彼の宇宙服を模したスーツが微かに発光し、ヘリの制御パネルがそれに呼応するように明滅する。
『機体との同期完了。エネルギー充填開始』
機械音声がヘリ内部に響いた直後、機体全体にわずかな振動が伝わる。水月は驚き、思わず座席の肘掛けを握りしめた。エンジン音が低くうなり、機体の空気が微かにピリつくような感覚がする。不安げに多央を見やると、彼は冷静に言った。
「今このヘリは僕のスーツとリンクしてる。だから──」
多央が操縦桿を引くと同時に、ヘリの外装に青白い電流が走った。
「このまま敵機の射程に入って、一気に……!」
機体が急加速し、敵機の間を縫うように飛ぶ。照準を定める必要はない。すべてのエネルギーが、多央の意思に従って収束していく。
『電磁パルス、発射』
ヘリの機体が一瞬静止したかのように見えた直後、周囲に強烈な電磁波が放たれる。
「捕らえたぜ」
多央の呟きと同時に、敵機の機体がバチバチと火花を散らし、激しく揺れ始めた。1機はすぐに制御を失い、旋回しながら落下していく。もう1機も機動を乱し、もがくように姿勢を立て直そうとしたが──やがてエンジンが停止し、そのまま空へと沈んでいった。
水月は呆然とその光景を見つめた後、ようやく口を開く。
「すごい……でも、初めからこうすればよかったんじゃ?」
「はは、確実に仕留めたかったんだよ。戦闘機3機相手に外したら、逆にピンチになるからね。君にも手伝ってもらったのさ」
初めの障害物はどうにかして潜り抜けた。しかし、ゴール地点までまだ三割ほどしか進んでいない。
水月は息を整えながら、窓の外に目をやる。ヘリは激しい機動を繰り返したせいか、微かに軋む音を立て、エンジンの響きもどこか不安定に感じられる。機体がわずかに揺れ、疲労がじわじわと身体にのしかかるのを実感した。
「……次は?」
水月が問いかけると、多央は無言で前方を指した。
目の前に立ちはだかるのは、黒々と渦巻く巨大な暗雲。まるで生き物のように不規則にうねり、その奥は闇に閉ざされて何も見えない。
「……あ、あれに入るんですか?」
水月が息を呑む。
「避けては通れないみたいだね」
多央は操縦桿を握り直し、迷いなく機体を雲の中へと向かわせた。
暗雲の中は案の定、激しい雷雨に包まれた。
視界はほぼゼロ。フロントガラスに叩きつける雨粒が音を立て、機体は時折大きく揺さぶられる。ヘリの外装をかすめるように雷が閃き、そのたびに一瞬だけ周囲が青白く照らし出される。
「うわっ……!」
水月はシートにしがみつきながら、機体が傾くたびに胃が浮くような感覚に襲われる。
「多央さん、大丈夫ですか!? こ、これ、今にも落ちそうなんですけど!」
「うん、かなりキツいぜ。でも……何とかするしかない」
多央の声は落ち着いていたが、操縦桿を握る手には明らかに力がこもっている。ヘリは嵐の中をもがくように進みながら、次の瞬間、大きな気流に巻き込まれ、さらに激しく揺れた──。
それだけならまだ良かった。しかし、暗闇の中から突然、獣のような唸り声が響いた。水月はその音に耳を傾ける。最初は風の音かと思ったが、それにしてはあまりにも低く、うねるような、圧倒的な力を感じさせる音だ。
「一体、何が……?」
その唸り声は、どんどん近づいてくる。空気が重く、まるで何かが空間を引き裂いて迫ってくるような感覚に包まれる。水月は背筋に冷たいものを感じ、息を呑んだ。
一瞬、全てが静寂に包まれ──次の瞬間、機体が激しく揺れた。外からの唸り声が、耳をつんざくようにあらゆる方向から重なり合って襲いかかってくる。水月が恐る恐る窓の外を見ると──
雷光の中に、巨大な影が一瞬現れた。
その影は、翼を広げて空を支配しながら、闇の中を滑るように動いていた。体躯の大きさとその姿勢からは、まるでドラゴンのような獣が現れたことを感じさせる。鋭い爪が、空気を切り裂く音を立てて、無数の衝撃を引き起こしていた。
水月の心臓は、恐怖と興奮が入り混じったような動悸を打っている。
「……竜?」
多央の冷静な声が響く。その言葉に、水月は目を見開き、ついにその恐ろしい存在が形を成していることを実感する。瞬間、雷が轟き、その影が再び形を変えて、闇の中に消えていった。
だが、その圧倒的な存在感は依然として残り、周囲の空気が一層冷たく、重く感じられる。まるでそのドラゴンが空間全体に圧力をかけ、支配しているかのようだ。
水月は大きく息を吐き、握りしめたシートから手を離した。
「いよいよ本当にゲームみたくなってきましたね。まさかここで竜が登場してくるなんて……あれ、本物ですか?」
「さて、どうだろう……」
一拍置いて、彼はぼそりと続ける。
「僕も竜なんて、一度か二度しか見たことがないから……」
雷光が再び走る。暗闇の中、巨大なドラゴンの姿がはっきりと映し出された。
翼を広げ、空そのものを支配するかのような圧倒的な威圧感。
「迎撃、いけますか? それとも回避したほうが……どのみち、このヘリじゃ墜落する運命ですよね」
冗談めかした口調のわりに、笑える状況ではなかった。
多央は目を細め、操縦桿を強く握った。
