31話 恐るべき嫉妬
両手に花を持つ夏出春夜は闇夜を駆け抜ける新幹線に乗車していた。
三列シートの中心に春夜が座り、右側の窓際の席には凹の字を逆さにした前髪を持つ低身長少女のボコ。
そして通路側には山葵色の瞳と髪色をした美少女ツインテールアイドルの『わさビッチがーる』。
三人はいずれも登山家のようなファッションをしており、黒縁の伊達メガネをかけていた。
「春夜……何も言わずに町を出たけど、本当にこれでよかったの?」
ボコは不安と後悔が入り混じった口調で言葉を発すると春夜の右手を小さな手のひらで握りしめ、彼の肩に頭を寄せていた。
「そう不安がるなボコ。俺たちは互いに同意した上で駆け落ちしたんだから……それに今町に戻ったところで母さんに殺されるのがオチだぞ」
春夜はボコを安堵させるべく、欧米風に彼女の頭にキスをすると、ついでに髪の匂いを嗅いでニヤけ面を晒す。
「そういう春夜ちゃんも実は大好きなママに別れの挨拶を言えなくて、辛かったりして」
母親以外の恋愛を一切認めない者でも十年以上も共に支え合って生きてきた家族。
そんな大切な存在を『駆け落ち』という選択で済ませてよかったのか、彼の本音を聞き出そうとするわさビッチがーるだが、春夜の心は既に決まっており……
「俺はもうマザコンを卒業したんだ。今更母さんに会いたいだなんて泣き言は言わないよ」
「ふふぅん、なるほどねー。けどママの方は春夜ちゃんを探しに地の果てまで追ってくるかもよ」
「それはまあ……あるかもしれないが、今みたいな変装や他の座席の買い占めなんかの工夫をしていれば、見つかる事なく母さんもいずれ諦めてくれるよ。きっと」
「んふっ、変装にしては随分と浅いけどね」
顔を覗かれたら即アウトのこの格好を変装と言っていいのか、春夜のセンスを鼻で笑うわさビッチがーる。
そして彼女は通路の方に首を出して、自分たち以外の空いた座席を確認すると、奥の自動扉から帽子を深々と被った車掌がこちら側に向かって歩いてくるのを視認した。
「──切符を拝見いたします」
どうやら車掌は検札をしにやって来たらしく、春夜は取り敢えずこの三つの座席分の切符を車掌に手渡した。
「京都行き……観光ですか?」
「へっ? ま、まあそんなところだけど」
車掌から行き先について触れられると思わなかった春夜は素っ頓狂な声を上げるとそっと頷いた。
「そうですか……いいですよね京都。清水寺に金閣寺、八ツ橋などなど、惹かれる物が沢山です」
「はあ」
聞いてもいないのに一人で勝手に話題を膨らませる車掌に迷惑そうな顔をする春夜。
彼らの他に乗車している客が居ない即ち、この静寂な空間に少しでも彩りを加えようと旅先の明るい話をしているつもりなのだろうが、車掌の口調は何処か不気味でボコは春夜を壁にして訝しんでいた。
「ところで皆さんはこの列車が京都にとまらないのを知っていますか?」
「「えっ」」
車掌の言葉に思わず耳を疑ってしまったボコとわさビッチは互いに顔を見合わせるとピタリと硬直する。
「……どういうこと。私たち、乗る前ちゃんと行き先確認したよ」
今回の駆け落ちで敵に回すのは世界中のヒットマンが束になっても敵わない相手、夏出美春。
そのため行動は常に慎重さを保ち、新幹線のチケットを購入する時でさえ、美春の干渉が及ばない、わさビッチがーるの親族に頼った。
だから新幹線の乗り違えなど起こる筈もないとボコは言うのだが──
「ええ、つい先程までの行き先はそうでしたね。ですが貴女たちが向かうべきは京都ではなく虚無の世界」
