18話 成金ブタ野郎
小春の不器用は周囲を巻き込むタイプの人騒がせ不器用。
春夜は歯を食いしばりながら内股で直立すると、呆気に取られた美春とスズを置き去りにして自室を飛び出して行った。
しかし根性で股間のダメージを欺ける程、春夜の心も肉体も強靭なものではない為、階段でバランスを崩した彼は盛大に転がり落ちてしまう。
「く、挫けそう……」
連日不幸な目に遭う青年は、何故自分ばかりがこんな仕打ちを受けなければならないのかと、心の不満を顔に表し、壁に手をつきながら、やっとの思いでリビングの扉の前まで到達する。
我が妹は今回はどんなやらかしをしてくれたのか、ここから先に入るのが嫌で嫌で堪らない兄は、赤い薔薇の花びらが床に散っているのを確認した。
「うちに薔薇なんて置いてないのに……な、何だこれ」
おそらくこれも小春の不器用が招いたものなのだろうが、問題は部屋の外よりも中の方。
春夜は何の躊躇いもなく花びらを踏みつけると、リビングに通ずる扉を勢いよく開き、そして絶句する。
本当ならこの扉を開いた先には、家電家具が一通り揃えられた一般的なインテリアが確認できるのだが、春夜の知ってる場所は既にここにはなかった。
それどころか、かつてリビングがあった場所には気品漂うバーが構えられていたのだ。
「……やってくれたな、小春」
股間の痛みも一気に吹き飛ぶ、異様な現象。
そしてバーという事だけあって、身なりのいい人間や妖怪の客は勿論、見ているだけで眠くなってしまう淡い光を生み出す間接照明に、またもや聞いているだけで眠くなってしまう心地の良い生演奏。
どうやら元ある空間が何処かに飛ばされ、別の空間を呼び寄せてしまったのが、今回の小春の不器用イベントらしい。
「まるで、どこで◯ドアだな」
取り敢えず扉の中に足を踏み入れて、小春を探す事にした春夜は、早速その場に居る者たちから一斉に注目を集めてしまう。
原因は言わずもがなパンツ一丁で店に入ってしまった事だが、春夜が入店した直後に扉は霧のように消失すると、彼は夏出ハウスに戻れなくなってしまう。
しかし彼はこの状況に慣れているのか、どこか落ち着いた様子で、皆に素肌を見られているこの状況でも恥じるどころか堂々と店内を歩く春夜は、紳士用トイレを発見するや否や、何食わぬ顔でトイレの中に入って行った。
幸運な事に、このトイレには既にタキシード姿の一人の人間が用を足していて、春夜は慣れた手つきで男性の首を背後から絞めると即座に失神させる。
そして当たり前のように男性のタキシードを拝借した卑劣春夜は早々と着替えると、後でトイレを利用する者が不審に思わぬよう、落ちた男性を個室の中に閉じ込める。
「……おいおい、目の前にト◯クルーズが居るじゃねえか」
鏡に映る自分の姿を見て、そんな馬鹿げた事を抜かす春夜は自惚れが過ぎている。
普段着ないタキシードに余程テンションが上がったのか、水道水をジェル代わりにして髪を固めると春夜は自身の髪型をオールバックにした。
しかしまだ何かが足りない。
いつもより数段は大人びて見えているのだが、ハリウッド俳優になりきる為にはアレが必要だと、胸ポケットを弄る春夜は、スパイ映画には欠かせない黒のサングラスを取り出した。
「これで俺もイーサン・◯ントに……」
心躍らせながらサングラスを掛けた春夜は、流石は遺伝子に恵まれているだけある。
ト◯クルーズのようなワイルドさはまるで皆無だが、生まれ持ってのそのクールさは見る者全てを魅了する。
普段からサングラスを掛けているチビヤクザと、こうも差が開いて見えるとは……
あのアフロが今の春夜の姿を目視したら更なる劣等感で奇声を発してしまうのではないだろうか。
「んじゃ、小春探しに行くかー」
服もちゃんと着たことで、店の連中から変な注目を集めることもなくなるだろうと踏んだ春夜は、トイレから颯爽と出てきた。
それにしても人間と妖怪が同じ空間にいるとは、ここは波山羊町にある隠れ家的な場所なのだろうか……
いやしかし、波山羊町というド田舎にこのようなお洒落な店が存在するとは到底思えない。
そして何よりおかしいのが、波山羊町のシンボルである『お年寄り』が、この店にも居るには居るのだが、格好が明らかに成金。
