11話 犬神のおまわりさん
「して、今回は新顔が見えるが……」
春夜とチビヤクザの顔は既に見慣れている為、今更紹介される必要も無いのだが、水月と会うのが今回が初の犬神は目を細めると、彼の白銀の髪の毛やら翡翠色の瞳やらをジロジロ観察していた。
「……ねえ、春夜くん。僕、まじまじ見られてるけど大丈夫? 食べられたりしないよね?」
犬に観察される機会なんて滅多にないどころか今回が初めての経験になる為、変に緊張する水月は体を硬直させると、自身が犬神の餌にされるのではと不安に思うが、即座にそれを否定した春夜は犬神の食事事情について簡潔に述べた。
「犬神が人を食うっていつの時代の話だよ。今時の犬神はなぁ、人間食わねえどころか主食がドッグフードでおやつが瓶詰めピクルスだぞ? イカれてるだろ、妖怪のくせして」
「ドッグフードとピクルスって……犬らしいといえば、らしいのかな。というか犬ってまずピクルス食べれるの? 飼ったことないから全然分かんないけど、犬神だったら大丈夫って事なのかな」
「一応、犬でもピクルスは食べれるぞ。って、そんな真剣に考える内容でもなくねえかこれ」
基本、妖怪の食べる物は種族によって異なり、犬神の場合はドッグフードとピクルスがそれに該当する。
しかし人間を餌として喰らっていた時代も過去にはあった為、ドッグフードとピクルスを切らした際には人肉を……などという物騒な食事は一切せず、その時はハンバーガーを食べている。
因みにこれらの食事をどうやって用意しているかというと、体のサイズを縮小させた犬神達が野良犬のフリをして、慈悲深い町の住人、又は飲食店の従業員から食べ物を貰っている。
人間には冷たいが動物には非常に優しい所は波山羊町が誇れる数少ない点だ。
「というわけだ。水月を注視するのはやめて、体を小さくしてくれ。さっきから首が痛くてしょうがねえ」
犬神と対話する時は基本的に人間側が見上げる形になるので、せめて目線が合うよう体のサイズを調整してくれと上から物を言う春夜。
勿論、犬神のジジイは春夜の言葉に対して不満を抱くわけだが、それはあくまでも彼の態度が不満なだけであって、言ってる事は間違っていないと、忽ち体を小さくさせる犬神のジジイ。
電柱ほどの高さにあった顔面はあっという間に春夜の目線に合わさると思ったが、犬神のジジイは相当な年寄りの為、恐らくボケてしまったのだろう。
アマガエル程のサイズまで体を小さくさせると首を上げていた春夜達は今度はしゃがみ込んでは首を下ろす羽目になっていた。
「主は水月というのか」
「うん、そうそうコイツは水月っていってな──じゃねえよ! 何もそこまで体を小さくしろとは言ってねえだろ! アンタ極端過ぎんだよ! 別に俺の目線に合わせなくてもいい、けどせめてチビヤクザの背丈くらいに調整できねえのか!?」
「夏出の小僧は相変わらず騒がしいのお。年寄りを労る事も出来んのか」
「労って欲しいなら、まず初めにアンタが周りから誇れるような大人になるこったな! さて、今も昔もボケて獣臭くて、頭ガチガチのジジイは、まずは妖怪専用の老人ホームにでも通って──ふゔッ!?」
たとえ人であろうと妖であろうと春夜が老人に優しくないのが今の態度ではっきりすると、蛙サイズから子犬サイズへと体を変化させた犬神のジジイは春夜の股間に向かって齧り付くと彼の言葉を強引に中断させた。
可愛いサイズの犬だからって決して侮ってはいけない。
このジジイはただの犬ではなく強大な力を持った妖怪なのだから。
先の尖った鉄杭を思わせる犬神の牙は春夜のズボンを容易く破くと、それは同時に男が最も大切とする『宝玉』をも貫いた。
自慢の美顔も一気に醜悪な顔面へと変わる春夜は、股間から大量の血を噴出させると悶絶するような痛みに耐えきれず、野草の上でのたうち回った。
「はっ、春夜くんッ!?」
実際に噛まれていなくても伝わってくるこの痛みは男だけにしか分からないもの。
現に水月を始めとした彼の友人のチビヤクザ、そして野郎を囲むオスの犬神は青褪めた表情で悶える春夜に視線が釘付けになっていた。
「アメーン。ナツデハルーヤ、ハレルーヤ」
金◯を握りしめ合った仲としてせめてもの同情をと、完全に子供が作れない体になってしまった春夜に合掌をするチビヤクザ。