「虚無って…………ッ!? 二人ともマズイぞ!」
車掌の言動に何かを察した春夜は手を突き出して、車掌を押し倒そうとするが『彼女』は一歩後退りすると春夜の攻撃を回避し一言。
「──失望したわよ、ハルくん」
そのまま懐から拳銃を取り出した彼女は冷淡な目つきで彼らを見ると、刹那──わさビッチがーるとボコの頭に風穴を開けた。
乾いた銃声と共に飛び散る少女達の鮮血は一瞬で春夜の心を破壊し、帽子を脱ぎ捨てた車掌を見てようやく彼女が自身の母親である事を理解した。
「ボコ、わさビッチ……なんで…………クッ、どうして母さんがここに居るんだよ!」
青褪めた顔で少女達の頭を必死に押さえる春夜。しかし溢れ出る血は止まることを知らず、春夜の手を伝って生臭い深紅の雫が床にポタポタ落ちる。
「その小娘共はもう諦めなさい。脳天に弾をしっかりブチ込んでやったから生きてる可能性なんて皆無よ。なんだったら、もう何発か撃ってあげる。こうやってね」
壊れたロボットのようにピクリともしなくなったボコとわさビッチに再度銃口を向ける美春。
すると彼女は息子に希望を持たせまいとそれぞれ三発ずつ、先程と同じ部位に弾丸を打ち込んで、二人が人間ではなくただの肉塊であることを証明した。
「……母さんは人の心を捨てたのか?」
美春のあまりに無慈悲な言動に開いた口が塞がらない春夜の体は小刻みに震えていた。それが怒りから来るものなのか、はたまた恐怖によるものなのか……
「あら、お母さんの事を捨てようとしたハルくんがそれを言っちゃう? ふーん。どうやらハルくんも少しは痛い思いをした方が良いみたいね」
「ちょ待って母さん……なんで俺に銃を向けて──」
「ごめんね」
反抗する息子には罰が必要だと、春夜の下腹部に躊躇いなく弾を一発お見舞いする美春。
穴の空いた酒樽から赤ワインが溢れるように、腹から血を流して服にシミをつくる春夜は苦痛で顔を歪める。
「ゔっ……俺を殺すつもりか、母さん」
「こうなってしまったら結果は見えてる筈よ。不本意だけどね」
「はぁ……悪い、わさビッチ」
ボコとわさビッチを殺した時点で母親との和解など、どだい無理な話で、春夜は自分の身を守るため、死体となったわさビッチを美春に押し付けて彼女を転倒させる。
そしてその間に通路を早足で歩く春夜は下腹部を押さえながら扉を通過すると、真横にあった男女兼用トイレに入り鍵をかけて嘆いた。
「ちくしょう……早くこの列車から脱出しねえとマジで殺されちまう」
「──は、春夜くん?」
美春から距離を取ることに集中しすぎて、声を聞くまでトイレの中に先客が居る事に気付かなかった春夜は青白い髪の少女、幼馴染の白来凍呼が鏡の前に立っているのを視認した。
「凍呼!? なんでお前がこんなとこに居るんだ。てかトイレ使ってんだったら鍵かけろよ」
「あはは、別に忘れ物取りに来ただけだから大丈夫だよ。それより春夜くんの方こそ苦しそうにお腹抱えて──って血出てるよ!? まさか、もうおばさんにやられっちゃった?」
「もう? なんで母さんにやられた事、凍呼が知ってんだ」
「なんでってそりゃあ、おばさんと私は春夜くんを殺りに一緒にここまでやって来たからね」
「……ゔっ、冗談じゃねえ」
いつもなら想い人を巡って啀み合う凍呼と美春。
しかし自分たちを捨てて、ボコとわさビッチがーるを選び、駆け落ちした彼が余程許せなかったのだろう。
