姫島響歌の歌声
姫島響歌は夢乃森学園音楽科の二年生である。素晴らしい歌声と表現力を持っており、小さいときから歌うことが大好きだった。八歳のときに母親の勧めで、地域で開催されたのど自慢大会に参加したことがある。この大会で、響歌は大人を差し置いて優勝したのだった。当時からそれほどの実力の持ち主だったのである。母親もまさか優勝するとは思っていなかったようで、驚いたと同時にとても喜んでいた。響歌はそれが嬉しくて歌うことがさらに好きになった。
自分の歌で誰かを笑顔にすることができるかもしれない。
そう考えた響歌は、優勝をきっかけに歌を歌うことに本気で取り組むようになった。将来は自分の歌声で多くの人を幸せにする歌手になりたいと思うようになったのもこの時期だった。両親も応援してくれたので、響歌もそれが嬉しかった。
しかし、のど自慢大会から約一年が経ったある日、響歌の耳にある知らせが届いた。いつも通り学校で勉強していた響歌の元に一本の連絡が入った。それは、母が倒れて救急車で運ばれたという連絡だった。響歌は急いで母が運ばれた病院へ向かった。母は前から体が弱く、体調を崩すことが度々あり、すでに何度か入院したこともある。
響歌は病院に着き、母の病室を確認してから、早歩きで向かった。病室のドアを開けると、母がベッドの上で寝ており、腕には点滴が打っていた。響歌が来たことに気づいた母は上体をゆっくり起こして、笑顔を向けた。このとき、母は「少し気分が悪くなっちゃった」と笑顔で言った。響歌は心配して泣きながら母に抱きついた。響歌が「お母さん大丈夫? すぐに良くなるよね?」と聞くと、母はやさしい口調で「大丈夫よ。またすぐに良くなるから」と言った。幼い響歌は母のこの言葉を信じて、またすぐに退院できるだろうと思っていた。
だが、母はなかなか退院できなかった。むしろ少しずつ痩せ細っていき、悪化しているようだった。腕は骨が浮き出ており、顔もゲッソリとし、肌の色も青白くなっていた。それでも響歌は母が元気になるのを待っていた。ほとんど毎日母の病院にお見舞いに行き、母の大好きな歌を歌っていた。響歌が歌うと母も笑顔になり「響歌の歌を聴くと元気になれる」と言っていたから歌い続けた。母が笑顔になると響歌も嬉しかった。
母が入院して一年が過ぎた頃、響歌は母と病室でこんな会話をした。
「響歌。あなたの歌声は、聴く人みんなを幸せにできる奇跡の歌声ね」
「ホント!? お母さんは私の歌で幸せになれるの?」
「ええ。お母さんは響歌の歌が一番好きよ。いつまでも聴いていられるわ」
「お父さんも?」
「ええ。お父さんも響歌の歌が一番って言ってたわ」
「そうなんだ。じゃあ私、もっともっと歌うね!」
「ええ」
「そしたら、他の人たちも幸せにできるかな?」
「そうね。響歌ならきっと多くの人を幸せにできるわ」
「じゃあ、私頑張る! たくさん歌を歌って、お母さん、お父さん、そして多くの人を幸せにするね!」
「フフ。楽しみにしているわ」
この会話が響歌と母の最期の会話になったのだった。母は体調が悪いにもかかわらず、最後は笑顔を見せてくれた。それでも、響歌の心のダメージは大きかった。響歌はしばらく家に閉じ籠り、ひたすら泣いた。その間、ご飯も食べず、大好きな歌も一切歌わなかった。父も心配して様子を見に来たが、響歌は何も答えなかった。
このままではいけない。
頭ではわかっていたが、動こうとしても動けないでいた。大好きな母がもういないという現実を受け入れきれなかった。もっとやさしくすればよかった、もっと家の手伝いをすればよかった、もっと一緒に過ごせばよかった、などの後悔がずっと頭から離れずに、自己嫌悪に陥っていた。
