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29話 聖書

「うわぁああああんっ! 母さぁあああぁん! 捨てないでえっ、わさビッチがーるの握手券すてないでぇえええ!」


 夏出家の居間で美春の腹部にしがみつき、年甲斐もなく泣き喚いている春夜。

 彼は先日のアルバイト報酬で手にした、彼の愛してやまないアイドル握手券が現在進行形で失われつつある状況にあった。


「門限破って他の女と花火して? 終いには私の大っ嫌いなメス豚アイドルの握手券まで隠し持って、最近のハルくんの行動には本当にガッカリさせられてばっかりだよ」


「か、母さん?」


「この浮気者浮気者浮気者浮気者浮気者……」


「いや怖っ────んゔっ!?」


 嫉妬に狂った美春は呪文のように春夜は浮気者だと連呼すると、次の瞬間手に持ったアイドル握手券をビリビリに破いて容赦なく口の中へと放り込んだ。


「なっ、え……なな、何やってんの母さん?」


「ううぇマズッ。メス豚ビッチの味がするわね、この紙切れ」


 ただ握手券をゴミ箱に捨てられるだけであったら、後からこっそりゴミ箱を漁って取り戻す事ができたのだが、美春はその事すらお見通しなのだろう。

 握手券を胃の中でドロドロに溶かし二度と春夜の手元に戻らないよう考えていた。


「ななな、なんて事してんの母さん!? その握手券手に入れる為、俺はやりたくもないバイトをして散々な目に遭ったんですよ!?」


「ハルくんは今一度誰の物なのかって考え直した方がいいわ。はい、今日から1週間この『聖書』を首にぶら下げて頭の中を常にお母さんでいっぱいにしなさい」


「聖書って……」


 独占欲を剥き出しにする美春はネックストラップ付きの紙書籍を春夜の首にかけると、1週間肌身離さず過ごせと命令してきた。

 だがこの本は重さ3キロ厚さ8センチと、辞書のような形状をしている為、彼の首には相当な負担がかかってしまう。


 握手券を失った春夜は悲しみの涙を流しながら、その『聖書』とやらのページを開くと、そこには血の繋がった母のヌード写真が無数にあった。


「全3271ページ、毎日朝昼晩10回ずつ目を通してね。でないとハルくんは一生お母さんの部屋で過ごす事になるから。冗談抜きでハルくんを鎖で縛って監禁しちゃうからね」


「いやきっつ! どっちに転んでも俺の自由ないじゃん。それにこれ全部母さんのドエロ写真なのか? いくらなんでも撮りすぎ──ぬあっ!? も、もしかして見知らぬエロジジイに撮影頼んでないよな!?」


「あらぁ? お母さんの裸が他人に見られるのそんなに嫌なの? うふふ、ハルくん可愛いー! でも安心して、私の裸を見ていいのは私の家族だけだから。この写真は全てハルちゃんが撮ったんだよ。綺麗に撮れてるでしょー」


「小春にコレを撮らせるって母さんは相変わらず頭がぶっ飛んでんだな……」


 家事はてんでダメでもカメラマン役としては中々の技量を持つ小春は兄と同じで暇人なのだろうか。

 よもや母親のスケベ写真集を作るために何千回もシャッターを切って協力していたとは……


 母親の行動が常軌を逸していると改めて実感する春夜は一旦目を閉じて心を落ち着かせた。


「それじゃ、お母さん今日もお仕事行ってくるからスズちゃんと仲良くお留守番お願いね」


「あーもうそんな時間か、いってらっしゃい」


「いってきまーす! の前にハルくん、いつものやつ忘れてるよ」


「……はぁ」


 夏出家には家族を見送る際に互いの目をジッと合わせて、一分間恋人のように抱きしめ合う挨拶がある。

 それは機嫌の悪い時、喧嘩中の時、いかなる時であれ、そのスキンシップは親子兄妹問わず必ず行わなければならない。


 春夜は美春の深い愛情のこもった眼差しを受け止めると、互いの頬を擦り合わせながら、いやらしさ満載の抱擁を交わした。


「うんうん、これこれ! これがあれば今日の仕事は元気ハツラツで頑張れるよ! さあスズちゃんもお母さんと熱いハグを交わしましょ!」


「ん、了解」


 この一連の流れをテレビ鑑賞と並行して流し聞きしていたスズは美春の問いかけに応じると、ソファから立ち上がり美春の前まで移動すると床に両膝をついては愛の抱擁を開始した。


