37話 ムチムチ!
「俺、ナイフでこんなに刺されたの初めてなんだけど。蚊に刺された回数より多いぞ絶対」
齢19にして一生分の切創を負う春夜は家を出た時より明らかにテンションが下がっていた。
半径5メートル以内の対象物の動きを限りなく遅くするのがボコの能力らしいが、たとえ能力がわかったとしてもボコと距離を取る前に詰められ、傷が一つ、また一つと増えてしまう。
「アンタはすぐに傷口が塞がるからいいじゃない! 私なんてニホンザルみたいにお尻が真っ赤っかなのよ!?」
ボコのナイフでお尻を集中的に狙われるデコは涙目になりながら切れた布地から見える赤い素肌を曝け出していた。
「バカヤロウッ!! 俺だってちゃんと痛覚が働いてんだよ! それに不死身に見えるこの体も血が底を尽きればちゃんと死ぬし、脳を傷つけられても死ぬんだよ! というかお前はチビ猿なんだからケツが赤くなっても問題ねえだろ。寧ろ自然だ自然体」
「誰がチビ猿じゃあああああいッ!!」
春夜の心無い言葉で逆上するデコは男の美顔にドロップキックをかますと、酷い形相で吹っ飛んだ春夜はその先に居た水月を巻き込んで硬いコンクリートの壁に体を打ち付ける。
「何しやがんだクソデコ! 今は味方同士で喧嘩してる場合じゃねえだろ!」
「あーいぃ? 喧嘩じゃないしー! アンタとその白髪頭にちょっとムカついたから効率的に二人を痛めつけただけだしー! それに私のおかげでボコの能力の範囲外に出れたんだから感謝して対処しろよなー」
「コイツ、舐めやがって……」
いつも通り春夜に理不尽な暴力を振るうと見せかけて、ボコの能力の及ばない距離まで飛ばし、やってやった感を醸し出すデコ。
だが春夜からすれば、デコはただ頭に血が上って条件反射で蹴りを入れたとしか思えない為、その不満を水月の髪を毟りながら解消しようとする。
「当たり前のように髪を毟らないでくれるかい春夜くん」
「うっせえ! ハゲ散らかせ! この腹黒野郎がッ!」
「腹黒なのは君もでしょ」
右乳首の次は髪の毛を狙う春夜は、どうやら他人の体の一部を奪うのがお好きなようで、水月は彼の背に発光糸を繋ぎ、まるで魚を釣り上げるようにその体を宙へと持ち上げた。そのまま、ふわりとデコのもとへ送り返してやる。
せっかくボコから離してやったのに数秒で戻されるとは……春夜の体たらくっぷりに白目を剥くデコ。
「な、何やってんのよアンタ!! せっかく私がチャンスを作ってあげたっていうのに……どうやってボコの暴走を止めんのよ!」
「お前は俺に何を求めてんだよ」
「あのクソダサオッドアイを使えって言ってんのよ! ボコの動きを読めれば私たちがナイフで刺される事はなくなるでしょ!」
「いや、この状態で青い目使えたらとっくにやってるっつーの。それに行動を読んだところでボコの攻撃を躱せるとは限らねえだろ。俺たちの動きを遅くした上で攻撃してんだからよ」
春夜の左目から赤い根っこのようなものが剥き出しになっている間、彼は物の動きを見通すことのできる蒼き瞳は使えないと言う。
そして春夜の右目の能力はただボコの行動を予見するだけであって、その間自分達の動きを遅くされてしまっては、オッドアイを使ったところで意味を成さないと告げると、デコは露骨に苦い顔をした。
「うわ、つっかえねー」
「あ? 使えないのはてめえの方だろうが。第一なんで妹の能力の対処法を姉であるお前が知らねえんだよ。姉妹喧嘩が起きた場合、どうやってボコの能力を封じてんだお前はよお」
「封じるも何も、私とボコは殴り合いの喧嘩とか一度もしたことないからそんなの知る由もないわよ」
「おい嘘だろ。お前みたいな沸点が低い単細胞が暴力を我慢できるって──オイ嘘だろ」
「アンタはっ倒すわよ」
デコの沸点の低さは周知の事実ではあるが、彼女が妹想いの姉であることもまた確か。
