19話 焼肉のタレと一匹のブタ
「何言ってるんですか、俺は従業員ですよ。今日が初出勤の新人です」
「新人が今日来るなんて聞いてないミャウよ」
「あ、あれー、店長俺のこと言ってなかったのかなー?」
豚に費やした時間を無駄にしない為にも、春夜はお得意の嘘で猫又を騙そうとするが、口調から白々しさが滲み出ている春夜は早くも地雷を踏んでしまう。
「店長はボクミャウよ」
「は?」
店長というワードを含ませ喋ったのが裏目に出たか、制服がなければ従業員にすら見えないような猫が店長をやっていたとは……
これで春夜は言い逃れができない状況に陥ってしまう。
そう、並大抵の人なら猫の言葉をまんまと鵜呑みにして危うい状況に陥ったと考えるのが普通だが、嘘吐きのプロフェッショナル『夏出春夜』は猫のヒゲを根本から引き抜くと、苦痛に顔を歪める猫を侮蔑しながら口を開いた。
「なんてな。テメエみたいな猫が店長になれる訳ねえだろ。ま、奇跡的になれたとしても、せいぜいペットショップの店長くらいか……鎌をかける相手を間違えたな、この器の小せえクソ猫」
「ひ、酷いミャウ!! 何で怪しい奴の素性を確かめようとしただけなのに、ボクの大事なヒゲを引っこ抜くミャウか! これ神経ちゃんと通ってるから、引っこ抜かれるとかなり痛いミャウよ!?」
「はっ、そんなの知ったことか。俺に嘘を吐くって事は、大事なものの一つや二つ失うって事を覚えとけ」
春夜はヒゲを抜くだけでは飽き足らず、猫又のサングラスを奪って地面に叩きつけると、黒い革靴で容赦なく踏みつけ粉々に粉砕した。
出会って数分もしない内に、春夜の腹黒さを前に涙目になる猫又は、自ら突っかかってきた割にはメンタルが非常に弱い妖怪である事が今ハッキリした。
「ひ、非情ミャウ。君が踏んづけたボクのサングラス……初任給で購入した思い入れのあるサングラスなのに」
「いい機会じゃねえか。思い出は一旦ここらで切り捨て、心機一転新しいサングラスでも買って自分の価値を高めて来い。この店で働いてるなら給料もそれなりに貰ってるだろうし、良い物も買えんだろ」
床に四散したサングラスの残骸を両腕で掻き集める猫又の悲しい背中を見ては、元も子もない発言をする春夜。
猫はそんな思い出があるからこそ、この仕事も頑張っていけると感じているのだが、過去に何度も母親によってアイドルグッズを破壊された春夜は、物に執着する事がいかに無意味な事か、今度は己が破壊者となって教訓を垂れていた。
「……そうやって、店長のサングラスも奪ったミャウか?」
「あ? 店長のサングラス?」
「とぼけるなミャウ! そのサングラスは店長の私物ミャウよ! ボク、前に直接手で触れて見せてもらったから、ちゃんと覚えてるミャウ」
「……はぁ、店長か」
春夜が今かけてるサングラスは、用を足していた男性を気絶させ拝借した物だが、猫又の言葉であの哀しき男性がこの店の店長だという事が判った。
「どうも怪しいミャウね。さっき店にパンツ一丁の変態が現れてから、店長の姿がまるきし確認できなくなったミャウし……もしかして、君」
「その様子だと俺をパンツ一丁の変態だと疑ってるみたいだが、残念だったな。店長は今世紀最大の爆弾を投下する為、今も尚トイレで踏ん張り続けている。しかし店長とあろう者が、トイレに籠りっぱなしは不味いと踏んだのだろう……アイツは、たまたまトイレで居合わせた俺に自身のサングラスを託すと、店長代理として頑張れと言ってきた。たとえ新人であっても俺なら直ぐに店に貢献できると思ったんだろ……あ、因みにパンツ一丁の変態は、いきなり便器の中に飛び込むや否や、そのまま水に流されて消えちまったぞ」
「────絶対、嘘ミャウ」
よくもまあ次々と嘘が浮かび上がり、饒舌になる事ができるなと、自分の嘘よりも遥かにクオリティが低い嘘を放つ春夜を蔑む猫又。
何が今世紀最大の爆弾を投下する店長に、便器の中に飛び込んで流された変態だ。
この言葉を信じる方が逆に難しい猫又は、店長が本当にトイレで踏ん張ってるのか確認しに行こうと足を動かすが、春夜は猫の二本ある尻尾を右手で握ると脅しにかかった。
「──あ、店長って屁の音聞かれるの相当気にするみたいだから、今はトイレに入らねえ方がいいぞ」
「そんな話、店長から一度も聞いたことないミャウ」
「そうか、ならクビだな。店長の排便音も気遣えねえとは、この店に相応しくない三流野郎だ。今すぐその制服脱いで、出て行け」
