夢乃森叶愛はもてなしたい
叶愛は待ち合わせ時間の一時間前に到着し、夢翔が来るのを待っていた。天気は快晴。日頃の行いを神様が見てくれているようだった。
そして一五分前の午前九時四五分に夢翔がやって来た。姿が見えるまでは歩いて来ていたが、見えた瞬間、走ってやって来た。
「すみません。お待たせました」
「いえ。私も今来たところです」
「そうですか。よかった」
夢翔はホッとした様子だった。
それから夢翔は叶愛をジーっと見つめて何も言わなかった。
「どうかされましたか? 夢翔様」
「あ、すみません。夢乃森さんの私服を見たの、久しぶりだったので、つい見惚れてしまいました」
「見惚れて…!」
「すみません。ジロジロ見てしまって」
「い、いえ……どうですか? 似合っていますでしょうか?」
「はい。とてもお似合いです」
「ありがとうございます」と叶愛は言った。「……ゆ、夢翔様も、とてもお似合いです」と呟いた。
夜遅くまで頑張ったことが報われた瞬間だった。叶愛は顔が赤くなり、頭からプシューと湯気を出すほど照れていた。叶愛の頭の中は「夢翔様が褒めてくれた。夢翔様が褒めてくれた。夢翔様が褒めてくれた……」というセリフが何度も繰り返し流れていた。
「あの、夢乃森さん? 大丈夫ですか?」
「ハッ! すみません。一瞬魂が昇天してしまいました。お恥ずかしいです」
「い、いえ」
「では、参りましょうか」
「はい」
二人は並んで歩き始めた。
「今からどこに行くんですか?」
「あっ、そうでした。大事なことをまだ言っていなかったですね。まずは夢乃森美術館に行こうと思います」
「夢乃森美術館ですか! 俺もちょうど行きたいと思っていたんです」
「そうですか。よかったです。たまたま知り合いにチケットを二枚頂きましたので、せっかくなら、と思いまして」
噓である。チケットは知り合いにもらったのではなく、自分で買ったのである。
「そうだったんですか。それを俺に使ってよかったんですか? 夢乃森さんと一緒に美術館に行きたい人、結構いると思うんですけど」
「そんなことないですよ。みんな何度も行ったことがあるところなので、もう飽きたとおっしゃっていました」
嘘である。叶愛は常日頃から取り巻きたちに誘われているのである。それを今まですべて断り続けてきた。
「そうなんですね。夢乃森さんも何度も行かれているんですか?」
「いえ、まだ二回目です」
嘘である。叶愛は小さい頃から何度も行ったことがある、大の芸術好きである。夢乃森美術館はすでに両手で収まらないくらい行っており、その他にも世界各国の有名な美術館を軒並み走破している。叶愛は何度行っても飽きないのだが、夢翔が気にしないようにさり気なく嘘をついた。
「そうなんですね。俺は初めてなので楽しみです」
「私も久しぶりなので楽しみです」
嘘である。つい先日行ったばかりである。楽しみなのは本当だが、それは久しぶりだからではなく、夢翔と一緒だからである。
そんな会話をしていると、正門前に着いた。
叶愛が「では、行きましょうか」と言ってスマホをタップすると、二人の目の前に黒塗りの高級リムジンが停まった。そして中からフォーマルな格好の紳士が降りてきて、ドアを開けた。リムジンは自動運転なので出てきた紳士は運転手ではなく、中で給仕してくれる人である。ついでにSPでもある。他にも空飛ぶ車という選択肢も考えたが、夢翔はあまり目立ちたくないだろうし、叶愛も今回は完全プライベートだったため目立ちたくなかったので、リムジンにしたのだった。
「こ、これで行くんですか?」
「はい」
「そうですか」
夢翔は驚いて言葉が出ない様子でリムジンを見つめていた。
「何か気になることがあるのですか?」
「あ、いえ、てっきり電車で行くものと勝手に思い込んでいたので、ちょっと驚いてしまって」
「電車…」
「すみません。つい自分の基準で考えてしまいました」
「夢翔様は電車に乗られたことあるのですか?」
「えっ、はい」
「こういうときは、電車に乗って行くものなのでしょか?」
「いえ、人それぞれだと思います。行く手段はいくつもありますから。電車で行く人もいれば、車……リムジンで行く人もいると思います」
「そうですか」
叶愛はそのまま黙り込んだ。しばらく沈黙が流れたあと、心配した様子の夢翔が声を掛けてきた。
「夢乃森さん? どうしたんですか?」
「……夢翔様。一つお願いがあるのですが…」
「なんですか?」
「私、電車に乗ってみたいです」
「え?」