そして白い牙を血で汚した犬神のジジイは水月の足元までテクテクと歩み寄ると、鼻先を当てて匂いを嗅ぎ始めた。
「ニオイがするのお」
「えっ!? ちょっ、においって……僕、やっぱり食べられちゃう感じ?」
ついさっき犬神の好物はドッグフードとピクルスと教えてもらったが、血塗れで倒れる春夜を見て今更それを信じる事が出来なくなってしまった水月は一歩、そしてまた一歩、後退りをする。
このままでは春夜と同じ目に遭うのが目に見えている為、助けを求めようとチビヤクザに視線を向けた水月。しかし薄情アフロは対象から目を背けると関わらない方向で物事を進める事にした。
「え、ここで見捨てるとか正気ですかアフロ先輩!?」
「すまんのお、水月。ワッシはイケメンが嫌いなんや」
「ちょっ、この状況非常に不味いんですけ──んゔッ!?」
その瞬間、水月の右乳首に違和感が生じた。
二週間以上も前から続いていた右乳首の痒み。
今日も朝からこの時間までずっと続いていた右乳首の痒み。
そんな右乳首に悩まされ続けた水月の日常は、今この瞬間を以て解放されると、その代償として激しい痛みが右乳首に走った。
水月は咄嗟に右乳首の方を見ると、そこにあった筈の布、そして乳首そのものが失われている事に気づき、春夜と同様に血をシャワーのように噴出させた。
「──乳首食われたああああああッ!!」
犬神の動きに反応出来るよう身構えていたのだが、水月の反射を遥かに上回るスピードで犬神は右乳首を噛みちぎったのだろう。
痛みもそうだが、何より乳首を失ったショックの方が大きい水月は膝から崩れ落ちると、彼の背後に立った犬神のジジイは口からある物を吐き捨てた。そう、乳首。
これを視認した事で水月の『絶望』が確実なものとなると、彼は泡を吹いて気絶した。
「アメーン、イトナミズーキ」
ここに来て早くも二人ダウンしてしまった。
夏出春夜は金◯を失くし、糸南水月は乳首を失くした。
イケメン二人揃って悲惨な目に遭うとは気の毒過ぎて、もはや目も当てられないと、チビヤクザは贔屓がないよう水月にも合掌を送ってやった。
「して、主らは何故に犬神の住処を訪れた」
3歳児の子供が食事で口周りを汚すように、犬神のジジイも口元を血で汚すと、平然とした顔でチビヤクザに聞いた。
「あー、これワッシが説明するんか」
本来なら問題を抱えてこの場にやって来た春夜が説明をすべきところなのだろうが、呻き声を発する事は出来ても言葉を発する事は現在不能な為、三人の中で唯一無傷のチビヤクザが説明役に回った。
「単刀直入に言うとやな、ワッシら、というより春夜がとある犬神を探しとるんやが……あ、ちと待っとくれ」
口で説明するよりも同族の姿を実際に確認してもらった方が早いと判断したチビヤクザは未だ尚、地面で転がり回る春夜のズボンを弄って二枚の写真を取り出すと犬神のジジイの前に落とした。
「この犬神に見覚えはないか?」
「……ふむ。此奴はヰヰじゃのう」
「うぃう……え何て?」
「ヰヰじゃ。ワシら同胞の中で最も幼き犬神で、半年程前に独り立ちすると言ってこの森を出て行ったきり帰っておらん」
「独り立ちって、ペットになる事がか?」
そのヰヰと呼ばれる犬神は独り立ちの意味を理解しているのだろうか。
ただ犬神の森を出たからといってそれが独り立ちになるとは限らず、ましてや人間にペットとして面倒を見てもらっているご身分とは……さしずめ最年少の犬神といったところか。
食事も朝昼晩時間になったら勝手に用意され、散歩も毎日家主にしてもらい、それでよく独り立ちすると豪語できたなと犬神の世界の甘さにチビヤクザは開いた口が塞がらない。
「というか人に飼われる事に嫌悪感抱かんのかアンタらは」
「森を穢す者を除けば、人を忌み嫌う者など我が同胞にはおらんよ。ワシらは自然を愛し、生き物を愛し、人が寄越す食べ物をこよなく愛しておるからのぉ」
「それ結局、食べ物くれる都合の良い奴としか思ってないやろ人間の事。お堅い妖怪も遂にはプライドなくしたか?」
「プライドだけでは飯は食っていけんからのお……時代の流れに人も妖も乗っておるだけじゃよ」
「いやそれ、ただのペットに成り下がっとるだけやからな」
何が時の流れに乗っているだ。時が経つにつれ、妖怪としての威厳も尊厳も徐々に失っているだけではないかと、チビヤクザは恥も外聞も無く、人の脛をかじり続ける犬神に失望する。