「スズ、お前いつもテレビに(かじ)り付いてるけど、目ついてないのにこんなもの楽しめんのか?」


「お兄ちゃん。それ、ラジオ好きな人に対しても同じ事聞ける?」


「え、聞けるけど」


「……ならお兄ちゃんに話しても無意味」


「無意味ってなあ、スズがウチに来てから夏出家のテレビに映るのは教育番組だけになってんだぞ。俺にドラマやバラエティ番組を観させろよ」


 変態美春の荒い息が胸の谷間に吹きかかり、卑猥な手つきでおっぱいを揉みしだかれるスズはテンションを一定に保ったまま春夜と普通に言葉を交わしていた。

 年頃の女子ならデコのようにハレンチ行為に対して顔を赤らめてもよい筈なのだが、やはり10歳というのは彼女の妄想か。


 春夜はリモコンでテレビのチャンネルを変えると、スズは膨れっ面になって露骨に嫌な反応を見せた。


「お兄ちゃん、勝手にチャンネル変えないでよ」


「いや変えるだろ。自然ドキュメンタリーとか意味わかんねーくらいつまんねえし。これだったらまだニュース見てる方がマシだ」


「そんなの自分の携帯なりパソコンなりで観ればいい」


 週末の午前中という事もあって、この時間帯はどの局も大して面白そうな番組をやっていない。

 これならどの番組を選んでもさほど変わらないとは思うが、ただ自然を垂れ流しにしてる放送を見るくらいなら外出て田舎町の風景でも楽しんどけと提案する春夜。


「こらこら二人とも、小さなことで言い合いしない。ウチのテレビは二画面表示で見ることができるでしょ。それで自然ドキュメンタリーとニュースを一緒に……ってあれ?」


 スズとのハグを終えた美春は満足げな表情でキッチンに向かうのだが、春夜お手製のお弁当を仕事用のカバンに入れる際に自分用のとは別にもう一つ弁当箱が置かれているのを確認した彼女は目を大きく見開いて驚いた。


「ハルちゃんお弁当忘れてるッ!」


「うえっ、またか」


 今日は小春の通っている学校が休みの日で、小春が朝から夕方頃まで部活動を行う日。

 外の気温は相変わらず高く、昼食抜きでの運動は体を壊しかねないと親として心配になる美春は、小春の弁当箱を春夜に手渡した。


「ハルくん、悪いけどハルちゃんにお弁当届けてきてくれる? どうやらハルちゃん、携帯や財布もテーブルの上に置きっぱなしにしてるみたいだから」


「……小春は本当に女子高生か?」


 携帯や財布があれば高校近くにあるコンビニでおにぎりやらパンやらを買うことができたのだが、部活に関係のない物は不要だと考えたのか、はたまた貴重品をただ家に忘れてしまったドジっ子なだけなのか。どちらにせよ今時の女子高生でありながらスマホに依存しない妹に春夜は兄として感心するのであった。


