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蒼白の天狼  作者: ベルトに乗った肉
禁忌衝突編
20/34

19 禁忌衝突 ―後編―

ヨハンとの因縁に決着!?

『術式展開――魔導領域【暗垣冥域(ヘルヘイム)】』


 【禁忌(タブー)】の能力が、彼の心身に追いついていない――それは大きな誤算だ。

 彼の生み出した結界術式は、外からも、内からも脱出が容易い。ただ術式があるだけの空間。ただ視覚的に空間が閉ざされたように見えるだけだ。

 足元から迫り上がってくるように領域が構築されていく。

 周囲の様子を見てシリウスは目を見張った。

 草木が、死んでいく。

 そして理解する。

 この領域、閉ざせば勝ちが確定する絶対必殺の効果だ。

 生命力――魔力量の低いものから死んでいく。

 領域を展開する前の重力攻撃も、シリウスを確実に領域内に引き入れるためのものだった。追撃のために距離を詰めたが、それこそが悪手だったのだ。

 領域の範囲は通常と比べ一回りも二回りも小さい。だからこそシリウスを射程距離まで引きつけ、かつ領域の展開までの時間を稼ぐ必要があったのだ。

 奇しくも、その条件が揃った。

 そして今、終わりが始まった。

 『【氷纏装身】』が解ける。『窮極魔法』に覚醒していないシリウスは、魔導領域内での術式の使用が困難になるのだ。

 辺りは闇に染まった。

 “死”は、シリウスを侵食し始める。

 心なしか呼吸が苦しくなって、彼女は少し前に屈む。

 その時にパラリと何かが落ちた。

 皮膚、だったもの。

 己の弱さに打ちひしがれながら、ゆっくりと目を閉じる。

(そっか……死ぬんだ)

 肌に亀裂が入り、弱いところは欠け落ちていく。

 まさに、死を肌で感じた。

(これが、“死”か)


