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47話 霧と兎

 丘の上に位置する公園から見える街灯の少ない町並み。

 夜の闇がすっかり町を包み込み、町の灯りは星のようにわずかに輝いている。


 公園には古びたベンチと朽ちかけた遊具が点在し、そこに立っていたのは、学校での一日を終えた制服姿の糸南水月と、青い長髪を風に(なび)かせ、目元を包帯で巻き付けた着物姿の男、蘭丸(らんまる)


「蘭丸から呼び出しとは珍しいね。何か急用かい?」


 指から放出した翡翠色の発光した糸で『鳥』を形作り、手の上で遊ばせる水月は柔らかい表情を蘭丸に向けた。


「急用ではないが、先程送った情報には目を通したか?」


「確認したよ。貴方が欲しているモノを持つ人が春夜くんの家で世話になってるんでしょ? 確か『箱』と呼ばれているんだっけ」


「ああ。そしてその箱を狙う者が私たちの他にも存在する。これは予想していたが、既に何名かはこの町で活動を行っているようだ」


「そりゃあ大変だね。それで、その者たちに関する情報は手元にはあるの? 同じターゲットを狙う以上接触は避けられないと思うけど……話し合いじゃ解決しないでしょ」


「今の私の『眼』には限界がある。残念だがこれ以上の情報には期待しないでくれ。地道に探っていく外ない。ただ、お前の役目はまだこの先にある為、今は行動を控えてくれ。宝玉の奪取はこちらで対処する」


 包帯で覆われた目元に触れ、水月に待機命令を出す蘭丸。

 しかし水月の持つ能力『発光糸(はっこうし)』は糸を繋げた者の意識を自分の都合の良いように書き換える事ができる、使い方一つで国の命運を左右する能力。


 その為この能力を使用すればたとえ未知の者と対峙したとしても優位に立つ事ができるのではないかと意見する水月だが……


「視野を広く持て水月。いかにお前の能力が()を圧倒するものだとしても、それ以上の力を持つ者も中には存在する。相手の姿や力量が判らない今、堂々と前に出るのは愚か者のする事だ。それに連中がお前の能力に目をつけないとは限らないからな。行動に十分留意してほしい」


「分かったよ。けど蘭丸も目立つ振る舞いは出来ないってこの前言ってたよね。どうするの」


「それなら問題ない。別の者を既に向かわせた。そうだな、もうまもなくあの男と接触するといったところか……」


 人員の手配は既に出来ていると自信に満ちた口調でそう告げる蘭丸は、懐から瓢箪(ひょうたん)を一つ取り出すと水月に差し出した。


「え、何これ」


「密造酒だ。虎龍(フゥロン)に直接渡すよう頼まれてな。受け取れ」


「嘘でしょ……あの人は何を考えてこれを僕に渡そうと思ったんだ。ごめん蘭丸、これは要らないって虎龍に返しといてもらえる?」


「これではお前に直接会った意味がなくなってしまうが……」


「いや、どこの世界に好き好んで密造酒を受け取る子供がいるんだい?」


「それもそうか」


 ◆◆◆◆◆


 一方、霧が立ち込めた夜の田舎道を、一人の男が歩いていた。視界が灰色に染まり、霧の中に街灯の光がかすかに漏れている。その光は断続的に点滅し、霧の中で不規則に広がる影を作り出す。