波山羊町のジジババは直ぐに記憶から失われるであろう、それはもう本当に地味で不毛な格好をしているのに対し、この店のジジババは人間妖怪問わず、高級スーツに高級腕時計、そしてパリピが愛用するであろう柄物のサングラスを恥ずかしげもなく身につけていたのだ。
この時点でここが波山羊町である可能性が排除されると、春夜はテーブル席につく一匹の豚ならぬ、スーツを着た恰幅の良い豚の妖怪に声をかけられる。
顔は豚そのもので、首から下は3m程ある人に近い肉体。
衣服で胴体の殆どが隠されている為、現段階で確認できるのは桃色の肌と左右の手が三本指といったところか。
あとはカイゼル髭と鼻輪が特徴的な、まさしく巨漢ともいえる豚には三人のボディーガードがついていた。
「──お兄さん、ちょっとこっちに来てくれブタ」
因みにこの豚も室内であるにも関わらず、黒のサングラスを掛けていて……というより豚だけでなく、このだだっ広いフロアに居る全ての者がサングラスをしている事に、春夜は自身もサングラスを掛けている立場でありながら、店に対して軽い嫌悪感を示す。
「俺はアンタの兄でもブタでもねえから、他当たれ」
豚に構ってるほど暇でない春夜は冷めた態度で軽くあしらうのだが、豚は『プギィッ』という鳴き声を発すると、カエルのように伸ばした舌を彼の腰に巻きつけ、春夜が移動するのを阻止した。
「なっ!? いきなり何しやがんだこのブタ野郎!」
「豚神に向かって豚とは無礼な奴ブタ」
「いや、失礼でも何でもねえだろ! 豚の顔して語尾にブタって付けたんだから。それに自ら豚を名乗ってんじゃねえか! ガタガタ言ってっと角煮にすんぞ、このブタ」
「プギィイイッ! よもやこの私を食材に例えるとは、この店はいつから客を蔑ろにする様になったブタ!」
「はあっ? コイツ何言っ────ぬゔぁっ!?」
豚をブタと呼称して何が悪いのか、腰を舌でキツく締め付けられる春夜は納得がいかない模様。
それにブタのくせに無駄に渋みのある声色をするのもおかしな話で、犬神の方がまだマシな対応をしてくれるぞと、同じ神でもここまで種族に差があるのかと、豚神が早くも嫌いになる春夜。
「な、何で妖怪は揃いも揃って人を痛めつける脳筋しか居ねえんだ! それにその言い草……まるで俺がこの店の従業員みたいじゃねえか」
「何を寝ぼけた事を言ってるブタ。君の着ているそれは、店の制服じゃないかブタ」
「これが? ……チッ、アイツ。客じゃなくスタッフだったか」
無駄な騒ぎを起こす事なく服を拝借でき、ラッキーと思っていた春夜だが、服を借りた相手はまさかの店の従業員。
春夜は今すぐにでも自分の不幸を主張したいが、現在最も不幸な者は、春夜という通り魔に遭って、身ぐるみを剥がされた哀れな男性店員。
あの感じだと、目覚めるにはまだ多少の時間が掛かりそうだが、出来れば彼が覚醒する前に小春を見つけ出したい春夜。
それなのにまさかスタートラインで躓いてしまうとは……
もしここで春夜が従業員でないことが知られては、彼は再び変な注目を集めてしまう上、窃盗容疑で捕まってしまう可能性が浮上してくる。
幸い素顔が見えないよう春夜はグラサンを掛けている為、部外者と疑われる事はまあないのだろうが、念には念をと、一先ずこの豚の対応だけはしておく事にした不服全開の春夜。
「はあ……俺を呼びつけた用はなんだ?」
「……お兄さん、やる気あるブタ?」
「んなもん、ある訳ねえだろ。こちとら連日、問題抱えて心病みまくりなんだから」
「それでよくこの店で働く事ができたブタね」
接客に対する熱意があまりにない春夜は何故ここまで堂々と威張ることができるのか。
本来なら彼の接客態度に怒りを露わにする場面だが、春夜の様なタイプに説教したところで、彼の態度が改善されるどころか逆ギレされ兼ねないと判断した豚は、出した舌を引っ込めると、意外にも冷静な妖怪である事を証明した。
「……しかし、背に腹は変えられないブタ。いくら君が悪態をつく最悪な従業員だったとしても、君の魅力は一際目を引くものブタ。だからこそお兄さんの意見を聞かせて欲しいブタが、いいブタか?」
「ははーん、俺の溢れ出る男前に頼りたい訳だな。で、意見って何」