「あっ、でも今のハルくんの信用は地の底まで落ちてるから監視役としてスズちゃんを連れていってね。そしてくれぐれも家族以外の女と喋らないように」


「なんか俺の扱い犯罪者みたいじゃね」


「あら、今更気付いたの? あれほどお母さんに悲しい思いをさせておいて」


「俺も握手券食われて悲痛な思いしてんだけどなぁ……」


「え、なんか言った?」


「いや、母さんと丸一日握手してえなって」


「まあハルくんったら! 明日はお仕事お休みだから一日中密着しましょうね!」


 母親には一生逆らえそうにない春夜は自らマザコンの道へと突き進みに行くと、鼻歌交じりにスキップして家を出た美春をスズと春夜は見送った。


 ◆◆◆


「夏出の家になんで父は居ないの?」


「外出して第一声がそれか。暑さで脳みそやられちまったか?」


「私、この程度の暑さ全然平気だけど」


「なら尚更心配だな」


 小春に弁当を届けるべく春夜とスズは学校に向かって歩いていたのだが、スズはそれはそれは本当に突然、夏出家に父親が居ない件について触れ始めた。


「私が夏出家の居候になってから一度も夏出の父に会ってない。どうして? 海外出張中?」


「ああ、そういうことか。けど俺も実は父親についてはあまり知らなくてだな。母さんが言うには俺と小春が小さかった頃に事故で亡くなったとかなんとか」


「何そのあやふやな回答。顔も覚えてないの?」


「家に写真もないからな。というかそんなに気になるなら直接母さんに聞けばいいだろ」


 居候の立場だからこそ家族構成は詳しく知りたかったのか。やたらと質問攻めをするスズは春夜から曖昧な答えは求めていなかった。


「母に聞くのは気まずいからお兄ちゃんに聞いた」


「何だその中途半端な配慮は。それにスズは人の心が読める妖怪なんだろ? ならそれで母さんの心読めばいいじゃねえか」


「そんな非常識なこと私できないから」


「この前、俺の心を無許可で読んだくせに何言ってんだ」


 スズの中での優先順位が明らかに下がっている春夜にプライバシーはもはや皆無。

 そしてこれから起こる出来事全てを美春に報告されるかと思うと、これほど監視役に適した人物もとい妖怪は存在しないと春夜はスズを見上げて苦い顔をした。


「それにしてもお腹空いたな。なあスズ、小春に会う前に何か食べていかねえか? 弁当作るのに満足して朝飯食うの忘れた」


「分かった。私は朝ごはんちゃんと食べたから全然お腹空いてないけど」


「ならジュースを頼め」


「うん」


 春夜の空腹を満たす為、急遽予定を変更して付近の喫茶店に立ち寄った二人。

 店の内装は茶色を基調とした落ち着いた色合いとなっており、珈琲の苦い香りと老人の渋い香り、そして暗い曲調のロシア民謡が独特な喫茶店として中々の味を出していた。


「んじゃー、俺はわさび盛り盛り特製オムライスとわさび100%クリームソーダで」


「……私はメロンクリームソーダを一つ」


「わさび盛り盛り特製オムライスとわさび100%クリームソーダ、そしてメロンクリームソーダがお一つですね。かしこまりました」


 体の大きさの都合上、スズと4人掛けのソファ席に向かい合って座ることになった春夜。

 二人はメニュー表を一緒に見ながら白髪白髭のマスターに注文をすると出されたお冷に口をつけた。


「この店の何が良いって山葵専門店でもないのに山葵に特化した料理があるってところなんだよなー。ぴょんラビより全然評価高え」


「……ぴょんラビ?」


「ああ……この町には妖怪御用達(ごようたし)のレストランがあってな、その店の名前が『ぴょんぴょんラビット』っていうんだ。客に芋虫の素揚げを食わせる最低な店だけど」


「あれ、それってお兄ちゃんが先日バイトしてたってお店?」


「……はあ、握手券」


 華火の居ない場所で店の評価を下げる春夜は、つい先刻失くしてしまった握手券に思いを馳せると深い溜息を吐いた。


「あ、そうだ。母さんから貰った聖書読まねえと」


 母親から課せられた、朝昼晩に10回ずつ夏出美春のエロ写真という名の聖書を読むのは、本を受け取った時点で既に始まっており、料理が出されるまでの間の時間は有効に使おうと、春夜は真剣な顔つきでエロ本を読み始めた。


「ほう、これは中々……エッチだな」


「お兄ちゃん鼻血出てる。そんなにエロいの?」


「いやもうチチの輪っかがでかいのなんの。母さんの裸は見慣れてる筈なんだけど、これは凄い」


 母の裸体を紙の媒体で見る所為か、生とはまた違った魅力を感じ、春夜は鼻血が出るほどの興奮を覚えていた。


「ごくり……ねえお兄ちゃん、私もちょっとだけ覗いてみてもいい?」


「いやこれは10歳にはまだ早え。この聖書に触れた瞬間、脳みそをおっぱいで(じか)ビンタされて、おっぱい脳震盪(のうしんとう)起こすぞ」


「何その意味のわからない脳震盪」


「R-18に収まらないレベルのエロさって事。てかスズにはまず見えないだろこれ」


「そんな事ない。だから少し貸して」


 聖書に目を通した春夜の感想が実に意味不明で、逆に興味が湧いてくるスズは体を前に出して聖書に触れようとするも、春夜が彼女の手を弾いてそれを阻止した。

 そして二人のやり取りは瞬く間に周囲の客の注目を集めると、春夜の隣の空いた席に突然、彼と同い年くらいの青年が何の断りも入れずに座り始めた。


「さてと、今日の採血を始めようか」


 春夜より10センチほど身長が高く、目鼻立ちが整った青年は黒い髪と群青色の瞳をしている。

 右耳にのみ緑色のピアスがついており、青いワイシャツの上に白衣を羽織っていた。


 青年は茶色のクランクケースから医療機器諸々を取り出すと、春夜の左腕を駆血帯で締め、消毒を一切せずに血管に針を刺して採血を行った。


「……おい、何が採血を始めようだ。勝手に人の隣に座って勝手に人の腕に針ぶっ刺しやがって。てか何でそもそもお前がここに居んだよ、夏彦(なつひこ)


