歌姫の誕生
中津は午後の講義を終えたあと別府と別れて図書館に向かった。
夢乃森学園の大図書館は蔵書数が多く約二千万冊ある、まさに本の楽園である。中津は読書が好きなので、頻繁に大図書館に来ている。本当は一日中大図書館に籠って本を読んでいたいのだが、さすがにそんなことはできないので、限りある時間の中、厳選したものを読んでいる。
中津は、科学に関する実用書から小説やエッセイなど、幅広いジャンルの本を好んで読んでいる。最新科学の知識やいろんな人の考えを知ることで、教養力を高められると信じているのである。
大図書館の入り口には、警備タイプのあつみがいるので、彼女にスマホの中に入っている学生証を見せてから入館をした。
本棚を見て回っていたとき、ある心理学の本が目に入り、気になったので読むことにしたのだった。空いていた席に座り読んでいると、思いのほか面白く、夢中になっていた。
しばらく集中して読んでいると、突然鞄の中に入れていたスマホの通知音が鳴った。中津は本に栞を挟み机に置いてから、横に置いていた鞄を開けてスマホを取り出した。確認すると叶愛からメッセージが来ていた。そのメッセージはこんな内容だった。
「夢翔様。今日は助けていただき、ありがとうございました」
「夢乃森さんが怪我をしなくて良かったです!」
そう中津が返信すると、叶愛から「ありがとうございます」と言ってお辞儀をしている可愛いバクのキャラクタースタンプが送られてきた。中津は「どういたしまして」と言っている同じバクのイラストスタンプを返信した。
このバクは、夢乃森学園で大人気のキャラクターである。なぜなら、夢乃森学園の公式マスコットキャラクターだからだ。名前は『ブバルディア』。花の名前から取っているらしく、花言葉は「夢」である。多くの人は「ブバルちゃん」「ディアちゃん」などと略して呼んでいる。また、バクは夢を食べるという話から、ブバルディアを持っていると夢人に会えると信じられているので、学園生のほとんどは何かしらのブバルディアグッズ(キーホルダー、ストラップ、ぬいぐるみ、Tシャツ、お守り、スタンプなど)を持っている。ちなみに、中津は入学してすぐにブバルディアのぬいぐるみを叶愛からもらって、部屋に飾っている。
中津がスマホを鞄に戻そうとしたとき、鞄の中から朝もらったチラシが見えた。そのチラシを取り出し少し眺めたあと、時間を確認すると、午後五時五分になっていた。中津は姫島がどうなったのか気になったので、読んでいた本を片付けて路上ライブ会場に向かうことにした。大図書館から中央広場までは五分ほどで着く場所だった。中津が図書館を出たとき、歌声が聞こえなかったので、まだ始まっていないのか、それともちょうど休んでいるのだろう、と思いながら速足で向かった。
中津は中央広場に到着して唖然とした。なぜなら、誰も集まっていなかったからだ。姫島はアコースティックギターを肩に掛けたまま椅子に座っており、俯いていた。姫島の周りにはマイクスタンドやアンプなど、路上ライブに必要な機材があり、目の前には観客用のパイプ椅子が六脚ずつ二列に並べられていた。通行人はチラホラいるが、友達と話しながら歩いていたり、ヘッドホンをして音楽を聴きながら歩いていたりして、姫島の前を素通りする人たちばかりだった。時折、チラッと見る人もいたが、立ち止まる人はいなかった。
中津が姫島に視線を送ると、俯いている姫島の頬に涙が流れているのが見えたのだった。それを目撃した中津は、姫島のところまで行き、前列真ん中左の椅子に座った。それに気づいた姫島は、手で目を拭ってから中津に声を掛けてきた。
「あ、あなたは!」
「やあ。朝ぶりですね」
「そ、そうですね」
「朝はごめんなさい。無理やり引っ張ったりして」
「いえ、私の方こそ、助けてもらったのにお礼も言わないままですみません。あのときはありがとうございました」
「いえ、それより歌を聴きに来たんですけど、まだ始まってないですか?」
「え!?」
「たしか五時からですよね。今、五時一〇分なんですけど、まだ大丈夫ですか?」
「あ、えっ、それは…」
「もしかして、遅刻は厳禁ですか?」
「い、いえ! そんなことは、ないですけど…」
「そっか。よかった」
「……あの、どうして来てくれたんですか?」
「ん? どうしてって、キミの歌を聴こうと思って」
「私の歌を?」
「はい」
「……私はまだ何の実績もない無名ですよ。そんな私の歌を聴きたいんですか?」
「えっ、はい」
「……で、でも」
姫島は告知したにも関わらず、誰も集まらなかった現実を目の当たりにして自信を失っているようだった。中津が今、目の前にいて歌を聴こうとしているのに、姫島は歌う気力を失っている、いや、歌うのが怖いというような顔をしていた。たしかに、この現実を受け入れるのは辛いことだと思うが、チラシ配りや機材の準備、それに姫島の挑戦しようという気持ちを考えると、このまま諦めてほしくなかった。
中津はどうにかして姫島を励ませないだろうかと考えていると、後ろから女性の声がした。
「最初はみんな実績もないし、無名なのは当たり前。だけど、そこから一歩踏み出して努力しなければ、何も始まらないよ」
中津と姫島は声のした方に視線を送った。声の正体は国東だった。中津が「国東さん!」と言うと、国東はゆっくり近づいて来て中津の隣に立った。そして中津を見て一瞬ニヤッとしてから、姫島に対して続けてこう言った。
「あなたはその一歩をすでに踏み出している。あとはあなたがどう行動するかで、未来は変わる!」
「私が…どう行動するか…?」
「そう。今ここで恐怖を乗り越えて二人の観客のために歌うのか、それとも恐怖に屈して歌わないのか、決めるのはあなた」