「実は私には今年三十路の一人娘がいるブタが、5年前にある事がきっかけで娘と大喧嘩をしてしまい、娘が家出してしまったブタ。初めは2、3時間経てば勝手に戻ってくると思っていたブタが、それから娘は家に帰って来ることはなく、ずっと音信不通ブタ。私は後悔の念に苛まれる日々を送り続けたブタ。娘の居ない家は家畜小屋も同然……こうなる事なら好きなだけ親の脛を齧らせればよかったブタと」
「は? なにこれ? 何で意見を聞く姿勢を見せた途端、アンタの思い出話聞かされなきゃならねえんだ。それにアンタ……もしかして泣いてるのか? サングラスの所為で分かりづらいが、頰を伝って流れるそれ……涙だろ!?」
テーブルにあったメニュー表を手に取り、娘が家出したという地味に重たい話を何故か豚から聞かされる春夜は、頬を伝って顎から落ちる豚の涙ならぬ、ブタ汁に困惑する。
それに、こういう事なら親の脛を齧らせ続ければよかったと言ってることから、恐らく豚の娘は春夜と同種。
仕事に費やす事は無為な時間を過ごす事と同義といった、偏った思考を持つ無職者だ。
「──だが私はこの『妖帝府』で随一の金持ちブタ。金の力で多くの部下を動かし、娘の捜索を家出した翌日から行なっていたのだが、先月頃にようやく娘の居場所を突き止める事が出来たブタ」
「うわー、成金かよ気持ち悪っ。しかも家出娘探し出すのに5年もの年月費やすとか、アンタの部下人探しするのド下手過ぎだろ」
「いや私の部下は一人一人が特殊な能力を持ったエリート部下ブタ。ただ、娘には何故かこちらの情報が筒抜けで、彼女自身が持つ能力も、姿をくらませるのに適した厄介な能力ときたブタ……それで時間を浪費してしまったブタ」
「情報が筒抜けって事はアンタの部下にはきっと娘に味方する者も居たんだろうな。部下にもロクに慕われてないとは……ドンマイだな豚さん」
「豚さんって……もしかして父さんとかけてるブタ?」
相手が豚だからっていくらなんでも下に見過ぎじゃないかと、春夜に対して思わず暴力を振るいたくなる豚。
「大体、娘が誰も寄り付かないであろう秘境で暮らしてるとは普通思わないブタ! 10歳の頃には引きこもりを極めた娘ブタよ!?」
「ニートが秘境に身を潜めるとは、余程アンタに会いたくなかったんだな。それとも引きこもりだからこそ、人目につかない場所を選んだとか……まあ、そんな事はどうでもいい。それよりもさっき、聞き捨てならない言葉が出てきたんだが、妖帝府が何だって?」
「プギィ? 私が妖帝府随一の金持ちという事ブタか?」
「金持ちアピールはもういいよ。アンタさ、今『この妖帝府』って言っただろ。つまりは俺が現在立ってるこの場所って妖帝府?」
「……何、当たり前な事を言ってるブタ」
──妖帝府。
春夜も華火を通して耳にした為、そこまで詳しくは知らないが、妖帝府は簡単に言えば『第二の妖仙』。
かつて波山羊町にあったとされる、妖怪の都『妖仙』は伝承にもある通り、非常に栄えた都として知られていた。
が、その都はとうの昔に滅んでおり、その地を離れた二体の鬼が旅の道中で仲間を増やしていくと今からおよそ700年前に、荒れ果てた大地で一つの集落を作った。
初めは当然小さな集落だったのだが、鬼を始めとした力ある妖怪達が手を取り合っていく事で、何もない大地に緑を芽吹かせる事ができた。
それから暮らしも徐々に豊かになっていくと、次第に妖怪の数も増え、集落からやがては一つの大国へと成長を遂げたその国は『妖帝府』として知れ渡った。
そして波山羊町からかなり遠い位置に存在する。
「ア、アア────アルゼンチンッ!!」
そう、妖帝府は日本から遠く離れた場所にあるアルゼンチンに存在するのだ。
まさか夏出家のリビングの扉が海外に繋がっていたとは……
不法入国した事もそうだが、てっきりここを日本だと思い込んでいた春夜は驚きを隠しきれない様子。
パスポートも無いのにどうやって帰ればいいのか。また小春は怪しい大人について行ったりしていないだろうか……
春夜は色んな不安を抱えながら、窓際の方まで足を運ぶと、ネオンに包まれた煌びやかな夜景に目を奪われてしまう。
「た、高え……こ、これが大都会……」
山頂からシケた町を見下ろす機会は何度かあっても、高層ビルから街の景色を眺める事は初体験の田舎っぺは生まれて初めて、建物に対して美しいといった感情を芽生えさせる。