「実は私、電車に乗ったことがありません。いつも移動は車か飛行機だったので、電車に乗る機会がなかったのです。ですが、前から少し気になっていました。いつか乗ってみたいと」
「そうだったんですか」
夢翔は意外な事実を知って驚いているのか、引いているのか、しばらく黙り込んだ。
「すみません。わがままを言ってしまいました。今のは忘れてください。では、乗りましょう」
叶愛はそう言って促したが、夢翔は動かずに考え事をしていた。
「……夢乃森さん。今日は電車で行きませんか?」
「え!?」
「なんか俺も電車に乗りたい気分になりました」
「いいのですか?」
「はい。夢乃森さんがいいなら」
「もちろんです。問題ありません!」
「そうですか。でも、せっかく車を用意してもらったのに、すみません」
「夢翔様が謝ることありません。私のわがままなので」
「それじゃあ、駅に向かいますか」
「はい!」
ということで、二人は最寄り駅の夢乃森学園前駅に歩いて向かい始めた。叶愛の気まぐれにより、早速計画していたプランと違う展開になったのである。このとき、叶愛はそんなこと気にも留めていなかった。突然のプラン変更にリムジンの給仕兼SPは心配しているようだったが、気にしないでいいと伝えた。
叶愛がどこかへ出かけるときは、大抵SPが見守っていることが多いが、今回は完全プライベート、さらに夢翔と一緒だということでSPは一人もついて来ないようにした。出発前、執事やメイドは心配している様子だったが、それだけはどうしても譲れないことだった。移動手段がリムジンだったので、渋々納得してくれたのが、それも急遽変更になった。予定通りにいかないのが人生である。
夢乃森学園前駅に着き、電車について何も知らない叶愛に対し、夢翔は丁寧に説明してくれた。周りの人は何もしないで改札機を通っていたので、叶愛も真似したが、改札機に何度も阻まれるのだった。そんな叶愛を見て夢翔が笑っていたので、叶愛は恥ずかしくなっていた。あとで理由を教えてもらうと、何もしないで改札機を通っている人たちはスマホに専用のアプリを入れているということだった。アプリを入れていない人は、切符を買わなければ改札機を通れないということだった。これを機にアプリを入れてもよかったのだが、あえて前時代的な体験をしたくなったので切符を買ったのだった。叶愛は切符を買ったり、改札機を通ったり、電車に乗る場所がたくさんあって迷いそうになったりと初めての体験をたくさんしたのだった。
しばらくホームで待っていると電車がやって来たので、叶愛は身を乗り出しそうになったが、夢翔に危ないと言われてやさしく腕を引っ張られた。このとき、電車を待つときは、黄色い線の内側で待たなければならないというルールがあることを知ったのだが、それよりも夢翔が腕を掴んでくれたことの方で頭がいっぱいだった。
そして叶愛はついに念願の電車に乗ったのである。二人はドアから近くの空いていた席に座った。二人の他にも乗客はいたが、そんなに多くなく十分座れるほど席は空いており、ドア付近で立っている人もいた。
電車の揺れ、ガタンゴトン、キィーという音、椅子の座り心地、独特な喋り方の車内アナウンス、次々に過ぎ去っていく景色、駅で乗り降りする人々、すべてが叶愛にとって新鮮だった。叶愛は初めての電車に少し感動していた。そしてあっという間に目的地である夢乃森駅に着き、電車を降りた。短い時間だったが満足していた。
夢乃森駅は駅ビルで、複合商業施設と併合しているためたくさんの人で賑わっていた。叶愛はどこがどこだかわからなかったので、夢翔の後をついて行った。
すると、偶然そこで別府と出会ったのだった。別府は桜色ショートヘアの可愛い女の子と一緒にいた。その場で夢翔と別府は立ち話を始めた。別府はその子と幼馴染らしく、今年から夢乃森学園に入学して引っ越してきたばかりだから、買い物に付き合っているということだった。彼女が新一年生ということだったので、一応叶愛も挨拶した。叶愛は彼女に対して不思議な印象を抱いた。何か特別な力を感じたのだった。会話の最後には、別府が叶愛をからかっていることがわかったので、叶愛が睨みつけると、別府は逃げるように去っていき、彼女も一礼して追いかけていった。
休日ということもあり、夢乃森学園の生徒もたくさん遊びに来ているようだった。みんな私服なので意外とわからないだろうと、思っていたが、叶愛は結構目立つようで気づかれることがしばしばあった。
早くこの場所から抜け出したいと思いながら、夢翔の後ろをついて行っていると、今度は後ろから「あっ、叶愛!」と声を掛けられた。叶愛が振り向くと、時音が近づいて来ていた。叶愛が立ち止まると、夢翔も立ち止まった。