そんな状態が一週間続き、響歌はようやく動く気力を少し取り戻したので、自分の机の整理を始めた。机には母との写真を飾っているので、それを見ると思い出が蘇り、また涙が込み上げてきた。響歌は袖で涙を拭って、机の整理を続けた。
ふと引き出しの整理をしようと思い立ち、一番上の引き出しを開けると、一冊の日記帳が目に入った。響歌はたまに日記をつけており、この日記帳は一ヶ月ほど前に使い終わったものだった。
響歌はその日記帳を手に取り、中身を見た。その日記帳には、母と一緒に遠足に行ったこと、水族館や動物園に行ったこと、一緒にお菓子を作ったことなどが書かれていた。どのページにも最後は「たのしかった」という感想があり、ニコニコ顔の響歌と母の絵が描かれていた。
母との思い出を一つひとつ振り返りながら溢れ出しそうな涙を我慢してページをめくっていると、半分に折られた一枚の紙がヒラリと床に落ちた。響歌はそれを拾い、中身を見た。
それは母直筆の手紙だった。
その手紙にはこう書かれていた。
「響歌へ
あなたがこの手紙を読んでいる頃には、お母さんはもうこの世にいないと思います。響歌を残して先にいってしまうのを許してね。お母さんも響歌とずっと一緒にいたかったけど、それはむずかしいみたいなの。寂しい思いをさせてごめんなさい。
響歌はどんな大人になるのかな? お母さんの予想だと、やさしくて綺麗な大人になると思うなぁ。響歌は可愛いから、きっといろんな人からアプローチされると思う。だけど、変な男には引っかからないように注意してね。お父さんみたいにカッコイイ男性ならいいけど(笑)
響歌はどんなことをしているのかなぁ? やっぱり歌を歌っているのかなぁ。響歌の歌は聴く人みんなを幸せにするから、お母さん大好きなの。響歌の歌声なら、もしかしたら、天国にいるお母さんの元まで届くかもしれないね。
たぶん、これから生きていく中で辛いことや悲しいことがまだまだ起こると思います。でも、響歌ならそれを乗り越えられるとお母さんは信じています。
最後に、響歌に言っておきたいことがあります。お母さんは響歌やお父さんと一緒に過ごせて、とても幸せでした。お母さんは先にいってしまうけど、いつも空から響歌を見守っています。響歌、生まれてきてくれてありがとう」
響歌はその手紙を読みながら涙を堪えることができなかった。もうとっくに枯れたと思っていた涙がまた溢れ出した。響歌は、その手紙を宝物入れのケースに入れてから大切に保管することにした。
そのとき、響歌はある覚悟を決めたのだった。自分の歌で多くの人を幸せにすること、天国にいる母まで歌声を届けること、姫島響歌の名前が天国まで広まるくらい有名になることを決めたのだった。
それから響歌の生活は歌が大半を占めるようになった。勉強のときも、ご飯を食べるときも、お風呂に入っているときも、歌を口ずさんでいた。だが、小さいときは周りの人からたくさん褒められたのに、成長していくにつれ、響歌の歌声を褒める人はだんだん少なくなっていった。ある同級生からは「まだ歌っているんだ。勉強もしないで大丈夫?」と言われることもあった。それでも響歌は歌うことをやめなかった。なぜなら、またあの日みたいに、自分の歌声で多くの人を笑顔にしたいという想いと、母へ届けたいという願いが響歌の原動力になっていたからだ。そのため、仲の良かった友達も少しずつ離れていったが、それでも響歌は諦めなかった。
ある日、響歌はアコースティックギターを持って路上ライブを始めた。少しでも多くの人に自分の歌声を届けたいと思ったからだ。しかし、道行く人たちは響歌に見向きもせず淡々と通り過ぎるだけだった。時折立ち止まる人も何人かいたが、すぐに飽きてどこかへ行ってしまうのだった。最初はそんな状態でも我慢できたが、回数を重ねるごとに徐々に辛くなり、誰にも聴かれていないのではないか、という不安が襲ってきて、結局やめてしまった。