 ――そしてシリウスの意識は深い闇に沈んだ。


◇◇◇


 寒い。珍しく彼女は、寒さで目を覚ました。

 氷の世界。それはきっと、永遠に溶けることも、壊れることもない不壊の氷の大地。

 ゆっくりと身を起こし、辺りを見回す。

 ちょうど後ろを向いたところで、人影があるのに気づいた。

 シリウスと同じ見た目をした――少年。

「プロキオン……?」

 その声に、少年は気がついたようにこちらを向いた。

「気が付いたか?」

「…………だれ?」

 顔は、誰とも言えない。ただ、少し自分の面影を感じる。少なくともプロキオンではないようだが。

「オレか? ……まぁ、お前だな」

 少年は言った。

「へ?」

「事実だろ、お前もオレも、同じみたいなもんだろ」

「ごめん、全然わかんない」

 困惑するシリウスだが、ガン無視で少年は言った。

「まぁ、お前がここにいるってことは、オレが想定したよりもめちゃくちゃ早く、ヤバいってことだな」

 その言葉で、シリウスは思い出した。

「【禁忌】……」

 そして自分がどこにいるかも察した。

「そっか、オレ死んだのか」

「…………随分と肝が据わってやがるな。だが、残念ながらここは“天界(ヒンメル)”じゃあねぇ」

「――どういうことだよ?」

「まだ間に合うぞ。ま、死にたけりゃここを通っていけ」

 少年は自身の背後を指した。その先は真っ暗。

 ふとシリウスは後ろに振り返った。

 その先は真っ白。

「そっちに戻ったってどうせ死ぬんだ。分かったら、大人しくオレの話を聞け」

「詰みじゃねーか」

「そんなに聞きたくないか!?」

 少年はショックを受けたように叫んだ。

 が、すぐに気を取り直し、勝手に話し始める。

「ここは、お前の“色”だ。どうだ? 汚ねぇだろ?」

「失礼極まりないな」

「本当のことを言ったまでだ。 ――んで、見ての通り、【氷】だな」

「……あぁ」

「生と死が交錯する氷の世界。お前だけの世界だ。おめでとう。完成したな」

 パチパチと無機質な拍手をする少年。

 しかしシリウスは嬉しがるわけでもなく、納得していない様子。

「主語が足りて無い。回りくどいのは嫌いなんだよ」

「っ…………」

 少年は片眉を顰めた。

「――分かった」

 言うと、咳払いをひとつ。

「お前は、何かが足りない」

「……よく言われるよ」

「魔人王もお人好しだよな。わざわざお前のために色々と見せてくれたんだ」

「あぁ、感謝してる」

「でも、足りない“何か”は満たされない」

「…………そう、だな」

「いいか? お前に足りないのは“強いこと”ではない」

 はっとした。種族王を目標として強くなるために鍛錬を重ねてきた。しかしその先には何も見つからなかった。

「お前が知るべきは“弱さ”だ。弱肉強食の世界で、“弱さ”の果てを知るべきだ。そしてお前は今、それを身をもって体感した。だからここにいる。でも、これは終わりじゃない。だからこそ、『まだ間に合う』。言っただろ?」

 言い回しは変わらない。ただ、彼はシリウスに気付きを与えた。

 シリウスの目つきが変わった。

 その表情を見て、少年はニヤリと笑った。彼の顔はシリウスに本当にそっくりだった。

「――ここは、生と死が交錯する氷の世界。お前だけの世界」

「オレ、だけの……」

「それを踏まえて……それでもお前は、この先に進むのか?」

 少年は再び自分の後ろを指した。

 一方で右手を差し出す。その掌の上には、蒼白の光が浮かんでいた。

「オレはお前を認めた。お前はオレを信じろ。 ――譲ってやるよ。大事に使えよ?」

 惹き合うように、シリウスの手は少年の掌に浮かぶ蒼白の光のもとに伸びる。

 触れた瞬間、辺りは眩い光に包まれた。

 不思議と力が溢れる。シリウスは、蒼白の魔力光によって輝き出した。

 少年はシリウスの肩に優しく手を置く。そして真っ暗な道とは反対の、真っ白な道の方へと向いた。

「しっかり前見ろよ。ゆっくりでいい。オレに、合わせろ」

「……分かった」


◇◇◇


「――はぁ…………」

 深く息を吐く。冷気によってそれは白くなる。

 そうだ。まだ終わってない。

 フリーから、諦めることは教わっていないはずだ。

 彼女は手を合わせた。

 ――いくぞ。


『術式展開――魔導領域【氷霧冥域(ニヴルヘイム)】』


 【禁忌】の生み出した魔導領域に霜が降りる。

 やがて凍りついたその上から、新たな領域が生まれた。

 領域の押し合いではなく、包含。

 【禁忌】の領域が、飲み込まれる。

 そこからは一瞬だった。

 瞬く間に、【禁忌】の領域よりもずっと広い領域が展開された。【禁忌】の『【暗垣冥域(ヘルヘイム)】』と同じ、結界の外側も内側も閉じないもの。

 それは、生と死が交錯する氷の世界。シリウスだけの世界。

 彼女は完成した己の領域を見て、ニヤリと笑った。

「…………上出来だ」

 術式を発現しようと、自身の“色”に干渉する。

 そして驚いた。

 圧倒的良好な操作性。その滑らかさに、シリウスは目を見張った。

 手を握ったり開いたりしながら、強く微笑み前を見据えた。

「あとは、任せろ」

 両拳をぶつける。

 術式が発現し、シリウスは氷籠手を纏った。

『【氷纏装身】』

 透き通る蒼白の頭髪、水晶のような瞳、体から出る白い冷気。もはや今の彼女は、人知の域を超えた【氷】であるだろう。

 一方の【禁忌】は、四肢が凍り始めていた。彼の中の疑問は確信に変わっていく。

「【氷】が私を捕える。まとわりつく……。これが領域展開時の付加効果」

「『“氷結捕縛(アイスバインド)”』、だ」

「……面白いッ!!」

 侵食する【氷】を振り払い、突っ込む。

 拳と拳が衝突する。

 バキバキと破裂音が鳴り、砕けたのは【禁忌】の腕だ。

 重力を纏っていたそれは防殻も兼ねていたつもりだったが、相手は窮極。況して魔導領域の中、当たり前のように術式干渉をしてくる。

 右腕を肘から失った【禁忌】。生まれた綻びから、領域の【氷】は侵食を始める。【禁忌】の“生”を貪るため。

「これが……“冥域”の力……」

 魔導領域の系列の一つ、“冥域”は「生と死の交錯」を意味している。“生”あるところに“死”あり。表裏一体のその空間では“生”の“死”が“生まれ”、やがて虚無となる。