「何で胡散臭い君にそんな事言われなきゃならないミャウか!?」
「何でって、俺が店長代理だからだ。ルールを破った奴は問答無用で窓から放り投げてもいいっていう許可も出てるから。いくら猫妖怪でもこの高さから落ちれば死確定だから覚悟しとけ」
すっかり店長の代理人になりきっている春夜は、掴んだ尻尾を強引に引っ張って、猫又を窓際の方まで連れて行くと、猫又の顔面を窓ガラスに押しつけた。
地上から離れたこの場所で、春夜は猫又を突き落とす姿勢を示したのだ。
「じょじょ、じょっ、冗談ミャウよね!?」
「この夜景を見ながらダイブは、さぞ気持ちいいだろうなあ」
「ミャ!? これ冗談じゃないミャウ!」
いくら心を惹きつける美しい夜景であっても、それが自らの命の危機に直結するものなら、せっかくの夜景も猫又の瞳には醜く映ってしまう。
マンションの10階くらいの高さから突き落とされるなら、猫又も傷一つ負う事はないのだが、地上から200m以上離れたこのフロアから落下すれば、春夜の言うように猫又は悲惨な死を遂げてしまう事になる。
そして、こんなにも悪目立ちした従業員の揉め事に何故か周囲の者たちは干渉しないどころか、そういうオブジェとして扱うと、猫又は顔色を悪くし、額から冷たい汗をダラダラ垂れ流していた。
「これでも店長の排便音聞きに行きたいか?」
「──行きたくないミャウ! 今の男性用トイレは店長の強烈な臭いで充満してるから、絶対に入りたくないミャウ!」
「はーい、よく言えましたねー」
店長の安否を確認するより、己の命を守る事を優先した猫又。
春夜はそんな聞き分けの良い猫ちゃんの顔を窓から引き離すと、顎の下を優しく撫でては自分に逆らうとどうなるか、じわじわと恐怖を植え付けていく。
「じゃあ猫くん。君は早速あの成金ブタ野郎の対応をしてくれ」
「お客に対して、その呼び方は駄目ミャウよ。あそこに座る方は廼章尽玄秋斎様といって、この国……つまりは妖帝府の軍需企業の社長さんをやってる立派な豚ミャウ」
「……だ、だいじょうぶです、げんまいは?」
「廼章尽玄秋斎ミャウ。どういう間違いしてるミャウか」
「いや、難しッ! ブタのくせに名前複雑すぎだろ! 何が『げんりゅうさい』だ。どう見ても『ポルコ顔』じゃねえか」
「『げんりゅうさい』じゃなく『げんしゅうさい』ミャウ。確かに豚がサングラスを掛ける姿は、空飛ぶ豚を彷彿とさせるミャウが、あっちは頭フサフサ、こっちは頭ツルツル。後々、本物が来た時に困らない為にも、顧客情報はしっかりと頭に詰め込んでおくミャウ」
たとえ春夜の下につく事になっても、従業員としての自覚をしっかりと持っている猫又はできた店員だ。
店側が客の情報、ましてや上客の情報を一切把握していないとなると、店の評判を落とすことに直結してしまう。
『飛べない』『髪ない』『金しかない』豚こと、強者感漂う名前をした玄秋斎が、心に余裕を持つ者だから良かったものの、彼がもし『飛べない』『髪ない』に加えて、金もなければ、心が荒みきった豚は春夜の接客態度に腹を立てて、店の悪評を誇張し、吹聴していたかもしれない。
その可能性を少しでも減らす為にも、客の名前は大前提に覚えておく事を伝える新人よりも立場の低い先輩。
「それと新人兼、店長代理。君は先に飲み物をお出しするのを忘れているミャウよ」
「飲み物?」
「この店では、お客から注文を受ける際に必ず飲み物を用意するルールがあるミャウ。まあそこはレストランと同じシステムミャウね。けど、提供するドリンクはお客によって異なり、ここでも顧客情報にあるお客の好物を把握しておかないと駄目ミャウ」
「何だそれ、クソ面倒くせえな」
「因みに玄秋斎様は甘口の焼肉タレが好物だから、それをお出しするミャウ」
「それは飲み物じゃねえだろ。てかあのブタ、娘から焼肉タレをプレゼントされて喜んでたのって、本心だったのかよ!?」
焼肉にも使われる豚という肉塊が好んで焼肉タレを飲むような奴だったとは……豚がぶくぶく肥える理由も、娘から嫌厭されるようになった理由も何となく分かってきた春夜。
すると猫又はカウンターテーブルの方まで春夜を引き連れて歩くと、ボトル棚から一本ウン百万円しそうな風格あるワインボトルを手に取った。
「まずはボクが手本を見せるミャウ」
ドリンク提供は言葉で説明するより実際に見てもらった方が早いと仰る猫又は、ボトルを持った状態で春夜を置き去りにすると、玄秋斎の元へと向かっていった。