次に響歌が目をつけたのは動画サイトだった。好きな歌を見つけたときは、何度も繰り返し聴いて覚え、何度も歌う練習をしてから録音をし、納得がいく歌い方ができたら動画サイトにアップロードした。これなら全世界の人が聴いてくれるかもしれないと期待を膨らませていたが、現実はそう甘くなかった。再生数はまったく伸びずに最高でも三桁だった。有名な歌手や人気の歌い手は何百万回も再生されているのに、どうして自分の歌は聴いてもらえないのだろうかと分析したが、どうすればいいのかわからなかった。
響歌は自分の実力がまだ足りないのだと判断し、夢乃森学園の音楽科に進学することを決めた。この学園には国内でもトップクラスの講師がいるので、実力をつけるには最適な場所だと思った。今まで響歌の歌声を褒め続けて、信じてくれた父も応援してくれたので、響歌は決心した。そう決心したとき、響歌はすでに中学二年生になっていた。今までほとんど歌のことばかりで、あまり勉強しなかった響歌の学力では厳しいと先生に言われたが、響歌は諦めなかった。決心した日から猛勉強し、もちろん歌の練習も続けた。その結果、見事合格できたのだった。
響歌は新しい生活と新しい仲間にドキドキとワクワクの混じった感情を抱きながら、夢乃森学園の門をくぐった。そこで響歌は、今まで知らなかった現実を知ることになる。同じ音楽科の生徒はみんな歌が上手く、魅力的な歌声を持っていた。小さいときから歌の専門学校に通っている生徒や様々なコンクールに出場しては入賞するような生徒ばかりだった。響歌が今までで獲得した賞といえば、地域で開かれたのど自慢大会だけだった。明らかに場違いな感じがした。
一流の学校だけあって、響歌もいろんなコンクールに参加する機会が増えたが、なかなか本来の実力を発揮できなかった。同級生の中には出場すれば必ず入賞する人や最優秀を取る人もいた。響歌は、そんな自分と周りの人を比べて、少しずつ自信を失くしていくのだった。それに、ここには仲間と呼べる人はおらず、競争相手、ライバルという感じで常にピリピリしている空気が漂っていた。
それでも響歌は諦めずに一人で勉強と歌の練習に励んだのだった。応援する父の期待に答えたかったのと、自分の信念である「歌でみんなを幸せに!」を叶えたかったからだ。なので、動画投稿も続けていた。しかし、結局一年間は成果を上げることができなかった。このとき、響歌はようやく現実を理解したのである。歌で生きていくことがどれほど難しいことなのか、ということを。
一年生のときの春休み、響歌は作戦を考えていた。
このままではまずい。何か新しい手を打たなければ、何の成果も上げられずに学園生活が終わってしまう。
それだけはどうしても避けたかった。応援してくれている父にいつまでも負担をかけたくないし、このまま何もしないで諦めたくもなかった。そしていろいろ考えた結果、前に諦めてやめてしまった路上ライブをしてみようと思ったのである。
響歌は思い立ったら即行動する方なので、すぐに先生に相談し、許可をもらった。場所は中央広場にした。人が一番通る場所で、かつ広かったからだ。日時は新学期始まってすぐにした。この時期は新しい生活に不安を覚えている人が多いので、歌で励まそうと考えたのだった。時間は授業の邪魔にならないで人がまだギリギリ帰っていないだろう午後五時にした。路上ライブに必要な機材も借りることができ、チラシも作った。響歌が思っていたよりもトントン拍子で作業は進んでいった。AIには古臭いやり方だと言われて他のやり方を提案されたが、もう一度自分のやり方でやってみよう、と思っていた。
そして新学期が始まり、響歌は朝早くに校門前に立ち、チラシ配りを始めた。人に声を掛けるのが苦手なので、なかなか手に取ってもらえない中、銀髪の女子生徒が声を掛けてきた。