とはいえあれだけ春夜に暴力を振っていたデコが姉妹喧嘩で一度も妹を殴った事がないとは……にわかには信じ難いが、殺傷能力の高いあのパンチをボコが喰らわなくて安堵する春夜でもあった。
「──二人ともさっきから喚いてばっかで……本当情けないよ」
「「ボコが喋ったァッ!?」」
この地下駐車場で出会ってからというもの、ずっとダンマリだったボコが、二人の非力さに呆れ遂には口を開くと、春夜とデコは息を揃えて喋るボコに驚いた。
しかしボコの悪口というのは不思議と不快感を感じず、彼女の悪口を聞き慣れない所為か少女が愛おしいとさえ思えてしまう。
「ボコ、意識あるの? お姉ちゃんのことちゃんと分かる?」
「分かるよ。何でもかんでも春夜に押し付けて、自分じゃ何にも解決できない駄目で愚鈍な憐れな姉のデコ」
「よおしッ、よく言ったボコ! デコがアホで馬鹿で乳臭えクソ餓鬼だってまさしくその通りだ!」
「『その通りだ!』じゃないわよクソったれ春夜! なに勝手に余計な言葉付け足してんのよ!」
よりにもよって姉を落としてクズい春夜を上げるとは、ボコにかかった洗脳はそれ程までに強力なものだと、今の発言ではっきりと理解したデコは、畜生男から無性に殴りたくなるニヤけ面を向けられていた。
だが春夜はここに来てとてつもなく重大な事に気がつく。
「あ、あれ、ボコ指輪つけてなくね?」
春夜が邪な心を込めて作った紅い指輪。
その指輪のおかげでボコの居場所が特定できたと先刻言っていた春夜だが、彼女の左薬指にお手製の輪っかがついていない事に胸を酷く痛めると、次にボコの口から発せられる言葉で春夜は完全に膝から崩れ落ちるのであった。
「指輪……ああ、あのゴミはさっき捨てたよ」
「ぼぼぼ、ボゴちゃん!?」
いつものボコなら人から貰ったプレゼントをゴミだなんて口が裂けても言わないだろうに、こうやって自分の想いを完全否定されてしまっては涙を流さずにはいられない。
春夜はあまりのショックでデコの平たい胸に顔を埋めると、突然のセクハラで顔を紅潮させるデコは春夜の頭をボコスカ殴っては引き離そうとする。
「許さん……ぐすっ。ぜ、ぜってえに許さねえぞ水月!」
「怒るポイントそこなんだね」
他者からすればちっぽけな事でも春夜からしたら言葉にならない程の大きな怒りと悲しみ。
一生に一度のエンゲージリングの怨み、ここで晴らさでおくべきかと言わんばかりに、水月に鋭い眼光を向ける春夜は左目から赤い物体を更に吐き出し、自身の半身にツタのように絡ませた。
まるで皮膚の外側に血管が張ったような、そんな気味の悪い風貌の春夜。間隣で見ていたデコは渋い顔をしていたが、水月はこれを待ち望んでいたかのように期待を込めて笑っていた。
「──ムチムチィッ!!」
「は?」
唐突にワケのわからないセリフを吐く春夜に眉間にシワを寄せるデコ。
この男はムチムチと叫ぶほど女に飢えているのか、そう捉えるデコであったが、竹がコンクリートを突き破るように、地面から人よりも大きく、そして丸太のように太い赤色の根っこが生えてくると、春夜が新たに見せるもう一つの能力である事が直ぐに判明した。
「アンタまさかムチムチって……」
「ああ、俺の唯一無二の必殺技だ」
「必殺技って……いや、ダッサッ!! 自分の能力に技名付けてるのもそうだけど、名前がムチムチって……マジでダッサッ!! アンタの感性イカれすぎでしょ!」
せっかく常人とは違う特別な力を持っているのに、デコから必殺技を揶揄される春夜。確かに春夜の命名センスが壊滅的なのは認めるが、このタイミングでそのムチムチとやらを出したということはこれがボコの能力を打開する鍵となっているのだろうか。
ものの数秒で地下駐車場の五割程を侵食した『ムチムチ』の幾つかがボコを対象に攻撃を始めるかと思いきや、その大振りが発動者である春夜に向けられると彼は理解する間もなく宙を舞った。
「──ぶばァッ!!」
