さらわれた夢乃森①
叶愛とのデート当日、中津は朝シャワーを浴びた。そして髪をしっかり乾かしてからセットし、昨日買った服を着てから、母の形見である指輪のネックレスを首にかけた。そして最後にいつも持ち歩いている栞をジャケットの胸ポケットに入れて準備完了。さすがに本を持って行くわけにはいかないので、今日は栞だけにした。あとは待ち合わせ時間の午前一〇時になるのを待つだけだった。
今日の叶愛の目的は、先日中津が助けたことに対するお礼である。叶愛は、受けた恩を返すという家の決まりを守っているに過ぎないのである。それ以上でも以下でもない。なので、今日のプランはすべて叶愛が決めることになった。どこに行くのかまったく見当がつかずわからないので少し不安な気持ちもあったが、楽しみな感情の方が大きかった。
午前九時三〇分に中津は寮を出発した。叶愛を待たせるわけにはいかないので、少し早めに出たのだった。そして待ち合わせ場所である夢乃森学園中央広場にある時計塔前に九時四五分に到着したのだが、すでに叶愛が待っていた。待たせて申し訳ないと思ったが、叶愛も来たばかりだということだったので、ホッとした。
中津は久しぶりに見た叶愛の私服姿に見惚れた。学園で制服姿を何度も見ているので見慣れたと思っていたが、私服になるとまた印象が変わり、つい見惚れてしまったのだ。正直に褒めると、叶愛が「……ゆ、夢翔様も、とてもお似合いです」と言ってくれたので、中津はそれがとても嬉しかった。この一言だけでも、昨日いろんな人に相談して買った甲斐あったと思った。
それから叶愛に今日の予定を尋ねると、夢乃森美術館に行くということだった。叶愛は知り合いにチケットを貰ったらしく、一枚を中津のために使ってくれるということだった。夢乃森美術館は現在期間限定でゴッホ展をしているので、中津が行きたいと思っていた場所である。フィンセント・ファン・ゴッホの名画が見られるとわかり、中津はすでにワクワクし始めた。
そして正門前に着いたとき、叶愛が指パッチンをすると、目の前に黒塗りの高級リムジンが停まって運転席からフォーマルな格好の紳士が降りてきた。中津は驚いて高級リムジンをまじまじと見つめてしまった。中津は電車で行くと勝手に思い込んでいたが、叶愛みたいなお嬢様が電車に乗るはずがなかった。
しかし、その後叶愛が電車に乗ったことがないということで、乗ってみたいと言った。そのときの叶愛が好奇心に満ちた目をしていたので、それを叶えてやりたいと思った中津も電車に乗ることに賛成した。
ということで、二人は電車に乗ることになったので、歩いて夢乃森学園前駅まで向かった。
駅に着くと、叶愛はどうしていいかわからない様子だったが、周りにいた人の真似をして、持っていたカードで改札機を通ろうとしていたが、カードの種類が違ったので使えずに通ることができていなかった。そのときの慌てふためく叶愛の姿が可愛かったので、中津はしばらくそのまま眺めていた。そのあと、ちゃんと説明した。
夢乃森美術館の最寄り駅である夢乃森駅に着いた二人は、電車から降りて、バス停に向かい始めた。休みで人が多く、さらに叶愛はこの駅構内を知らなかったので、逸れないように気をつけながら進んだ。そしてその途中で、偶然別府と出会った。
後ろから「中津!」と声が聴こえたので振り返ると、そこに別府と桜色ショートヘアに深紅の瞳をした女の子が立っていた。
「別府!」
「偶然だな。ここで買い物か?」
「いや、俺たちは今から夢乃森美術館に行くんだ」
「美術館か。いいな。たしか今、ゴッホ展をやってるんだっけ?」
「ああ。ちょうど行きたいと思ってときに夢乃森さんに誘われてラッキーだった」
「ふーん…ラッキーねぇ」
別府はそう言って叶愛を見てから、すぐに中津に視線を戻した。
「別府は何をしてるんだ?」
「俺はこいつの買い物に付き合わされてるんだ」
「剣くん! 何その言い方! あたしが無理やり連れて来たみたいじゃん!」と桜色ショートは言った。
「えっ、違うのか?」
「違うでしょ! あたしは『もし暇があったら買い物に付き合って』って懇切丁寧にお願いしたでしょ!」
「あー、そうだったかなぁ」
「んー」
「別府…その子は…?」と中津は尋ねた。
「ああ。こいつは…」
「あたしは宇佐まりん(うさまりん)です。今年から夢乃森学園に入学した一年です。剣くんとは幼馴染なので昔からこんな感じです」