「えっ、二人?」
姫島がそう言うと、国東は中津の右隣の椅子に座って足を組んでから「あたしもあなたの歌を聴きたいんだけど」と言った。
「国東さんも姫島さんの歌を聴きに来たんですか! でも、開始は五時からなので遅刻ですよ」と中津が言った。
「うるさい! キミも遅れたでしょ!」
「俺の方が少し早かったですよ」
「ほとんど変わらないから! てか、今はキミと話している暇ないの」と国東は言ってから姫島を見た。「で、どうするの?」
姫島は悩んでいるようだった。
そのまましばらく沈黙が流れたあと、姫島がゆっくりと口を開いてこう言った。
「私、歌います!」
そう言った姫島の顔は覚悟を決めたような真っ直ぐな目をしていた。
姫島は歌う準備を始めた。アコースティックギターのチューニングをしたり、マイクの確認をしたり、発声練習をしたりしてから前を向いた。
そして姫島は弾き語りで歌い始めた。姫島は透き通るような歌声で、ささやくようなやさしい歌い方から力強い歌い方まで、幅広い表現力を持っていた。高音から低音まで歌声の幅も広く、喉の苦しさをまったく感じさせない伸びやかでパワフルな歌声だった。音程やリズム感はもちろん、姫島響歌の名の通り、とても響き渡る歌声だった。姫島の歌声は中津の心の奥まで響き渡っていた。
そう感じたのは中津だけではないようだった。隣に座っていた国東もリズムに乗っていたり、今まで見向きもしなかった周りの生徒たちも歩みを止めて姫島の歌に耳を傾けたりしていた。それからあっという間に人が集まり、用意していた十二脚の椅子は埋まり、その周りにも立ち聞きしている生徒で溢れていた。中津が周りを見渡したときはすでに一〇〇人以上の聴衆が姫島の歌を聴いていた。その中には叶愛と安心院の姿もあった。そのくらい、姫島の歌が魅力的だということだった。姫島が一曲歌い終わるごとに拍手喝采だった。
途中からスマートグラスを掛け始める人が増えたので、中津も気になって掛けてみた。すると、ARで派手な演出をしていたのである。ただの路上がまるでアリーナステージのようになっていた。また、姫島の歌に合わせてしっかり演出を変えており、しっとりした曲のときは雰囲気に合った演出をしていた。AIが姫島の歌声に合わせて演出しているようだった。
そして予定していた歌を全部歌い終わると、アンコールを求める声が上がり、それが徐々に盛り上がり始めたのだった。姫島はその反応が予想外だったようで驚いていたが、アンコールに答えて、最後にもう一曲歌ってくれた。
アンコールも歌い終わり、姫島は観客に対して「聴いてくれてありがとうございました」と言い、深々と頭を下げた。歌を聴いた生徒は「こちらこそ綺麗な歌声をありがとう!」、「最高の時間だった。また聴きたい!」、「今度はいつ歌うの?」などの感想が飛び交っていた。姫島はその反応にも驚いていたが、嬉しそうだった。
路上ライブが終わり、中津は帰ろうとしたが、周りを囲まれていたので、帰ろうにも帰れなかった。なので、みんなが帰るのをしばらくその場で待つことにした。
こんなことなら、人が集まる前に後ろの方に移動すればよかった。
そう後悔しながら右隣を見ると、国東の姿はすでになかった。中津が気づかないうちに国東は帰ったようである。この人混みの中、一体どうやって帰ったのだろうかと考えたが、わからなかった。国東は人に揉みくちゃにされながらも前に進んで行く勇者だったのかもしれない。そんなことを考えながら中津は体を縮めて時間が経つのを待った。
それから二〇分ほどで周囲のザワザワが聞こえなくなったので、顔を上げて見渡すと誰もいなくなっていた。叶愛と安心院の姿もなかったので帰ったようだった。これでようやく帰ることができると思い、立ち上がると、姫島が声を掛けてきた。
「あ、あの! 今日はありがとうございました!」
「ん? お礼を言うのは俺の方だと思うんだけど…」
「え!?」
「だってあんなに素晴らしい歌を聴かせてくれたんだから! すごく感動しました。ありがとうございました」
「い、いえ。こちらこそ、聴いてくれてありがとうございました」
「また歌ったりするんですか?」
「それは……まだ、未定です」
「そうですか。もし歌うことがあれば、また聴きたいです」
「そ、そうですか。じゃ、じゃあ、考えておきます」
「楽しみにしておきますね」
「……あの、一つ聞いてもいいですか?」
「ん? なんですか?」
「私の歌を聴いて、幸せな気持ちになりましたか?」
「はい。もちろん!」
「そうですか!」
姫島はその答えを聞いて、とても嬉しそうだった。
「じゃ、またいつか。姫島響歌さん」
中津がそう言って帰り始めると、姫島が「あ、あの!」と言ったので、中津は立ち止まり振り返った。
「ん?」
「な、名前は…なんていうんですか?」
「…夢翔……中津夢翔」
「中津…夢翔………。また会えますか? 中津くん」
「まぁ同じ学校に通っているから、会うことはあると思います」
「そ、そうだね」
「はい。じゃあ、また!」
「うん! またね。中津くん!」
この学校は生徒が三万人以上いて、他の学科を専攻している生徒と会うことはほとんどない。部活やサークルで他学科の人と関わることはできるが、中津はどこにも所属していない。なので、心理学科の中津と音楽科の姫島が今後会う可能性は低いだろうが、中津はなぜかまた会えるだろうと予感していた。
読んでいただき、ありがとうございます。
次回もお楽しみに。
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