「じゃあそのヰヰとやらの居場所は掴めんっちゅう事やな?」
「うむ、そうじゃ」
「はあ……聞いたか春夜?」
片道およそ3時間かけてここまで来たが、得られた情報は迷い犬の名前と、犬神は飯の為なら人間に飼われても構わないという事。
つまりはこれまでの時間も、帰り道に費やす時間も何の意味も成さない事を悟ったチビヤクザは、彼らについて行った事を悔いていた。
「そ、それは……ダメだ。今犬、探さねえと……おお、俺が終わる」
股間を両手で押さえながら内股で立ち上がる春夜は男として既に終わっている筈だが、まだ何かを恐れているのか……
「今日中に、犬神探し出さねえと……不名誉な称号が、町中に広がっちまう」
「おい、期限って今日やったんか!?」
「そ、そうだ……だからそのヰヰって奴じゃなくてもいい。写真の奴に似た犬神、誰でもいいから用意してくれ。頼む」
チビヤクザも今初めて聞かされた春夜の依頼のタイムリミット。
下山する時間も合わせると、残された時間は多くはない。
それに期限は今日中と言ってはいるが、波山羊町のジジババは就寝時間が恐ろしく早い。
それまでに何としてでも間に合わせなければ、春夜は熟女の下着を盗む『英雄』として後世まで語り継がれる事となる。
正直、この件に関しては結果がどうなろうとチビヤクザには関係ないのだが……
春夜はこの依頼の為に100万円もの大金を使っている。
それも他の店ではなくチビヤクザが経営する店で100万円アイテムを購入したのだ。
依頼をこなそうと躍起になっている春夜が、もし依頼失敗なんかしてみろ。
後日、八つ当たりとして『アフロワールド』を荒らしに来るどころか、破壊活動しにやって来るのが目に見えてるため、それは何としてでも避けたいチビヤクザは春夜に協力する姿勢をようやく見せた。
「ワシが同胞を差し出すと思うか? 夏出の小僧よ」
「思うかどうかじゃなくて差し出すんだよ!! じゃねえと、俺が足腰痛めながら登山した意味も、金◯潰された意味もなくなっちまうだろうが! というか何でオレ金◯潰された!?」
「夏出の小僧が不遜な態度を改めんからじゃ。しかし良い弾力じゃったぞ。御主の金◯」
「そ、そうか。俺の金◯は良質な金◯だったんだな。なら噛まれた甲斐もある──」
「アホか貴様はァッ!!」
「ぶばァゔッ!!」
犬を犬神から借りる交渉をしていた筈が、すぐさま金◯の話題に路線変更させる春夜は本当にこの依頼を達成させようと考えているのだろうか。
金◯の弾力を褒められて素直に喜んでいる事に腹が立ったチビヤクザは、彼の顔面にドロップキックをお見舞いする。
「あ、危ねえ……ジジイの話術に惑わされる所だった」
「危ないのはお前のアホ思考や」
「さ、さーて犬神のジジイ。さっさと俺の言うこと聞かねえと、この森でキャンプファイヤーするからな。知らねえぞー、山火事が発生しても。住処失うどころか、命すら失うかもなぁ」
「相も変わらず、度し難い奴じゃのう……ならば今ここで主の頭を喰い千切ってやろうか、夏出の小僧よ」
たとえ冗談でも言っていい事と悪い事があるように、今の発言は犬神のジジイ、そして春夜達を囲う犬神達を憤慨させると、両者激しく睨み合う。
己の体裁を守る為とはいえ、山に被害を与える事を厭わない心持ちの春夜は、味方であるチビヤクザからも氷のような冷たい視線を向けられていた。
「はっ、やれるもんならやってみろ。但しその場合、俺の母さんが黙っちゃいねえがな! 森どころか犬神の血を絶やしに来るぞ?」
「主の母親……確かにあの者ならやりかねぬな」
「ほらほら、さっさとしねえと母さんに言いつけるぞー」
「糞餓鬼が……仕方ない。四句螺、ヰヰに似た者をこちらに連れて来い。確かペット志願の者がいたじゃろ」
「良いのですか長老」
「夏出の者……というより夏出の母を敵に回すくらいなら、従うのが最善じゃ」
長老こと犬神のジジイは渋々春夜の頼みを聞き入れると、身内にヰヰと似た者をこちらに連れて来るよう指示した。
マザコン全開の見苦しい春夜を始めとし、夏出家が波山羊町の災厄のように扱われていようとは……
すると四句螺と呼ばれた犬神は早くもジジイの要望通りに、木々の奥から灰色の毛並みをした一匹を咥えてやって来ると、春夜の前にそっと置いた。