「ご丁寧にどうも。俺は…」
「お二人のことは知っています。中津夢翔さんと夢乃森叶愛さん、ですよね?」
「えっ、夢乃森さんはともかく、どうして俺まで?」
「剣くんに話を聴いていますので。面白い人と友達になったって」
「まりん! 余計なこと言うな!」
「へっへー。さっきのお返しー」
二人の様子を見ていると本当に仲の良い幼馴染なんだな、ということがわかる。お互いが信頼し合っている、そんな雰囲気があった。また、腕が治ったばかりなのに大変だな、と心の中で同情した。
中津が宇佐と出会ったのは今日が初めてである。しかし、なんとなく不思議な感じがする少女だと思った。他の人とは違う、何か特別なオーラを纏っているような、よくわからないが、とにかく不思議な少女だった。
中津は宇佐のことが気になり少し前傾姿勢になって観察するようにジロジロ見ていると、宇佐が「な、なにか?」と若干引き気味で言った。
中津はハッと我に返って「あっ、ごめんなさい」と言って姿勢を正したとき、叶愛が「ん、んん」と言ったので視線を合わせると、叶愛は少し怒っているように見えた。
「今年から入学した新一年生でしたか。おめでとうございます」と叶愛は言った。
「ありがとうございます」
「すでに私のことをご存じのようですが改めまして、私は夢乃森学園二年の夢乃森叶愛です。学園生活で何か困ったことがあったらいつでもお話を聴きますので、気軽にご相談ください」
「あ、はい!」
「ちなみに、別府さんは私のことをどんな風に言っておりましたか?」
「えーっと、そうですね。頭が良くて、上品で、とても綺麗な人……なのに、肝心なところで一歩踏み出せない人って言ってました」
それを聞いた叶愛が別府を睨みつけると、別府は気まずそうな顔になり、逃げるようにこの場から去り、宇佐も一礼して別府の後を追っていった。
二人が再び先に進み始めたとき、今度は叶愛がショートボブの女子生徒に呼び止められたので、二人は階段前で立ち止まった。叶愛に声を掛けてきた彼女は速見時音という叶愛と中学時代からの友達だった。
中津は速見と初めて会ったはずなのに、すでに何度も会ったことがある感じがしていたが、すぐにその理由が判明した。速見は『ドリームバックス』でバイトをしているらしいので、そこで何度も見たから無意識に覚えていたのだった。
速見とカフェトークで少し盛り上がったところで、彼女は最後叶愛に何か囁いてから去っていった。
今日は休日で、今いる場所は夢乃森学園周辺で若者が最も集まると言われる夢乃森駅。当然、夢乃森学園の生徒もたくさん遊びに来ている。私服だから気づかれないだろうと思っていたが、私服でも叶愛の存在感は大きいようだった。すれ違う人々みんなが叶愛に見惚れているようだった。
あまり注目されて騒ぎになってもいけないので、早めにこの人混みから離れようとしたが、そのとき頭がズキンとしてあるイメージが見えた。男の子がエスカレーターの手すりに掴まって自力で降りられない高さまで行ってしまい、泣いている姿だった。中津がすぐに周りを見渡すと、近くにエスカレーターがありイメージで見た男の子がすでに真ん中あたりまで行ってしまい降りられなくて焦っている光景を見つけた。中津は走って現場まで向かい、男の子が一番上に辿り着く前に助け出した。
その直後、また頭がズキンとしてあるイメージが見えた。今度は女の子が階段を下っているときに足を踏み外して落ちてしまうイメージだった。中津が自分が先程まで立っていた場所に視線を送ると、今まさにイメージで見た女の子が階段を下ろうとしていた。中津はエスカレーターを走って下り、女の子の元へ急いで向かったが、あと一歩のところで間に合わず、女の子は足を踏み外してしまった。しかし、中津は女の子が落ちてくることがわかっていたので、待ち構えることができ、女の子を空中でキャッチすることができた。それで女の子は無事無傷で済んだ。
中津は叶愛を置き去りにして行ったり来たりしてしまったので、申し訳ないと思い謝ったが、叶愛は心が広くまったく気にしていないということで許してくれた。