自分の知らない所で美春と結託していた凍呼は彼の腹の傷口を指で強く押さえると、『ねえ痛い?』という言葉を繰り返し聞きながら、春夜の痛がる反応を楽しんでいた。いつからSの性癖に目覚めてしまったのか。
「──ハルくん、どうしてお母さんから逃げるのかなぁ?」
「ぎぃいいいッ!! と、凍呼ッ! ゔっ、お前のせいで……位置が即バレしたじゃねえか馬鹿がッ!」
トイレの外の通路にまで響き渡る春夜の絶叫を聞きつけて扉越しに話しかけてくる美春。
この場に凍呼が居なければ脱出する為に必要な考える時間が多少なりともあったのだろうが、凍呼は美春の声を聞くや否や、トイレの鍵を解錠して彼女の侵入を許した。
「あら、凍呼ちゃんも居たのね」
「はい、忘れ物取りにトイレに戻ったら丁度春夜くんも入ってきたので、少しだけ浮気者を痛めつけていました」
「そう、よくやったわ。ところで忘れ物というのは例のアレかしら?」
「そうです。この列車に仕掛けた爆弾の起爆装置です」
とてつもなく物騒な物をトイレに置き忘れていたらしい凍呼は黒いリモコンを右手に持って見せると、それを見た美春から『肌身離さず持ってないと駄目じゃない』と注意を受ける。
「爆弾って……俺を爆死させるのが目的か?」
痛みに耐えきれず、つい涙を流す春夜はもう逃げ場がない事を悟ると、壁に背中を擦り付けながら座り込み、凍呼に聞いた。
「そうだよ。私とおばさん、それと春夜くんはここで心中を遂げるんだよ。幸い他の乗客は居ないみたいだから、爆破による犠牲は私たちだけで済むようだし」
「……正気じゃねえ。てか運転手はどうした? ずっと走行してるけど、運転手は犠牲の内に入らないってか?」
「あはは、春夜くんは田舎者だから自動運転って言葉知らないんだよね」
「……いつからお前は都会っ子になった。舐めてんのか、ったく」
春夜に残された選択肢はただ一つ。
それは言わずもがな彼女達と一緒に死ぬ事なのだが、その準備が全くと言っていいほど整っていない春夜は気でも触れたのか、適当に千切ったトイレットペーパーを口の中に含むと、便器に溜まった水を飲んで一息ついた。
「ハルくん突然どうしたの? そんな気持ち悪い事して」
普通なら嫌悪して当たり前の春夜の行為。しかし常日頃から息子の愚行を見続けている美春はまったく動じる事なく彼に行動の意味を訊ねた。
「別に……最後の晩餐だけ済ましただけだよ」
「そう。じゃあ最後の晩餐ついでに最期の言葉も聞かせてくれる?」
「最期の言葉? って言われてもなあ……ボコとわさビッチがーるを愛してます。くらいしか言えねえよ」
「──凍呼ちゃん、スイッチ押しちゃって」
ここで美春を少しでも煽て上げれば、生存できる可能性も0.1%くらいは増加したのだろうが、自分の気持ちに嘘を吐けないのがこの男。
春夜は即刻美春の怒りを買うと、彼女に指示を受けた凍呼は曇り一つない笑みを浮かべて『バイバイ』の一言。
次の瞬間、視界の全てが白い光に包まれると春夜の人生は終わりを告げた────筈だった。
「…………あぁ、ゴミみてえな夢だな」
学校で遠藤茉未に蹴られ気絶させられ、ようやく自室のベッドで目を覚ました春夜はやつれた顔をしていた。
「やっと起きたわねアンタ」
「ぬぁッ、誰!?」
起きて早々、耳障りな声が聞こえて来ると春夜は半開きの目でパジャマ姿のちびっ子を捉えた。
「……おい、不法侵入者は警察に通報するぞ」
春夜の腹の上に跨る少女、それは彼の因縁の相手のチビガキで、妹の小春と同じクラスのデコ。そして何故だか不機嫌そうな態度を取る彼女は紙パックのコーヒー牛乳でカフェイン摂取を行っていた。