「先輩ヅラは痛いぞー」
手本を見せてもらうのは別に悪い事ではないのだが、今日一日……それもたった数十分程度しか働く気のない春夜からしたら、猫又の教えはほぼ無意味。
それにざっと辺りを見渡してみても、作務衣姿の小春がここに居る気配がまるでなければ、これ以上この店にいる意味も見当たらない春夜は、これを機に店を抜け出そうと考えている。
しかし、一度の行動でドリンクの注ぎ方等を完璧に覚えてもらいたいのか、猫又はチラチラ春夜の方を確認してくると『瞬きせずに見てるミャウよ!?』といった念を送ってくる。
だが春夜は我を貫く男。
たった一匹の猫の念如きで彼の気持ちが突き動かされる事など、本来ならあり得ないのだが、豚が焼肉タレを好んで飲む姿がふと気になってしまうと、春夜はこの場面だけはこの目に収めておく事にした。
「タレに飲まれる肉がタレを飲むとは……世も末だな」
せいぜい面白い光景を見せてくれという春夜の期待の眼差しに対し、飲み物をいかにスマートに提供できるか先輩らしいところを見せてくれといった違った解釈をする猫又は、畏まった態度で玄秋斎にボトルラベルを見せると飲み物を提供する姿勢を示した。
猫又は栓抜きでボトルのコルクを抜くと、右手でボトルの底を持ち、テーブルの上に置かれた空のワイングラスに注ごうとする。
ここまでは春夜も予想した通りの行動だったのだが、猫又は気でも狂ったのか、玄秋斎の巨体に向かって突然ボトルの中にある茶色い液体を撒き散らすと、文字通り豚をタレまみれにする。
上質なスーツは勿論のこと、サングラスや腕時計……身につけていた高級品全てがタレで汚されてしまっている。
春夜の悪態が可愛く思えてくる猫又の奇行に、玄秋斎につくボディーガード三人は遂に非礼な者を咎めるのかと思いきや、まだゲーム機で遊んで燥いでいる事から、豚はあのバカ三人組を甘やかし過ぎではないかと春夜は感じる。
すると春夜にグッドサインを送ってきた猫又は何を勘違いしたのか、これが飲み物の正しい注ぎ方だぞと言わんばかりに、やり遂げた顔をして胸を張っている。
これには春夜も開いた口が塞がらない。
「うわあ……生肉の状態でタレ付けても、絶対に美味しくないだろ。あのブタは」
心配するべき点がズレている春夜だが、案の定『プギィッ、プギプギィッ!』と鳴き声を発する豚は客を客とも思わぬ店員の行動に憤激したのか、先程春夜の体を締め付けた舌を再び伸ばすと、猫又の全身を舌で覆う────事はなく、服に付着した焼肉タレをベロベロと下品に舐め始めた。
何とこの豚。嫌な顔をするどころか、頭から焼肉タレを浴びた事で多大なる喜びを露わにすると、焼肉タレを舐めとる同時に全身を自身の唾液で汚していたのだ。
テーブルに置かれたグラスは一体何のためにあるのだろうか……
客もそうだが、従業員も十分イカれている事に、この店に長居しては自身も毒されてしまうと感じた春夜は、猫又にバッドサインを送ると今度こそ店を去ろうとする。
豚を通して、ここが妖帝府である事は確認できたが、それ以外に得られたものは店長のタキシードと豚のドM具合で、予想以上に無駄な時間を過ごした春夜は店の出入り口まで足を進めると、また他の客が丁度店に入ってくるのを視認した。
しかし春夜の意は既に決している。
悪目立ちを最小限に減らす為、豚の要望だけは聞いてやったが、小春がこの店のどこにも居ないと確信を持てた今、客に構う必要はないと、遂に右足を店の外へと踏み出す事に成功した春夜は自然と笑みが溢れる。
やはり自分は労働をするべき人間ではなかったと再認識した男──の運命は実に酷で、春夜は突然後ろから首根っこを掴まれると、店の中に向かって投げ飛ばされた。
「──この私を無視して店を出るとは……貴方、首を切られたいのかしら」
黒のサングラス越しに春夜を睨み付けるスレンダーな女性は、黒薔薇が装飾された上質なドレスと黒色のハイヒール……そして腰辺りまで伸びた艶のある黒髪と、全身が漆黒で覆われていて、右手に黒のポーチを抱えている。
この明らかにお高くとまった女性はヒール無しでも身長が180cmくらいはあり、春夜を軽く投げ飛ばした事から、腕力も中々のものと考えられる。
こういったタイプの女性は春夜が最も忌み嫌う存在で、薔薇の香りのオーデコロンを使用している事からポイントも更にマイナス。
「ちくしょう、俺は脱出ゲームをしてるんじゃねえぞ」