「……社会の縮図がここにはある」
金運が異常に強い春夜でもここに居る連中に比べれば、せいぜい小金持ち程度。
大富豪はこの景色を毎度毎度独占しているかと思うと、何故だか無性に腹が立ってくる春夜は、今見た夜景を心のアルバムに保存し、豚の居るテーブルへ戻った。
「お兄さん、本当に店の人間ブタか? 妖帝府と聞いてやけに慌てているみたいブタが」
「うっせえ! この成金ブタ野郎が!!」
まさに理不尽の極み。
この喋る豚がまさか妖怪の棲まう大都市で成功者をやっているとは、自身の現状と大きく異なる事に春夜は嫉妬の叫びを豚にぶつける。
「君の無礼は清々しいブタね。私の様な寛大な者でなければ粛清の対象にあってたブタよ」
「上等だ、成金クズなんて俺がすぐに金運奪って破産まで追い込んでやる。そして家族共々、路頭に迷ったら、俺はそいつらの目の前でひつまぶし食って笑ってやる」
「君は普段からそんな感じブタか」
接客はまるでやる気がないのに、成金を貶める話になったら自信に満ち溢れた態度をする春夜に、危機察知能力が働く金持ちの豚。
他者の金運を奪うなど普通は冗談にしか聞こえないが、どうも春夜の体から成金を不幸にするオーラが漂ってくると、下手なことを言うのをやめるしかない大富豪。
既に娘の居ない虚しい日々を送っているのだ。
唯一、胸を張って言える金持ちの称号が剥奪されてしまっては、豚は屠畜場に行って焼肉用の肉になるしかない。
そんな悍ましい未来の可能性が少しでもあると知る豚は咄嗟に家出娘の話題に切り替えた。
「はあ、俺はこんな所で油売ってる場合じゃねえんだけどな。で、娘を見つけたアンタはどうすんだ? まさか会いに行くとか言わねえだろうな。いや、もう既に会って拒絶でもされたか?」
「心の準備ができていないから、まだ会えてないブタ。それに拒絶は今に始まった事じゃないブタよ。家出する直前、イケメンになって出直して来いって言われたの凄く悲しかったブタ…………嗚呼、豚のくせに人様より金稼いでんじゃねえってよく怒鳴られてた記憶も懐かしいブタねぇ」
「最低じゃねえかアンタの娘」
「そんな事ないブタよ。私の誕生日にはスーパーに売られある安い焼肉のタレをプレゼントしてくれて、クリスマスにはネットで買ったちょっと高級な焼肉のタレをプレゼントしてくれたブタ」
「気付け。アンタは焼肉になるべきだという娘からの残酷なメッセージに気付け。それに父親の誕生日、さほど祝われてねえじゃねえか。スーパーの焼肉タレって本当にアンタの為に買ったやつか? 後で使うから冷蔵庫に入れとけって渡されたやつなんじゃねえのか?」
これは数年ぶりに娘と再会できてもロクな結果にならないと、赤の他人でも容易に想像できるイベントに、何だか生でその現場に立ち会ってみたい思いが生まれる春夜は相変わらずの下衆野郎。
『焼肉のタレをプレゼント=焼肉になってください』の意味を娘は伝えたかったのだろうが、まさか豚のお父さんがここまで嫌われていたとは……
泣けてくるどころか憐れすぎて逆に笑えてくる。
すると豚は持っていたメニューを唐突に春夜の胸元に押しつけてきた。
「今世でイケメンは難しいブタが、男前になるのはまだ可能性があるブタ。そこでお兄さん……このメニュー表の中から、私に相応しいものを選んでくれないかブタ?」
「は? カッコ良くなりたいからメニュー選べって、何言ってんだコイツ」
妖帝府のバーともなれば、酒や料理を飲み食いするだけで簡単に男前を獲得できるのだろうか。
しかしそれだったら毎日いいものを食っているであろう豚は既にカッコ良くなっている筈。
だが、豚はお世辞にも男前とは言えず、ただの肥えた豚。
春夜は豚の言ってる意味が分からなければ、メニュー表に記載された気取った名前の料理(?)を見て下唇を噛むと、適当に捲ったページの最後、それも一番下端の方で、偶然にも豚に似つかわしいメニューを見つけてしまう。
「因みにここで男前になれたら、私は娘に会いに行こうと思ってるブタ。だからお兄さんに掛かってる事、忘れないで欲しいブタ」
「いや、無駄に圧かけてるみたいだが、こんなの俺が勧めるまでもねえじゃねえか。ほら、アンタに相応しいメニューはこの一択……『豚殺し』ってやつだ。それ以外は選ぶ価値もねえ」