「それ、一枚もらえる?」
「あ、はい! どうぞ」
響歌がチラシを一枚渡すと、銀髪の彼女はチラシを見て中身を確認していた。
「ふーん。明後日路上ライブするんだ」
「はい。もしよかったら聴きに来てください!」
「…うん」
銀髪の彼女は何かを探るような目をして響歌を見てから、歩いて行った。
それから数分後、今度は安心院がチラシを受け取ってくれた。
安心院はチラシに目を通しながら「歌でみんなを幸せに…か」と呟いた。
「もしよかったら…聴きに来てください」
「そうね。公務が終わって間に合うようだったら行くわ」
安心院は凛とした態度でそう言った。その姿を見た響歌はカッコいいなと思ったのだった。
響歌は次の日の朝もチラシ配りをしていた。響歌がしばらく配っていると正門前に黒いリムジンが止まり、その中から夢乃森学園理事長の孫娘である、夢乃森叶愛が降りて来たのだった。噂には聞いたことあったが、見るのは初めてだった。噂通りのお金持ちで上品な雰囲気を纏っているお嬢様のように見えた。そんな叶愛を見て委縮していた響歌に、叶愛は気づいて声を掛けてきた。
「おはようございます」
「あ、おお、おはようございましゅ」
「何を配っているのですか?」
「えっ、は、はい。明日行う予定の路上ライブのチラシを…」
「路上ライブ?」
「あ、路上ライブというのは、屋外で行う小さなライブのことです」
「……そのチラシ、一枚もらっていいですか?」
「え!? いいんですか?」
「はい。余りがないならいいですけど…」
「いえ、あります! まだこんなにあるので、何枚でも持って行ってください!」
響歌はそう言ってほとんど残っていたチラシを叶愛に見せた。
「そうですか。…では、五枚頂いてもよろしいですか?」
「はっ、はい!」
叶愛は響歌の路上ライブのチラシを五枚受け取ってから、笑顔で手を振り去っていった。叶愛がいなくなったあと、響歌は一気に緊張感が解け、その場に座り込んだ。叶愛の雰囲気というか、オーラというか、高貴な感じに気圧されてしまったのである。
しかし、響歌に休んでいる暇はないので、数秒間休んでから立ち上がり、再びチラシを配り始めた。ただ、その日はそれを最後にチラシが減ることはなかった。
翌日、路上ライブ当日の朝も、響歌は朝早起きして校門前でチラシ配りを始めた。しばらく配っていると、左腕にギブスをしたイケメン男子が興味を持った様子で声を掛けてきた。
「キミ、最近チラシを配っているみたいだね。俺ももらっていいかな?」
「えっ、あ、はい。どうぞ」
響歌が一枚渡すと、イケメン男子はそれを見て「路上ライブか。いいね。頑張れ!」と応援してくれた。響歌が「はい。ありがとうございます」と言ってお辞儀をすると、イケメン男子は爽やかに去っていった。そして彼の後ろを数十人の女子生徒が物凄い形相で追っていた。その女子生徒たちが隣を通るとき、響歌は睨まれた。怖いと感じたが、何もされなかったのでホッとした。
それからもチラシを配り続けたが、なかなか受け取ってもらえなかった。三日連続で朝早起きをしたので、寝不足気味で欠伸をすると、少し涙が出て頬を流れた。その直後、最後に男子生徒が一枚受けってくれたのだった。
時計に目をやると始業時間が近くなっていたので、朝のチラシ配りは終わりにすることにした。響歌は残ったチラシを見て少し悲しい気持ちになり、その場で俯いて立っていた。すると、突然どこからか「キュイン、キュイン……」という防犯ブザーのような音が鳴り始めたので驚いた。どこから音が鳴っているのか、周りを見渡して探したが、少しして音が鳴り止んだので、わからなかった。