 これは、シリウスが【氷】を理解し、そして弱肉強食で弱者となった成れの果て、“死観”を見たからだ。そのイメージを具現化させたのが、窮極魔法【氷】であり、魔導領域【氷霧冥域】である。

 【禁忌】はせめてもの抵抗を試みるが――

『術式展開――』

 術式を構築していくが、生み出された部分から凍りつき、崩れ落ちていく。

「もはや、術式の行使さえも許さないか…………」

『“破弾・砲撃銃”』

 防御を無視する一撃が懐に入る。【禁忌】の身体のほとんどが、粉々に砕かれた。

「終わらせてやる」

 そう呟いたシリウスは、最初で最後の【氷】による攻撃を仕掛ける。

『術式展開――窮極魔法【氷】:“不壊氷術【氷神(ユミル)】”』

 吹き荒れる風。吹雪となった領域で、【禁忌】は眼前の巨神を見上げた。

 精霊術にも似たそれは、シリウスの持つ、窮極魔法【氷】の、魔導領域内での最終奥義とも言える技だ。

 シリウスの動きに呼応するように巨神は動き出す。

 巨大な拳が当たると衝撃波のように氷塊が生まれた。

 そこに追い打ちをかけるように、両掌によって叩き潰す。

 地面に崩れ落ちた【禁忌】の懐に、シリウスは掌を当てた。

『おやすみ、永久(とこしえ)に』

 優しい女神のような声色で、シリウスは言った。それがトリガーだ。

 氷の樹木が生まれ、【禁忌】を中に呑み込んだ。それは【禁忌】の魔力を吸収し続け、どんどん成長していく。

 漆黒の頭髪はみるみるうちに色が抜けていき、純白に染まる。

 黒い埃のような魔力光が舞い始める。

 これが【禁忌】――ヨハンの最期となるのだった。

 今際の際に、彼はシリウスに言葉を遺した。

「悲しいものだな。私はこれまでの長い年月の中で唯一知らない感情があったのさ。 ……死とは、これほどに寂しいのだな……」

 【禁忌】の肌に亀裂が入る。

「――美しい。貴女はいつまでも、美しいままで居てくれ。貴女は……に堕ちても、呑まれないで居てくれ……」

「…………当たり前だ」

「……そ、だ……い、いこ……ジー……伝、くれ…………」

「――え?」

 ヨハンは優しく微笑んだ。

「……私……、満たさ………ありがとう――」

 言い終えたところで、【氷】は彼を芯まで呑み込み、霧となって消えていった。

 安堵のため息を吐くシリウス。同時に領域が解除され、元の空間へと戻った。

 シリウスは疲労からか力無く仰向けに倒れ、右手を空に向けた。

「……終わったな…………」

 実感は湧かなかった。

 ついさっきまでの出来事が夢のようで、頭では分かっていても、どこかで否定する自分がいる。しかしそれに対して何かを思うわけでもなく、彼女の思考はあてもなく彷徨った。

「すごく…………疲れたよ」

 そして彼女は深い眠りに落ちた。


◇◇◇


「ジーク! 今日から君は、晴れて魔人王だ!」

「――あっそう……」

 晴れ渡る空の下、魔人族のジークという青年は、里の長に種族王となったことを伝えられた。

「…………なんだ、浮かない顔して。種族王となるのは名誉なことだぞ?」

 長が言うも、ジークはさらに悪態をついた。

「ハッ、くだらないね。何が王だ。僕はもっと楽して生きていくんだよ」

「しかしなぁ、決定事項だから、仕方がないだろう?」

「個人の尊重というものを知らないんだね――」

 里長の言葉に、おっと閃いた様子のジーク。悪人の表情で言った。

「…………あぁ、良いよ? 魔人王でもなんでもなってあげるよ。ただし、王である僕の言うことは絶対。逆らったら、殺す」

「ジーク、あのなぁ……」

「クッフッフッフ、ジークを魔人王にしたのは間違いかもしれないね」

 そんな二人の会話に割って入ったのは、漆黒の髪の青年。

「――ヨハン、君も言ってやってくれ」

 里長はヨハンなる者に言うも、当の青年は肩をすくめた。

「残念ながら、私は書庫の管理で忙しいのでね。それに、彼には何を言っても無駄さ」