どこのコンビニにも置いてありそうな、安酒みたいな名前をするメニューを提示した春夜は完全に客を舐めきっている。
他の客にこれを提案するならまだしも、豚客に対して『豚殺し』とは……人の心がないにも程がある。
しかし豚の反応は思いの外いいもので、店内で最も男前の春夜が決めるなら間違いないと錯覚してしまっている。
「ほお、中々ファンシーなとこを突いてくるブタね」
「こんな物騒な名前でファンシーなのか……てことはメルヘンチックな料理が出てくるのか。少し気になるな」
豚にとって春夜は店員だが、春夜からしたら豚はただの豚。
その所為か、彼の勧めるメニューは本当に適当で、メニューの一つ一つがどんなモノなのかをまるで把握していない。
豚は完全に意見を聞く相手を間違えている。
「ところでメニュー全てに値段が書かれてないんだが、これはあれか? 時価的なやつか?」
「時価? この店にはそんなものがあるブタか?」
「そう言うって事は時価の可能性はゼロか。だったら金持ちは値段なんか見ずに気前よく払えっていう店のスタンスだな。俺の嫌いなタイプだ」
「前回この店を利用した時は2000万くらいで済んだブタから、きっと今回もそれくらいブタ。まあ気にするほどの額ではないブタね」
「2000万で済んだって!? アンタ金銭感覚狂いすぎだろ。因みに妖帝府って通貨何だ? 円か? それともアルゼンチンにあるからペソか?」
「ドルブタ」
「2000万ドルって事は……20億円以上か。よし、アンタは今すぐその金を慈善団体に寄付してこい。そしたら娘にも誇れるブタになれるし、何より俺の好感度が上がるぞ」
「君の好感度は要らないが、一応ここに来る前、200万ほど寄付してきたブタよ」
「おっ、ブタさんえらいでちゅねー! よーちよちよちー!」
流石は懐に余裕がある豚。
当たり前のように行う善行に、少しは春夜も見直したのか、ブタの大きく膨らんだ腹をよしよしと優しく撫でる。
しかし客に対してこの様な仕打ち、豚は黙っても、後ろのボディーガード達が黙ってないぞと言いたいところだが、ボディーガードは主人を放ったらかしにして、三人仲良く携帯ゲーム機でピコピコ遊んでいる。まさしく給料泥棒。
「で、買うの? 買わないの?」
たった今、赤ん坊をあやす父親みたいな接し方をしていた春夜は一瞬で冷めた感情を見せると『豚殺し』を頼んでいいのか豚に問いかける。
「うーむ。一先ず、豚殺しを試してみてもいいブタか?」
「あ? 駄目に決まってんだろ。何だ試すって」
過去に妖怪専用レストランで働いていた経験のある春夜は、豚の試すという言葉に眉を顰める。
いくら富裕層の食事でも、一旦料理を試し食いしてみるとはマナーがなってないにも程がある。
春夜は客の要望をばっさり切り捨てると、ここまでド直球に断られたことのない豚は狐につままれたような顔をする。
「プギィッ……優柔不断は心の弱さの表れ。こんな調子で娘に顔を合わせるなど、笑止千万。お兄さんは私に相応の品を勧めるだけでなく、私の心まで正してくれたブタか」
「はいはい、そうそう。だから、とっとと決めろ」
「分かったブタッ!! 私は豚殺しで男前を磨き、娘に会いに行くブタ!」
噛み合っていない話を何故か噛み合っていると思い込む豚はまんまと春夜のペースに流されると、皿やグラスが置かれているテーブルを両手で叩きつけ、『豚殺し』を頼む意思を見せつけた。
「あい、毎度ありー」
これでようやく一人の客を対処する事ができた春夜は、タダ働きにも関わらず、恐らく数億円もの売り上げを叩き出す事に成功した。
顔が得するというのはまさにこういった事を指すのだろう。
春夜は近くにいた同じ格好をした猫の妖怪、猫又に声を掛けると、豚が『豚殺し』を欲していることを告げて、後の仕事を全て擦り付け、足早に店を立ち去ろうとしていた。
が、同じ背丈で紺色の毛並みをした猫又は春夜の腕を咄嗟に掴むと、突然顔を覗き込んできた。
「ちょっと待つミャウ」
「あ?」
「君、この店の従業員じゃないミャウね」
「……はぁ、またこのパターンかよ」
豚の次は猫に目をつけられてしまうとは、つくづくツイていない一日だと実感する春夜は、またもや語尾が特徴的な動物系妖怪に苛立ちが隠せない。
どうやら振り出しに戻ってしまったみたいだ。