「叶愛が私服ってことは、ひょっとして遊びに来たの?」
「はい。時音も遊びに来たのですか?」
「うん。今日の夜、夢乃森ハイパーアリーナで音楽ライブがあるから遅れないように早めに来たんだ」
「そうですか。楽しみにしているのですね」
「うん。……ところで、隣にいるキミは……もしかして、中津くん!?」
「はい。中津夢翔です。俺のこと知っているんですね」
「そりゃもちろん知ってるよー。だってキミ…」
時音がそこまで言いかけたところで叶愛は「んっ、んん」と言い、途中で言葉を遮った。余計なことを言われるかもしれない、と思ったからだ。時音は叶愛を見て、お茶目な顔をして許してという素振りをした。
「夢翔様。この子は外国語学を専攻している二年の速見時音です。中学校時代から私と仲良くしてくれている友人です」
「速見…時音さん。……初めて会ったと思うんですけど、初めてじゃない気がするんですよね。どうしてだろ?」
「それはおそらく…」
「それはねー、たぶん、私がドリームバックスで働いているからじゃないかな?」
叶愛が答えようとした内容と同じことを時音が遮って言った。
「ドリームバックスで……あっ、そういえば、見たことある気がします」
「あそこ人気だから、働いていると勝手に顔が広がるんだよねー」
「そうみたいですね」
「中津くんもよく来るの?」
「はい。カフェは好きなので、落ち着きたいときによく行きます」
「そうなんだぁ。何が好きなの?」
「俺は無難にオリジナルブレンドですね」
「いいよね。オリジナルブレンド! ほのかな苦みと濃度の低さでまろやかな後口…」
「速見さんは何が好きですか?」
「私? 私はねー…」
夢翔と時音の会話が思いのほか盛り上がっていたので、叶愛は嫉妬してジーっと時音を見つめた。時音は叶愛に気づき、その視線から考えていることを察したようで、少し焦った様子で話を終わらせた。
「あー、じゃあ、私はこの辺で」
「え!?」
「またドリームバックスに来たときは声を掛けてね。中津…夢翔くん」
「はい」
そして時音は叶愛の耳元に近づき、「じゃあ、あとで話聞かせてね」と囁いてから去っていった。
叶愛は、これでようやく先に進めると思ったのだが、その後なぜか子どものトラブルに出くわすことが続き、それを夢翔が助けていたため、先に行くことができなかったのである。たとえば、登りエスカレータの手すりにつかまって遊んでいた八歳の子どもが自力で降りられないところまで行ってしまい、泣いていたところを助け出したり、階段を下っていた七歳の子どもが足を踏み外して落ちそうになっていたところを空中でキャッチしたり、五歳の子どもが親と逸れて泣いていたので、迷子センターに連れて行ったりしていた。
叶愛はそんな夢翔の姿を見て改めてキュンとしていた。しかし、気づいたときにはあっという間に時間が経っており、午前一一時三〇分になっていた。
子どもを迷子センターに連れて行ったあと、駅の出口に向かっていると、中津が急に立ち止まり、ある店を見つめていた。そこは本屋だった。ここの本屋は大きくて広く、今では数少ない本屋の一つである。夢翔は目を輝かせて本屋を見つめており、行きたいという目をしていた。
「本屋さん、寄りますか?」
「えっ、いいんですか? いや、でも、美術館に行かないと」
「時間はあります。せっかくなので寄りましょう」
「…ありがとうございます!」
「夢翔様も私のわがままに付き合ってくれましたので、これくらいは」
ということで、二人は本屋に立ち寄った。
夢翔は目を輝かせながら本棚を見て回っていた。叶愛はそんな夢翔を見て、寄ってよかったと思ったのだが、このあとの予定を大幅に変更しなければならなかったので、改めて考え直すために、一旦戦線離脱することにした。
「夢翔様。私、向こうの方を見てきますね」
「え、あ、ごめんなさい。一人ではしゃいでしまって。俺も行きます」
「いえ、夢翔様は見たいところを見ていてください。すぐに戻りますので」
「あ、はい。わかりました」
叶愛は本屋の前にあったベンチに座り、バッグからスマホを取り出してプランを記入したアプリを開いた。
叶愛がこのあとの予定を考えていると、隣に誰かが座った気配を感じたので視線を送ったが、誰もいなかった。なので、もう一度スマホに意識を集中したとき、突然バチバチバチという音がした。そして叶愛は気を失った。
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