一息ついたところで先に行こうとしたとき、二人の目の前に泣いている男の子がいた。どうやら親と逸れて泣いているようだったので、迷子センターに連れて行くことになった。叶愛がやさしい口調で男に子に声を掛けると、男の子は泣き止んで、叶愛のことを気に入ったようだった。迷子センターまで男の子は叶愛と手を繋いでいた。さすが教育学を専攻しているだけあって、子どもと上手くコミュニケーションを取っていた。
迷子センターに着くと母親が先に訪れており、その姿を見た男の子は繋いでいた手を離して走って母親の元へ向かった。やはり子どもは母親が一番好きらしい。母親と男の子は中津と叶愛に感謝をしてからしっかり手を繋いで戻っていった。
中津は感謝されたことが嬉しくて笑顔で見送っていると、隣に立っている叶愛も同じような笑顔だった。おそらく同じ気持ちだったのだろう。
今度こそ美術館に向かおうとしていたとき、中津の視界にある店が入ってきたので立ち止まった。中津の視線の先には本屋があった。ここの本屋は学園近くで最も売っている本の品数が多いので、中津にとっては宝庫のような場所だった。
行きたい! でも、ダメだ。今から夢乃森さんと美術館に行くんだから、そんな暇はない。ここならいつでも来られる場所だ。
中津は本屋が好きだが、この本屋は駅ビル内にあり人が多い場所なので、あまり来ることがなかった。近いのでいつでも来ることができると自分に言い聞かせていたが、いざ目の前で大量の本を目にすると、興奮を抑えることが難しかった。一人でそんな葛藤をしていると、叶愛が察してくれた様子で声を掛けてくれたので、本屋に寄ることになった。
本の棚にはアルファベットと数字が書かれており、棚ごとにジャンルが分かれている。中津はワクワクしながら棚を左側から右側まで見て回り、一面を見終わると反対側を向いて見て回った。その中で気になった本を手に取って表紙や裏表紙を見たり、サッと開いて中身を少し読んだりした。
棚を二つ見て回ったあと、叶愛が別の場所を見に行くということだったので、一人で舞い上がっていたことが申し訳ないと思った中津は、今度は叶愛の見たいところへついて行こうとしたが、一人でいいということで一旦別行動をすることになった。叶愛は「すぐに戻る」と言っていたので、戻ってきたら本屋を出て美術館に行こうと考えていた。
しかし、それからしばらく本を眺めながら待っていたが、叶愛は一向に戻って来なかった。時計を見て時間を確認すると一二時を過ぎていた。本屋に来たのが一一時三〇分頃だったので、約三〇分戻って来ていないことになる。心配になった中津は本屋を探し回ったが、叶愛の姿はなかった。どこか別の店に行ったのかもしれないと思った中津は叶愛に電話を掛けたが、電源を切っているのか繋がらなかった。
まさか! 俺に愛想を尽かせて帰った!? 美術館に誘ってくれたのに、俺のせいでなかなか着かないから怒ったとか。あり得る。せっかく今日のプランを考えてくれたのに、俺のせいで進まなかったから。……どうしよう。夢乃森さんを怒らせてしまった。
中津は頭を抱えて焦った。普段温厚な叶愛を怒らせてしまったと思い込んでいたからだ。
これは由々しき事態だ。早く対応しないと大変なことになる。夢乃森さんを見つけて土下座しなければ!
そんなことを考えながら、本屋の出入り口付近を歩いていると、ベンチの下に光るものが落ちているのを見つけた。拾い上げて見てみると、パールのイヤリングだった。そのイヤリングは叶愛がつけていたものだった。そのことに気づいたとき、頭がズキンとしてあるイメージが見えた。そのイメージでは、手足が縛られて気を失っている叶愛がどこか暗い部屋に閉じ込められていた。
夢乃森さん!? どこだ、ここ!? まさか、誰かにさらわれた!?
中津はイヤリングをポケットに入れてから走って駅の出入り口に行った。そこで周りを見渡したが叶愛の姿も怪しい人物や車なども見当たらなかった。
電話は繋がらない。どうすれば……。
そのとき、ポケットに入れていたスマホに着信が入った。
もしかして夢乃森さん!?
スマホを取り出して確認すると、安心院からだった。中津は、今忙しいということを伝えてからすぐに切ろうと考え、応答した。
「はい。中津です。すみません、生徒会長。俺、今取り込み中なので…」
「中津くん。……夢乃森さんが…誘拐されたわ」
「えっ?」
中津はあまりの衝撃に言葉がでなかった。
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