「えッ゛!? な、何やってんの!? アンタ何やってんの!!」
デコに殴られる程ではないが一般人が喰らえば間違いなく骨折レベルの大ダメージ。
自身の能力で遊ぶにしてはやけに体を張っていて、春夜の行動の意図がまったく読み取れないデコは愕然としていた。
「い、いでえッ!! コイツ真っ先に俺を狙って来やがった!!」
「狙う? え、嘘でしょ。アンタが出した能力なのにその根っこ、コントロールできないの?」
「そんなの俺が聞きてえよ。この赤い根っこ……『無知なる鞭』、略してムチムチは当たればクソ強いんだが、七割近い確率で俺を攻撃してくる最悪かつ馬鹿すぎる能力なんだよ。けど丁度ここにはお前も居るからな。お姫様抱っこよろしくデコちゃん」
「いやいやいや余計に意味がわからないんだけど! 何その賭け要素高めの能力は! というか、この根っこが狙うアンタを抱えたら必然的に私まで巻き込まれるじゃない! 嫌よ、植物ごときに打たれるのは」
春夜が生み出す深紅と、水月が放つ翡翠が混ざり合う、まさにカオスな空間。
しかしデコの高速移動があれば、たとえムチムチが襲いかかってきても容易く回避できる上に、三割分のムチムチをボコや水月、そしてオマケの二口女にノーリスクで与える事ができる。
ここは何としてでもデコを利用したい春夜だが……
「お前の都合なんて知らねえよ。こちとらずっとお前に張り付いてムチムチの餌食にすることだってできんだぞ」
「うわ、うっざ。アンタがそんな捻くれ野郎だから白髪頭も呆れてボコが可哀想な目に遭うんでしょうが!」
こんな状況で脅しにかかってくるような男をわざわざ矯正しようとは、白髪頭は無為な時間を過ごすのがお好きなのだろうか。
デコは自分を利用しようとする男の言うことなんか絶対に聞いてやるもんかというスタンスだったが、執拗に粘着されるのは死んでもお断りな為、渋々ながらもこの外見オバケをお姫様抱っこする。
だが彼女の立っている場所はボコの能力の範囲内。
再びお尻に傷が増えるのではと懸念するデコだが、春夜が言うには『俺に触れている状態なら問題ない』とのこと。
小さき少女は春夜という傲慢お姫様を守るべく全身の筋肉を上手く使い、風切り音を鳴らすムチムチを華麗に躱すのだが……
二人の時間はボコによってピタリと止められてしまう。
正確には彼らの進む時間が限りなく遅くなってそう見えているだけなのだが、ボコを中心に5メートル以内にある春夜のムチムチですら静止する世界の中にいた。
「人形を眺めているような感覚だね。止まっている春夜くんやデコちゃんを見るのは」
ボコの能力が及ばない距離からそう呟く水月は空中で固定された二人の姿や、ムチムチの影響で飛び散った石の欠片を見ては圧倒されていた。
しかしそれもその筈。本来の目的ではボコの意識を書き換える為に少女を攫った水月であったが、まさか彼女が攻守ともに優れた能力を持ち合わせているだなんて夢にも思わなかった。
この力が真に悪意ある者に渡ってしまえばこの町どころか国さえも危うくなってしまいそうだが、今の彼らに深く考える時間は与えてられておらず、春夜が発動した三割分のムチムチが勢いよく襲いかかってきた。
ボコは自身のテリトリーに侵入したムチムチの動きを止める事ができる為、わざわざ避ける必要はないが、水月と二口女は体を動かしてムチムチを回避する他ない。
水月は右腕から噴出させた発光糸を二口女に繋げるや否や、彼女の体を自身の方へと引っ張り、右肩に乗せてはムチムチの動きを見切り躱し始めた。
「きゃあっ──えっ? あ、ありがとう」
「その赤い根っこは危険だからね。万一にも君の体に傷がつかないよう僕が責任を持って守り通すよ」
二口女と糸で繋がっている水月は彼女の身体能力がいかほどか知る事ができるのだが、彼女がこのムチムチを回避できる程の力を持っていない事を把握していた水月は二口女の盾になることを決めていた。