 男の姿はそのたびに浮かび上がり、また消える。


「…………ねえなぁ」


 何かを小さく呟いた男は一匹の小動物を視界に捉えるや否やピタリと立ち止まる。


 雪のように白い体毛、そして鋭く光る赤い瞳と細長い耳。


 男は手に持った端末と眼前の動物を照らし合わせるよう交互に確認し、次に空いた片方の手で拳銃を握ると、小動物を対象に鋭く突きつけた。


「消えろ」


 躊躇いの影を見せず、男は霧の中から引き金を引く。


 空気が引き裂かれるような銃声が響き渡り、小動物の運命が一瞬で決まったと思ったが、危機を素早く察知した小動物は高い跳躍を見せ、弾を回避した。


「挨拶もなしにいきなり発砲とは、道徳心が欠如していますね」


「アンタが華火か?」


 仕事を終え、帰路の途中で奇襲を受ける兎の妖怪、華火。


 他者に名前を聞く前にまずは自分の顔を見せ、名乗るのが礼儀ではないかと説いてやりたいところだが、この様な相手に説教が通じないのは華火はよく理解している。


 すると華火は相手と一定の距離を取る為、街路樹を伝い街灯の上へ瞬く間に移動する。


「俊敏だな。降りて来い」


「遠慮しておきます。貴方の周囲に漂う霧、どうやら触れてはならないと、私の直感が告げているようですので」


「……チッ、めんどくせえな」


「山はともかく、この辺りで霧は滅多に発生しませんからね。波山羊町の天気予報は確認しましたか?」


 早く仕事を済ませ、この場から立ち去りたいという思いが男の気怠げな口調から伝わってくる。

 男は再度、華火に銃口を向けると、残りの弾を全て撃ち尽くした。

 華火の足場とする照明はひどく損傷し、照明としての機能を失うも、兎の反射速度は凄まじく、致命を取ることはおろか、弾丸が掠る事はなかった。


 男は硝煙が香る(から)の銃を地面に投げ捨てる。


「視界の悪い時間帯をわざわざ選んでやった結果がこれか……年を食った妖怪は無駄に経験を積んでやがるから腹が立つ」


 男を中心に発生する深い灰色の霧。

 恐らくこれが襲撃者の能力だと判断する華火は、相手の出方を窺っていた。


「貴方、何者です。このタイミングで私を標的にするとは……彼のことも狙うつもりですか」


「彼? ああ、各理多央のことか。別に俺は狙わねえよ。ただ、宝玉を奪う上でアンタの存在は邪魔になるらしいからな。アンタには暫くの間、退場してもらう」


 男の言葉に呼応して蠢く周囲の濃霧。

 不規則に流動していた霧は突如として流れを変えると、吸い上げられるようにして男の体に取り込まれていく。


 視界は悪いが兎の妖怪の目は非常に良い為、華火は露わになった男の姿を捉える。


 高い背丈の彼の顔には沈んだ灰色の無造作な髪が垂れていて、腕には使い古されたボロボロの包帯が巻かれている。

 黒いブーツや服は体にフィットし、その上から口元から胸元を隠す灰色の布を羽織っている。

 しかし肝心の顔が判らなかった。

 色の濃い絵の具でグチャグチャに塗り潰したような、顔を晒す事を拒絶するかのように、灰色の霧が顔を深く覆っていた。


「思ったより若々しい風貌なんですね。顔を見せるのに抵抗があるようですが」


「俺の見た目なんてどうでもいいだろ、この老いぼれが」


 男の背中から霧が立ち上がる。

 初めはただの煙のように見えたが、やがてそれは形を成し、天使のような大きな翼が現れた。

 羽ばたく度に、霧が微細な滴となり空中に散らばり、街灯の光を反射して幻想的な輝きを放つ。


 男は翼を大きく広げ、地面から足を離すと、瞬時に華火の目の前まで迫る。

 すると男は振り上げた右腕から霧を放出させると、次は霧で自身の体よりも大きな拳を形成し、猛然と殴りつけた。


 霧ということもあって物理的な威力は大したことがないと思われたが、男にとって『霧』は力の象徴そのもの。

 触れたものを粉砕するだけでなく、物と接触した際に生じる衝撃で、付近の街頭や街路樹が吹き飛び、銃声よりも大きな衝撃音が響き渡った。


 こんな攻撃をまともに食らえば華火もタダじゃ済まないが、男の手には生き物を打ちつけた感触が一切伝わってこなかった。


「さっきから避けてばっかだな……まさか、このまま逃走するつもりか」


 翼を生やしたその存在は、軽やかに地面に降り立つと辺りを見渡した。


「──甘いですね」


 後ろから囁くように聞こえてくる華火の声。


 すると次の瞬間、男の平衡感覚が消失し、体が前に倒れ込んだ。

 霧の翼は崩れ去り、男はすぐさま地面に顔を向けると左足の膝から下が切断され、無惨に落ちているのが確認できた。

 常人なら体の一部を失ったショックで卒倒しそうなものだが、男は特に慌てた様子もなく、静かに流れる血の音を耳に入れていた。


「手荒い真似は避けたかったのですが、貴方の行動は目に余りますからね。少し強引ですが、このような手段を取らせてもらいました」


「はあ……普通、初対面の相手の足を切るか?」