そしてそのすぐあとに、最後にチラシを受け取ってくれた男子生徒が慌てた様子戻って来て、声を掛けてきた。彼はいきなり「ついて来て!」と言った。響歌は意味がわからず戸惑っていると、彼は無理やり響歌の腕を掴み、その場から逃げるように引っ張って行ったのだった。その勢いのせいで、響歌は持っていた残りのチラシを地面にばら撒いてしまったが、それでも彼はお構いなしだった。彼の力が結構強かったので、響歌は抵抗できずに、そのまま連れて行かれそうになり怖くなったが、一瞬勇気を振り絞って「えっ、ちょっと、いきなり何するんですか!?」と言って抵抗しようとした。しかし、彼が「今は黙ってついて来て。キミは俺が必ず守るから!」と真面目な顔で言ったので、なぜか一瞬ドキッとしてしまい、力が緩んでしまった。
それから少し歩いたところで、後ろから「ドカン! ガシャン!」という大きな音が聴こえた。振り返ると、空飛ぶ車が正門にぶつかって大破していた。しかも、その場所はさっきまで響歌が立っていた場所だった。響歌は目の前の現実に驚いて、思考が追いついていなかった。
しばらくしてようやく思考が落ち着いたときに、ハッとして助けてくれた男子生徒を探したが、すでに彼の姿はなかった。周りにはチラシが散らかっているだけだった。響歌は彼にお礼を言いたかったのだが、今日初めて会った人で、人数の多いこの学校で名前も知らない人を見つけるのは難しいだろうと思った。
そのあと、響歌は散らばったチラシを拾ってからそれを学内の掲示板に貼っていった。少しでも多くの人に知ってもらおう、見てもらおうと思ったからである。それでも余ったチラシは空き時間と昼休みを使って最後まで配り続けた。なんとか昼休みまでには用意したすべてのチラシを配り終えたので、今度は会場のセッティングを始めた。一人でやると決めたことなので、最後まで一人で頑張っていた。
準備を終えてから、あとは時間が来るのを待つだけだった。何人来るのだろうかという期待と誰も来ないかもしれないという不安が入り混じった感情を抱きながら、ただただ午後五時になるのを待ち続けた。椅子は全部で十二脚用意した。おそらく十二人も来ないだろうと思っていたが、一応念のため多めに準備したのである。このくらい来てほしいという願いも込めてあった。
そして午後五時になり、路上ライブの開催時間になったが、響歌の前には誰も来なかった。現実を目の当たりにして、響歌は心に大きなダメージを負ってしまった。今まで頑張ってきたのに、すべてを否定されたように感じた。ある程度予想はしていたが、実際に現実を突きつけられると辛かった。
自分の歌を聴きたい人は誰もいない、自分は歌う価値がないんだ。
そう思ってしまった響歌は絶望し、挫けかけていた。
響歌がギターを肩に掛けたまま俯いて落ち込んでいると、目の前の椅子に誰かが座る足が見えた。顔を上げると、そこには朝助けてくれた男子生徒が座っていた。彼は気さくに声を掛けてきたので、響歌はまず朝のお礼を言った。彼は気にしていない様子で、響歌の歌を聴きに来たと言った。その言葉を聞いた響歌は嬉しかったが、すでに自信を失っており、歌うのが怖くなっていたので、戸惑った。もしここで「つまらない」「下手」などと評価されれば、今後歌うことが嫌いになるかもしれないと思って、歌えないでいた。
響歌が歌うのを怖がっていると、もう一人銀髪の女子生徒が現れた。彼女は響歌の言い訳に対して、真っ直ぐな意見でぶつかってきた。それも攻撃的な言葉ではなく、励ますような言葉だった。そして彼女は男子生徒の隣に座り、響歌の歌を聴きに来たと言った。
今ここで歌うのか、歌わないのか、という選択を銀髪の彼女に迫られて響歌は悩んだ。
歌うのは怖い。だけど、もし今歌わずに逃げ出すと、このまま歌うことが嫌いになってしまうかもしれない。それは絶対に嫌だ!