彼女を攫ったとはいえ一般の妖怪を傷つけるわけにはいかないのだろう。
本当ならムチムチが発動する前にこの場から逃がしてやるのが正解だったが、生憎肝心の出入り口を封鎖するムチムチは誰一人としてこの場から逃がさないつもりだ。
すると、ムチムチが邪魔なら発動者を無力化してしまえばいいと、ボコは手に持ったナイフをギュッと握りしめて春夜に近づいた。
自分の身長より高い位置で固定された春夜とデコ。
ボコがジャンプしても絶対に届かない位置にいる春夜の首筋を凝視するボコは、獲物を狙う獅子のような目つきで手に持ったナイフを投げつけた。
出血量の多い動脈を切って春夜の体力を確実に奪っていく寸法なのだろうが、その瞬間、ボコの能力の範囲内でノイズのようなものが走った。
「ん……何今の」
自身の能力だからこそ気付く一瞬の違和感。
ノイズは赤い根っこ、そして春夜の体から発せられたように感じたが……次に水月の叫ぶ声が少女の耳を貫いた。
「──ボコちゃん、気を逸らしちゃダメだ!」
対象の時を限りなく遅くさせる能力。それから逃れる術はなく例外もまたない──筈だった。
ボコは咄嗟に後ろを振り返ると、静止させたはずのムチムチが自分を狙っているのを見て取った。少女は思考する間もなく頭を低くし、運よくムチムチの攻撃をかわした。
だが、乱された能力の影響は連鎖し、春夜とデコの行動を許してしまう。すると、当然彼に向けて投げられたナイフもデコの高速移動には敵わず、空を切った。
「んゔっ、あれ!? なんか私とアンタ以外の立ち位置ズレてない!? もしかしてボコ能力使った? いやでも、そしたら私のお尻にナイフが刺さってる筈だし……ねえ春夜、どこか怪我とかしてない?」
ボコを始め水月や二口女、そしてムチムチの時が一瞬で飛んだように見えたデコは慌てふためき、柄にもなく春夜に外傷がないか確認する。
「痛みは感じねえから多分大丈夫。俺のムチムチがちゃんと機能してくれたみたいだな」
「ムチムチ? え、冗談でしょ。こんな標的もまともに定めらんない根っこがボコの能力を無効化したの?」
「凄えだろ? 相手がどんなズル能力を使おうと、ムチムチは全てを掻き消す事ができる。つまりボコがムチムチを巻き込んで能力を使えば、当然その範囲内に居た俺たちもスローの影響を打ち消してくれるわけだが……まあ欲を言えばボコをムチムチで引っ叩いて水月による洗脳を解いてやりたかったな」
ムチムチこと無知なる鞭の効果。それは赤い根っこを鞭のように扱い、妖力を介して発動した異能を掻き消す、能力者泣かせの力。
デコはそんな彼の能力に心当たりがあったのか突然足を止めると、ムチムチが迫っているというのに春夜と顔を見合わせた。
「能力を掻き消す……ああ゛ッ!! アンタと私が前に公園で喧嘩した時、私が途中力が使えなくなったのってそういう事だったの!? だから私が好き放題ぶん殴られて」
「あー、そういえばそんな事もあったな。てか誰が足を止めるの許可した!! ムチムチが向かって来てるのが見えねえのか!?」
まさかこのタイミングで、デコが春夜の能力の被害者であったことが明らかになると、少女は蔑むような視線で彼を見下ろした。そして後に、春夜の体を宙へとヒョイと投げた。
「えッ。嘘だろデコさんッ!? こんな冗談、死んでも笑えね──」
ムチムチは七割近い確率で春夜を襲う。
デコが春夜を抱えている場合は当然彼女も狙われる訳だが、春夜を離せば話は別。
一つしかなかった選択肢も二つに分かれれば次に選ばれるのは確率の高い方、即ち春夜のみがムチムチの犠牲となる。
春夜は骨が軋むような痛々しいビンタをもろに食らうと真っ赤な血を吐いては派手に吹き飛んだ。
そして男の体が硬い壁に叩きつけられる前に再び春夜をお姫様抱っこしたデコはこの前の借りはちゃんと返してやったぞと、腹立たしい嘲笑を見せてみせた。