「初対面の相手に向かって発砲する貴方には言われたくないですね。あと、それはオマケです」


 長い右耳の先端を男の首元に向ける華火。

 そこには鈍い銀色に光るステンレス製の注射器が深々と刺さっていた。

 切り落とされた足に気を取られた所為で、首筋にまで意識が向かなかったのだろう。

 華火の用意した注射器に気付くまで多少のタイムラグが生じた。


「こんなオマケ、ガキでも喜ばねえぞ。麻酔か?」


「ええ、竜も一瞬で倒れる特注品です。まあ貴方はタフそうなので死ぬことはないでしょう」


 安全に身柄を拘束する為、強力な麻酔を打って男を無力化させようとする華火。

 男は首筋に刺さった針を抜き、注射器をその場に捨てるが、意識が急速に霞んでいく。

 そして全身の力が抜けると、重力に逆らえず、そのまま床へと崩れ落ちた。

 普通、意識を失えば必然的に能力も消える筈だが、男の霧の仮面が剥がれ落ちることはなく、依然として蠢いていた。


「この方は自分の顔に自信がないのでしょうか」


 今ここで無理に霧を晴らさずとも、拘束した後で男の素顔は確認できると判断した華火。

 しかし不意打ちを狙ってくる可能性も考慮して、一応男の首筋に前脚を乗せて、脈拍、血中に流れる妖力の動きを華火は確かめる。


「……脈拍、妖力ともに異常なし。と言いたいところですが、酷い乱れ方をしていますね。まるで一つの体に、毛色の違う複数の妖力が混在し、互いに反発し合っているかのような。こんな人間は初めて見ま──ッ!?」


 刹那、華火の小さな体は深い深い霧に包まれた。冷たく湿った恐怖が胸の中に広がり、男の底なしの感情が容赦なく侵食してくる。


「意識は確かに失っていた筈……まさか切断した足から?」


 華火はすぐさま理解した。

 麻酔を投与した男の体だけでなく、注射器を刺す前に切り落とした左足も念頭に入れるべきであったと……

 故に、ただの肉塊と思われていた男の左足は、煙のように掻き消え、気付く間もなく華火の背後を襲った。


「戦闘に長けている筈のアンタがそのような体たらくとは……嘆かわしいな」


 霧散した左足。


 数秒の静寂が流れた後、男の身体から霧が立ち上り、失われた足の形を作り始めた。霧は徐々に凝縮し、やがて実体を取り戻すように、完全な足が再生されていった。まるで何事もなかったかのように……


「足を切断したのは間違いでしたか」


 霧によって耳や足を縛り上げられ、身動きが取れない状況を強制された華火。

 およそ人間とは思えない再生能力を目の当たりし、もう少し慎重に行動するべきだったと反省するが、そんなものは関係ないと男は鼻で笑う。


「俺は俺であって俺ではない。よって、アンタが俺の足を切ろうが切るまいが、この結果は避けては通れなかった」


「貴方は一体何を仰って……多重人格者にはとても見えませんが……いや、複数の妖力が混在していた事と何か関係があるのでしょうか。しかし私の用意した麻酔は確かに効いていた筈……この結果は本当に避けては通れなかったのでしょうか」


「ごちゃごちゃうるせえな。そろそろ飛ばすか」


「飛ばす? 貴方は私を殺すつもりではなかったのですか?」


 拘束された状態でも取り乱すことなく、独りでブツブツと呟く華火に、男は次第に鬱陶しさを募らせていた。

 一方で、男は挨拶代わりに弾丸を放ち、それ以上の威力を備えた一撃を披露して直接命を摘む気満々だったが、まさかそんな男の口からこのような言葉が出てくるとは……華火は目を見開いて驚いた。


「何だ、死にたいのか?」


「私には家族がいるので、死ぬわけにはいきません。貴方の過激な振る舞いから、勘違いをしてしまいました」


「さっきも言ったが、俺の目的はアンタを暫くの間、この町から排除することだ。アンタが死のうが生きようが、俺には関係ない。ただ、殺すことで余計な懸念はなくなるが……今は敢えてアンタを生かし、『俺』のサポート役にでも回ってもらおうか」


「笑わせないでください。私は貴方のような、得体の知れぬ悪党に手を貸すほど落ちぶれてはいませんよ」


「……フン」


 男が薄く笑うと、華火の小さな体躯は完全に霧に呑み込まれ、姿を消した。

 男の能力によって、彼は一瞬でこの町ではないどこか、別の場所へと飛ばされたのだ。男は顔を隠しているため表情はわからないが、男は冷静に携帯を取り出し、対象を別の場所へ送り込んだ事を報告する連絡を始めた。


「──終わったぞ」


「──ああ、構わねえが、こっちの約束も果たしてもらうからな」


「──その名前で呼ぶな。俺はカイムだ」


 男は通信を切ると、短く息をつき、カイムは夜の帳に溶け込むように姿を消した。残されたのは、男が破壊した街路樹や街灯の断片。

 周囲は徐々に霧に包まれ、深い霧が夜空を覆い尽くした。

 月の光は霧の中に消え、闇の中に浮かび上がるのは、ただの朦朧とした影。

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