 青年の名は(すだれ)夏彦。

 小春の学友の兄を語る、採血が趣味の怪しい男。

 そして春夜がこの非常識な行動に然程(さほど)驚かなかったのは、以前から夏彦と会う度に血を勝手に採られているからであって、仮に見知らぬ者から採血されてたら春夜も即刻通報している。


「君がこの店の常連客だと聞いてね。私も時折ここに足を運ぶようにしているんだ。春夜の血は他のと違って珍しい反応を示すからね」


「ヤバいストーカーじゃねえか」


「ストーカーとは心外な。採血後にはいつも報酬のワイングラスをあげているじゃないか。献血センターのように」


「報酬のチョイスが酷いんだよ。俺はまだ19だぞ? ワイングラスで水やジュースを飲めってか?」


「まあそう言わずに受け取ってくれ」


 またもやクランクケースの中を弄る夏彦は箱にも袋にも入っていない裸の状態でワイングラスを取り出すと春夜の目の前にストッと置いた。


「だから要らねえって。絶対100均で買ったやつだろこのグラス」


「無論、無駄な物に金は払いたくないからね」


「今、無駄って言ったな」


 無駄な物を贈られたところでそれはゴミにしかならない為、この喫茶店のオブジェとして置いておく事に決定した春夜はグラスをテーブルの隅っこに移動させる。


「お兄ちゃんって友達多いの?」


「友達? 限りなく少ないぞ。住人の殆どから嫌われてるから」


 スズの純粋な問い掛けに自虐で返す春夜。


「あと夏彦は別に友達でも何でもねえからな。気付いたらそこに居た猫のようなもんだ。あ、いや、血を盗ってくるから蚊の方が近いか」


「……蚊の友達」


「だから友達じゃねえって」


 採血管に入った赤黒い血を無表情でジッと見つめている夏彦を友と認めてしまっては、自分まで猟奇的な奴だと思われてしまう為、そこの分別はしっかりつける春夜は先日デコを燃やした件についてどう考えているのか。


 せっかくの読書タイムをスズや夏彦に邪魔された春夜は、トレンチの上に料理を載せ、こちら側に向かって来るマスターを視認すると、空腹からか(よだれ)をじゅるりと垂らしていた。


「──お待たせ致しました。わさびオムライスとソーダ二つでございます」


「おお、このツーンと鼻にくる刺激的な香り……今日も今日とて大量且つ新鮮な山葵を使ってますなあ」


 通常のオムライスは黄色いフワフワの玉子の上に赤いケチャップがかかっているのだが、春夜の注文したわさびオムライスは玉子に大量の山葵を混ぜ込み、ソースも何十種もの山葵を使用して作っている為、皿の上は全面黄緑色。勿論、山葵のクリームソーダも同様だ。


「あ、料理名長すぎて省略した。如何にも店主っぽいのに」


「そう言うなスズ。マスターはジジイだから長文は顎に来るんだよ」


 注文を受ける時、そして料理を提供する時に、いちいち『わさび盛り盛り』やら『わさび100%』なんて言ってたら顎関節症になってしまい営業どころではないとマスターを小馬鹿にする春夜はスズに注意できる立場ではない。


「しかし春夜。君は毎度この様なゴミを食しているのか? 正気の沙汰とは思えないな」


 山葵料理の見た目と臭いの酷さに、夏彦は顎に手を当て目を細めると、春夜の思考が正常でないと判断する。


「お前にだけは言われたくねえよ。てかワサビ飯をゴミって言うな! 天上の飯だぞ、わさび盛り盛りオムライス」


「天上か……君がそこまで言うのなら私にも少しだけ分けてくれないか。私の舌がどの様な反応を示すか気になってきた」


「いや、何で俺の飯をあげなきゃならねえんだ。食いたいなら自分で頼め、そして元いた席に戻れ」


 このオムライスは自分の物。故に誰の手にも触れさせないと、オムライスに満遍なく唾液を垂らす春夜は珍しくドケチな部分を曝け出している。


「お兄ちゃん、行儀悪い」


 いくら山葵が好きだからって、ここまで意地汚くなる必要はなくはないかと、スズはクリームソーダを堪能しながら春夜のマナーがなっていない事を指摘した。

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