「君たち、コントなんかやってる余裕あるの? 特に春夜くんは時間が限られてるというのに。ほら急がないと君のお母さんが起きちゃうよ?」
ムチムチに触れないよう粘着性の高い発光糸を壁や天井、柱に繋げ、移動する水月。
春夜やデコ程ムチムチに狙われていないとはいえ三秒に五本の根っこを避けるのにはそれ相応の体力がいる筈。肩に一人の女性を抱えているなら尚更。
しかし水月は疲れている素振りを見せる事は愚か、他者を気遣う余裕さえ持っている。
「んな事言われなくても分かってるよ! こっちだって一分一秒たりとも時間を無駄にしたくねえんだよ! なのにこのクソデコが」
「あ? アンタもう一度放り投げるわよ」
「アッハハ、冗談に決まってるだろデコさん」
今無駄に時間を食ったのは完全にデコの所為だが、また口出しをすれば自身の能力で再び苦しむ羽目になる為、咎めたい欲求を抑える春夜の目は血走っていた。
ムチムチがボコに少しでも触れればその時点で彼のミッションが達成され、デコの力を頼る必要もなくなるが、物事はそう簡単には進まない。
不意に春夜の瞳に映し出されたのは、白い体色に黒い斑点を浮かべた非常に大きな魚。青いひれがユラユラと揺れ、その光景はまるで幻想的な世界に迷い込んだような感覚を春夜に与えた。
人を丸呑みするのに適したサイズの口をパクパクさせる一匹の魚は誰がどう見ても観賞魚のグッピーで、ムチムチに気を取られていたデコの背後をいつの間にやら取っていた。
「で、でけえ魚が、オイラをジッと見つめている」
「キモい一人称使ってんじゃないわよ。何がオイラよ、みっともない。それに水もないこの場所で魚が泳いでるわけ……あ、あれ? さ、魚って宙を浮遊する生き物だっけ?」
本来魚というのは海や川、もしくは湖や池など水のある所に生息する生き物であり、水もなければ翼を生やしていない魚が空中に浮かぶなんてこと決してあり得ないと、今の今まで思い込んでいたデコの常識は確実に覆りつつあった。
「餌の時間よ。私の可愛い弟達」
恐らく地球上で最も大きいであろうこのグッピーは水月に抱えられた二口女の声で黒目をギョロりと動かすと、春夜とデコは瞬く間に影で覆われた。
普段捕食される側の魚が人間を捕食しようとしているのだ。
サメやシャチならまだしも、それはそれは小さき存在の観賞魚如きが己の腹を満たす為に無価値な無職と花の女子高生を丸呑みに……
仮にもし彼らが何も能力を持たない一般人なら食人グッピーは勿論恐怖の対象になる訳だが、こちら側には魚よりも素早く動けるデコが居る。
ならば何も案ずる事はないと何故か得意げになる春夜であったが、デコの体はピクリとも動かなかった。グッピーは兎も角、ムチムチもすぐ目の前まで来ているというのに……
「お前何ボーッとしてやがんだ! 食われるぞ!? 俺たち観賞魚に食われちまうぞ!?」
「食われ…………うぇ?」
「駄目だコイツ、この状況で放心してやがる!」
間の抜けた顔をして鼻水を垂らすデコに春夜の声は届かない。こんな危うい場面で素早く動けないデコなどただの能無しのチビガキ。
春夜は高速移動という類稀なる能力を買ってデコに協力を持ち掛けたのに、まさかグッピーに怯えるとは笑止千万。
少女の頭に手を置いて力を込める春夜はデコを踏み台にし、通常サイズのグッピーでは触れる事のできない口の中に手のひらを当てた。
ぬめっとしたグッピーの口内の感触に春夜は顔を引き攣らせはするものの、彼を纏う赤い根がグッピーに接触した事で、その体躯は急激な異変を起こし始めた。
「家に帰ったらてめえを素揚げにして食ってやる」
春夜の肉体に張り付いた赤い根はムチムチ同様に他者の能力を掻き消す力を秘めている。
故に体を物凄い速さで縮小化させるグッピーはやがて親指程の大きさに戻ると、春夜はすかさず観賞魚を手で掴んだ。
「ぎゃああああッ!! 私の弟を雑に扱わないで! 潰れたらどう責任取ってくれるの!?」