そう思った響歌は決心した。今ここで、全力で歌うことを。響歌は覚悟を決めて、たった二人の観客に対して、全力で歌った。目の前の二人は、響歌をしっかりと見て、ちゃんと歌を聴いていた。響歌は久しぶりに自分の歌に耳を傾けてくれる人に出会ったと感じた。響歌にとってそれはとても心地良く、昔の自分を思い出すようだった。純粋に歌を楽しみながら歌っていた昔の自分を…。すると、今まで出せていなかった本来の歌声で歌うことができたのだった。
それから、今まで素通りだった生徒たちも徐々に立ち止まるようになり、人が人を呼び寄せる状態になっていった。用意していた十二脚の椅子はあっという間に埋まり、その周りで立ち聞きしている人も増えていった。三曲歌い終えたときには、一〇〇人ほどが響歌の周りを囲んでいたのだった。それに、安心院と叶愛も聴きに来ていた。響歌はこの現状に驚いたが、それよりもこんなにたくさんの人が自分の歌を聴いてくれているということの方が嬉しかったので、全力で歌い続けた。
途中からスマートグラスを掛けている人が増え始めたので、どうしたのかな、と気になっていると、みんなARで見ているようだった。どうやら、響歌のAIがこんなときのためにARでの演出を準備していたのだった。それでさらに盛り上がったのだった。
予定していた最後の曲を歌い終わると、観客からアンコールを求められた。これも初めてのことで少し戸惑ったが、応えたいと思ったので、もう一曲歌うことにした。
アンコール曲に何を歌うか考えていると、ふと昔の光景を思い出した。のど自慢大会のときの光景だった。あのときは母を始め、会場で聴いていた人も笑顔だった。なので、そのときに歌った歌を歌うことにした。結構前の歌だけど、当時人気があり、同世代の人なら知っている人が多い歌だったからだ。それに響歌は今でも大好きな歌である。
アンコールを歌い終わると、観客のみんなが笑顔で喜んでいるのがわかった。「また聴きたい!」「今度はいつやるの?」などと感想を言っている人がいて、響歌は嬉しくて涙を流した。今日初めて、今までの頑張りが報われたと感じた。こんな風に思えたのも、最初に聴きに来てくれた男子生徒と銀髪の彼女のおかげだと思った響歌は、改めてお礼を言おうとしたが、周りの人の多さで二人がどこにいるのかわからなかった。
少しずつ観客が帰り始め、みんないなくなったときに、ようやく落ち着くことができると思い、響歌は椅子に腰かけた。すると、目の前の椅子に上体を前に倒してうずくまっている男子生徒の姿があった。最初に聴きに来てくれた彼だった。うずくまったまま、まったく動く気配がなかったので、体調が悪くなったのかもしれない、と心配になり、声を掛けようとしたら、彼は突然起き上がり周りを見渡した。そして立ち上がり帰ろうとしていたので、響歌は声を掛けた。いろんなことで助けてくれた彼に、お礼を言いたかったからだ。響歌がお礼を言うと、彼もお礼を言ってきた。彼は響歌の歌を聴いて幸せな気持ちになったと言ってくれた。それが響歌はとても嬉しかった。
響歌は今日初めて彼と会ったが、彼に対して不思議な気持ちを抱いていた。彼から何か特別な力を感じていたのである。響歌は、彼が帰る前に名前を尋ねた。彼は「中津夢翔」と答えた。音楽科では見たことないので、他分野を専攻していることはわかった。この学校は生徒数が多いので、部活やサークルに所属していない限り、他の学科を専攻している人と知り合うことは滅多にないが、響歌はこれからも中津と会うことがあるだろうと予感していた。
路上ライブをした日から一週間後、響歌は学校中で噂になっていた。その理由は、口コミで広まったのもあるが、最も大きな理由は、あの日聴いていた観客の中に、超人気女優の津久見輝がいたことである。響歌は津久見に気づかなかったが、津久見は少し離れた場所から聴いていたらしく、響歌が歌っているところをスマホで撮影し、SNSに「奇跡の歌声を持った歌姫がいる!」と呟いたのである。それがSNSでバズり、一気にトレンド入りをして、響歌に注目が集まったのである。その日から響歌は『歌姫』の異名で呼ばれることになった。
最初は響歌も戸惑ったが、自分の歌を聴いて喜んでくれる人がいるので、さらに力を入れて歌い続けた。その努力が評価され、響歌は徐々に知名度を上げていった。好循環が生まれ、響歌の努力がやっと実り始めたのだった。その恩恵にあずかれたのも、響歌が今まで自分を信じて努力を続けてきたからである。どんな壁が立ち塞がっても、諦めずに歌を歌い続けたことで、技術が向上し、常に歌う準備は整っていた。
響歌はあの日の自分の選択により、見事に花を咲かせることができたのだった。
読んでいただき、ありがとうございます。
次回もお楽しみに。
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