小さな体躯に青色のつぶらな瞳で春夜をじっと見つめるその者は、ミャーミャーと可愛らしい鳴き声を発している。
犬神なら鳴き声を発さずとも普通に言葉を使える筈だが、そうしない理由……いや、出来ないと言った方が賢明か。
春夜は死んだ魚のような目つきでそれを目視していた。
「──猫じゃねえか」
「どうじゃ? ペット志願者のウィーウィーじゃ。ヰヰと名前がそっくりじゃろ?」
「誰が名前似てる奴を用意しろと言った!?」
「名前だけじゃないぞ。目の色と毛の色が一緒じゃ」
「馬鹿だろ、アンタ冗談抜きで大馬鹿だろ! まず種族が違うって事に気付けよ! てか、この猫そもそも妖怪ですらないだろうが!」
犬神のジジイは予想以上にボケが進行してしまったのだろう。
犬でも妖怪でもないただの一般子猫を用意し何故か得意げな顔をしている。
これだったら灰色の毛並みでなくとも犬神を借りる方がまだマシと感じると、春夜の耳に突如ピアノの優しい音色が流れてきた。
春夜は直様、音の鳴る方へ視線を向けると、そこには前足を器用に使ってグランドピアノを弾く一匹の犬神の姿が……
そしてその演奏は幼少の頃に何度も耳にしたあの名曲ではないかと春夜はハッとすると、ジジイ含めた周囲の犬神達がピアノの音色に合わせて突然、大合唱を開始させた。
「「「まいごのまいごの こねこちゃん あなたのおうちは どこですか?」」」
「ミャー」
「「「おうちをきいても わからない なまえをきいても わからない」」」
「ミャーミャーミャミャー ミャーミャーミャミャー」
「「「ないてばかりいる こねこちゃん いぬがみのおまわりさん こまってしまって」」」
「「「ワンワンワワーン ワンワンワワーン」」」
犬神だけではなく猫も器用に鳴き声を発して交互に歌うその歌は、言わずと知れた名曲……
それはずばり『犬のおまわりさん』を多少もじった『犬神のおまわりさん』である事が今はっきりすると春夜とチビヤクザは呆気に取られていた。
「これで分かったじゃろ? その者は迷い猫であり、安らぎの場を求める者。夏出の小僧よ、ウィーウィーを助けてやってはくれんか」
「はっ倒してやろうか、てめえら。俺に野良猫押し付けようとしてんのが見え見えなんだよ。何が『なまえをきいてもわからない』だ、嘘ばっか吐きやがって」
「主のような虚言癖に言われたくはないが……ウィーウィーは既に爆発頭に懐いておるようじゃぞ」
「何だと!?」
子猫のウィーウィーは人懐っこい性格なのだろうか、チビヤクザのアフロ頭に乗っかると、渦巻き状に丸くなり眠りについていた。
「ワッシのアフロが気に入るとは、中々見所のある猫やな」
「頬が緩みきってんぞキモアフロ」
「キモいのはお前の性根や。それにせっかく犬似の猫を用意してもらったんや、これで妥協しろ春夜」
これ以上、駄々をこねた所で犬神は身内を絶対に売らなければ、ただ時間を浪費するだけだと何故か犬神側について春夜を諭そうとするチビヤクザ。
しかし犬似の猫とはよく言ったものだ。骨格も動作も犬とまるで違うというのに、チビヤクザの眼球ではそれすらも見極める事ができないのか……
「これの何処が犬似の猫なんだよ!? 顔の大きさから何まで、まるっきし違うじゃねえか! お前サングラス濃すぎて何も見えてねえんじゃ──」
「それや春夜」
「は?」
「この町に住むジジババが恐ろしく視力が悪いのは周知の事実や。それも人間と妖怪の判別もまともできん程になあ」
「確かにそうだが……おい待て。まさかババアの老眼を利用するって事か?」
「春夜の依頼主は幸運な事に五十路過ぎと来た。猫を犬と言った所で違和感なんて持たん年齢やから……多分、いけるで」
「チビヤクザお前……天才か?」
腹黒イケメンと捻くれアフロはどこまで年配者を愚弄すれば気が済むのか。
確かに波山羊町の住人は妖怪と遭遇しても、その存在を頑なに認めようとはしない者が数多く居るのだが、犬と猫の見分け方くらい流石につけるだろと、何故か自信に満ち溢れた顔をする彼らに憤りを感じる高齢の犬神ジジイ。
「んじゃ、そういうわけだ。この猫はこっちで預かるから、アンタらはせいぜい森で演奏会でもやってろ」
「最後まで口の減らぬ餓鬼じゃ。二度と来るな」