「んぁー、体中クソ痛え……お前、俺が寝てる間に殴ったろ」
「アンタが揺すっても起きないから腹と顔面に一発ずつ拳食らわしてやったのよ」
「夢の中で痛みを感じた理由はそれか。しかもベランダの窓ガラスも割って入りやがって……てか、そもそも今何時だ」
部屋中に四散したガラスの破片を見て、何が起こったのか直ぐに理解した春夜は大きな欠伸をしながら小さき犯罪者に現在の時刻を聞いた。
「夜中の二時半よ」
「二時半だと!? お前ニートかよ!」
「ニートはアンタでしょ」
真面目な学生ならとっくに就寝している時間帯に活動、それも無職者の部屋に侵入とはいい度胸しているなと、体を起こした春夜は少女からコーヒー牛乳を取り上げると彼女を蹴ってベッドから落とした。
「ちょっと何すんのよ!? 危ないでしょ!」
「寝てる奴の体を平気で殴れるお前の方が危ねえわ。母さんに見つかったらぶっ殺されるぞ」
「ふん、それを考えた上で私はベランダから侵入したのよ。アンタのママが更年期で荒れてるって情報は前もって掴んでたんだから」
「人の母親を厄介ババアみたいに言うな。あと俺の部屋に来た用件を言え。どうせ俺が恋しくて押しかけた訳じゃないんだろ」
「当たり前でしょ。誰がアンタのようなひん曲がり男を好きになるって────あッ!! そそ、そんな事よりボコが大変なのよッ!!」
夜中だというのに声のボリュームを抑える事なく突然声を荒げ始めたデコに体をビクッと反射させる春夜。
一階には母親の寝室があり、恐らく美春は現在そこで眠っている筈。
ならば今大声を出すのは愚か者がすることだと、春夜は人差し指を口に当てデコを睨みつけた。
「馬鹿ッ、声がでけえよ! 物事を表面でしか見ない母さんがこの状況を見たら、俺まで罰を受けるだろうが!」
「んな事今はどうだっていいのよ! ボコが……ボコがこの時間になっても家に帰って来てないのよ!? アンタ誘拐したでしょ!」
「してねーし、一旦落ち着け」
以前ボコにセクハラばかりしていた所為でボコの不在、つまりは夏出春夜に誘拐されたという、あらぬ疑いをかけられるこの男。
ボコは確かに誰もが攫って監禁したくなるくらいには可愛いが、彼女は仮にも女子高生。多感な時期に突入し、家に帰りたくない日もあるのではと春夜は珍しくデコを宥めるが……
ボコが連絡も入れずに帰って来ないなんてこと絶対有り得ない上に、深夜に田舎をほっつき歩いて何か得することがあるかと逆にキレられた。
「そんなに心配なら俺じゃなくまず華火に言えよ」
「いや、パパ今出張中だから。余計な心配かけて仕事の邪魔はしたくない」
「別に余計ではないだろ。それより他人の睡眠を邪魔する事に罪悪感を覚えろよ」
「それは無理な話ね。アンタは真性のクズなんだから」
クズ相手になら何をしても構わないと、酷い勘違いをしているボコに呆れた様子で溜息を吐く春夜。
だが彼にとってもボコは大切な存在である事には変わりはなく、春夜は布団から出るとビショビショに濡らしたズボンでクローゼットへと向かった。
「……ボコ探しに行く前に先ずはおねしょの処理をしねえとな」
「──なァッ!? 春夜お前……その歳になってまでお漏らしとか、きっしょッ!」
「あ? お前や遠藤茉未が腹を蹴ったり殴ったりするから、俺の膀胱がイカれちまったんだろうが」
流石は普段から漏らし慣れている春夜。今更おねしょ如きで騒ぎ立てる事は愚か、こうなった原因は二人の暴力女にあると冷静沈着な顔で言い放つ。