自分から仕掛けておいて、いざグッピーがピンチになったら喚き始める二口女。
だが春夜は人の嫌がることをするのが大好きな捻くれ者。
元よりこの魚は素揚げにして食すつもりであったが、今この場でグッピーの生命を絶てば自称姉の発狂は間違いなしと、鬼畜な顔をする春夜は自身を狙うムチムチに向かって魚を投げ飛ばした。
フェミニストを敵に回し、あまつさえ動物愛護団体にも喧嘩を売る春夜の姿勢は本当にブレないが救い用がないのもまた事実。
しかし、二口女を守ると決めた以上、彼女の心に傷を負わせるわけにはいかない。水月は人差し指から一本の発光糸を出し、命の危機にあるグッピーに接続すると、先程の二口女と同様に即座に引っ張って回収した。
「おい、邪魔すんじゃねえよ!」
「春夜くん、グッピーは素揚げしても多分美味しくないし、君のお腹も膨れないよ」
「んなものは食ってみなきゃ分からねえだろ! それにさっきそのビスカスカス女は私の弟『達』って言ったんだ。つまりまだグッピーをどこかに隠してるって事だよな? どこだぁ、どこに居るんだ俺の餌ぁ」
自身の能力でグッピーが簡単に対処できると分かった途端これだ。
所詮は観賞魚、大きくなったところで強くも何ともねえと、完全に調子づいた春夜を恐れた二口女は、彼らを攻撃する為に各場所に配置したグッピーこと弟達を呼び寄せると、自身の後頭部にある口にしまい込んだ。
「お前、グッピー食ってんじゃねえか!」
「これは食べているんじゃないわ。この子達の棲家が私の二口なのよ」
「え……口、いや頭に魚飼ってるって気持ち悪くねえのか感触的に」
「いいえ全く」
頭の中で魚がうじゃうじゃ泳いでいるなんて自分だったら泡を吹いて失神すると、想像しただけで頭がムズムズする春夜は髪をくしゃくしゃに掻き乱す。
まさか二口女の第二の口がそのような使い方をされているとは……衛生面的には問題ないのだろうか。
個人的な興味として二口女の生態についてまだまだ情報を得たい春夜であったが、ムチムチは空気を読まずに彼を容赦なく引っ叩く。
それはもう頭の先から足の先まであらゆる部位を痛めつけ、春夜から痛いという感覚を失くす程、彼の神経は麻痺させられていた。
「で、デコ……グッピーはもう居ねえぞ。いい加減動けコノヤロー」
床を這いつくばる満身創痍の夏出春夜はもやしみたいに細いデコの足首を掴んで助けを求める。
水月をぶっ飛ばしボコを正気に戻す為に出したムチムチなのに、あの白髪頭は根っこを軽くいなしてくるし、ボコは頭を低くするだけで何故かムチムチを奇跡的に回避できている。
要するに春夜だけがムチムチの被害に遭っている現状だが、一度発動した以上何かしらの功績を上げない限りは絶対に能力を解除しないと半分自棄になっている。
「あ、あれ春夜……何で床で寝そべってんの」
「これが! 寝そべってる風に! 見えるのかお前はッ!! てめえがデカいグッピーにビビった所為で俺は何度も何度もムチムチに引っ叩かれたんだよ! ネットでもここまで叩かれたことねえぞ俺は!」
「グッピー……あぁ、ごめん。あの魚のギョロっとした目を見てたら、井戸から出てくる女の幽霊が頭に浮かんじゃって動けなかった」
「お、おう、そうか。素直に謝れるのはいい事だ」
魚と幽霊を混同するデコは夢の中を彷徨っているのか。
春夜もまさか自分に対しての謝罪が来るとは思ってもみなかっただろう。
本当なら彼女を罵倒して、文句を言ってくるようなら足首に噛み付いてやるつもりだったが、人生何となく生きてみるもんだ。
あんなにも生意気なクソチビが『ごめん』と頭を下げてくる気持ち良さと来たら、子町のような貧乏妖怪から金を巻き上げて、その金で飯を食うのに匹敵するくらい気持ちが良い。
デコはボーッとした顔で春夜を抱えるが、そんな彼の歪んだ心情を知る術は今の少女には無い。