「攻撃しても倒せる保証はないぜ。それに……おそらく、これはただの嵐の一部じゃない」
「……どういうことです?」
「嵐が生まれた結果、この竜がいるんじゃない。この竜がいるから、ここに嵐がある」
その言葉に、水月は再び窓の外を見た。
荒れ狂う暴風雨、閃光、渦巻く雲。その中心で動く漆黒の影。
「つまり、竜を抜ければ……」
「そう、この嵐を抜けられる」
「なるほど」
水月はシートベルトを締め直し、窓の外の影をじっと見つめた。
ドラゴンの視線が、一瞬、自分と交差した気がした。
次の瞬間、暗闇の中から雷撃が奔る。
ヘリの機体をかすめる閃光──ドラゴンの眼光が、それと重なるように煌めいた。
「行くぜ──」
多央の声とともに、ヘリが嵐を裂くように加速した。
だがその瞬間、多央の腹部に激しい痛みが襲いかかる。まるで誰かが腹の中に手を捩じ込んだような、信じられないほどの痛み。呼吸が乱れ、視界が一瞬ぼやける。
「ぐあああッ……!」
痛みが強烈すぎて、操縦桿を握りしめていられない。多央は手を離し、操縦桿が空を切る。その隙に、ヘリは不安定に揺れ、急速に高度を失いかける。
「多央さん!?」
水月の声が耳に届く前に、もう一つの恐怖が多央を襲う。外の空に、巨大な影が現れた。暗闇の中、竜の鋭い眼光が光り、ヘリを狙い定める。
そして、竜の咆哮が空間を震わせる。闇を引き裂くように、その口内で青白い光が収束した。
「まずい……!」
水月が短く言った刹那、竜の喉奥から放たれた雷撃が一直線にヘリを貫かんとする。
暴風の中で迸る雷光。瞬く間に視界を焼き、爆ぜるような音が空間を支配した。
多央の体が、痛みとは別の衝撃に包まれる。機体の外装に直撃した雷撃が、まるで生き物のように電流を這わせ、内部へと侵入してくる。
機体が激しく揺れ、警告灯が一斉に点灯する。計器の針が乱れ、制御が効かなくなりかける中、多央は歯を食いしばるも徐々に意識が遠のいていく。
水月もシートに体を押しつけながら、必死で状況を整理しようとする。だが、その焦りの中で、ふと妙な感覚がよぎった。
──何かが、おかしい。
波山羊町から飛ばされたことも、確かに異常だった。しかしそれよりも引っかかるのは、多央の様子だ。
彼はこの空間に飛ばされる前は、今にも死にそうな勢いでひどく咳き込んでいたはずだ。しかし、ここにきてからというもの一度も咳をしていない。それどころか今の今まで不思議と元気そうに見えた。
違和感がじわじわと広がる。
小春が自分につけた頬の傷が綺麗さっぱり消えたのも腑に落ちていない。それに司会者が用意した障害物。
もちろん戦闘機の障害物なら理解できる。それでも竜を障害物にするのは、どう考えてもおかしい。あまりに出来すぎている。
その時、突然、背後で雷光が煌め、衝撃の波がヘリを打った。竜が再び目の前に現れ、今度こそトドメの一撃が放たれる。
水月は無意識に操縦桿に手を伸ばす。
──今、動かさなければ、このまま終わる。
だが、指が触れた操縦桿は、冷たい感触を残し、何の反応も返さない。まるで、ヘリそのものが動かないかのように。
「……まるで、誰かが作ったみたいだ」
水月は窓の外を見つめた。雷光がまたひときわ激しく煌め、竜の姿が再び目の前に現れる。しかし、どこか不自然だ。それは確かにリアルで、迫力もあり、危機感を煽る。だが、どうしても何かが違う。
「この感じ」
水月は目を閉じ、深く息を吸った。空気の匂いも、風の感触も、すべてが妙に薄っぺらく感じられる。現実感が足りない。これまでの経験から、すぐにその正体がわかるわけではない。しかし、彼の直感はすでに異常を捉えていた。
「何かが……無理矢理、ねじ込まれている」
その言葉が喉から漏れた瞬間、彼の意識が一気に引き寄せられた。目の前に広がる世界が、徐々に崩れていく感覚。まるで、きれいに作り上げられた砂の城が、波に洗われるように、現実の質感が溶けていく。
そして、それに気づいたのはほんの数秒後だった。ヘリの外から視界が歪んでいく。竜が存在しないことに気づき、代わりにぼんやりとした像が現れる。どこかで見たことがあるような、何かの「記憶」らしきものが揺れ動いていた。
「これは、もしかして」
水月は自分の手を見つめ、すぐに翡翠色の糸を掌に現した。彼の能力は、この現実がどう形成されているかを読み解くために必要な鍵となる。
『意識を書き換える糸』
本来なら、隠すべき能力なのだが、この窮地を脱するには糸の力に頼らざるを得ない。
水月は糸を引き出すと、それが瞬時に空間を切り裂くように広がり、次々と見えない壁が姿を現す。
その壁が示すのは、まさに「幻覚」だ。
「ここは、完全に……」
水月の頭の中で答えが閃いた瞬間、背後で再び雷が轟く。それが、現実の崩壊の始まりを告げる合図だった。
翡翠色の発光糸が水月の手から伸び、静かに多央に触れる。その瞬間、糸は多央の意識に直接入り込み、響くように告げる。
「多央さん、これは幻覚です。偽りの世界なんです。今すぐ抜け出してください」
周囲の景色が崩れ、虚構が消えていく。多央の体が軽くなり、現実の世界へと引き戻される。