 彼の名はヨハン。里でもジークと並ぶ強者の一人であり、『生命の書庫』の管理人でもある。

 ヨハンはジークと親友だった。

 当時、魔導学がそこまで発展していなかった時代、彗星の如く現れた天才魔導師によって、それは大きく進歩することとなった。

 それが魔導書の存在。

 初めて“魔導書”の概念を生み出したのが、他でもない、ジークなのだ。

 初版となったのは、ジークが暇つぶしに書いたメモだ。

 当時、口伝が一般的だったが、魔導書の概念の発明により魔導技術はより進歩した。

 そんな偉業を成し遂げた結果か、ジークは魔人王に抜擢されたのだ。

「――まあ良い。ジーク、近々種族王らで会合があるそうだ。顔は出してやれよ」

「はいはい」


 ジークとヨハンは、細い道を歩いていた。

 この辺りは里から少し外れにあり、未だ未開拓の場所。

 しかし、唯一この道を抜けた先にある広場は木々を伐採して作られていた。

 とある施設を置くため、世界歴前から作られたとされている。

「珍しいね、君から書庫に案内してほしいと言うなんて」

 ヨハンは言う。

「王の気まぐれさ」

「クハハッ、なんだかんだで気に入ってるんじゃ無いかい? 魔人王」

「使う必要のないものを手元に置くほど、無駄なことはない。これが答えなんだよ。“自由”のテーマ」

 魔人王となって与えられた時間は、以前より自由が効くようになった。普段神なるものを全く信じないジークであったが、この時ばかりは神からの賜り物であると語った。

「『生きる指針』ってやつかい? 私には分かりかねる要素だね」

「――理解できないな。それじゃあ君が今ここに存在する意味も分からないし、意義もない」

「……私は、そうだな……強いて言うなら、死ぬために生きている。近道がしたいならすぐそこに沢山あるが、行こうとはしないだろう? それは我々一人ひとりが、それぞれ望む死の情景(ビジョン)があるから。生きること、すなわち(ゴール)するための遠回り、あるいは準備みたいなものだと思うよ」

 珍しく納得した様子のジーク。

「要するに、君の感覚でいうところの、『一般的な考え』で言うと、君の『生きる指針』は“死”である、と?」

 止まることを目的に進もうとするなんてあり得ない。まさにその矛盾が、ヨハンの中にあった。

「それも理解できない。どうして私以外の生物は、そうやって他人の意見を己の基準で話そうとするのかい? それでは真の理解はできない」

「“合理化”ってやつじゃないかな? 自分が納得するための逃げ道」

「クフフッ、愚かだね」

「まったくさ」

 二人がたどり着いたのは少し開けた空間。

 ヨハンが一歩前に出る

「目を閉じて」

 ジークに告げる。

 言われた通りに目を閉じたジーク。

 暫くして再びヨハンの声が聞こえた

「もういいよ。 ――ようこそ、『生命の書庫』へ」

 幾多の本棚が、不規則に動く不思議な空間。本棚に収められている書物は消えたり現れたりを繰り返しているが、同じものは一つとして存在しない。

 照明らしきものは一つも見当たらないが、暗さを感じなかった。

 これが『生命の書庫』七不思議の一つ。

「私はこの現象を、“命の灯火”と呼んでいる」

「――分かる気がするよ」

 ジークはひとりでに歩き始めた。

 なんの変哲もない本棚から取り出した本。表紙に被った埃を払った。

 ジークが知るよりも遥か太古の魔導文字。だが、ジークにはすぐに読むことができた。

「『ジーク…………』」

「命は惹かれ合う。所在を知らずとも、本体と『記憶の書』は互いの存在を察知する。美しいね……!」

 ヨハンはただ好奇心をむき出しに、期待の眼差しをジークに向けた。

 ジークは心奪われたようにその表紙に手をかけた。

 ページを捲る、既のところでジークは手を止めた。

「止めた。なんか恥ずかしくなってきた」

 ヨハンの表情は変わった。

「……打ち勝った…………」

「――何が?」

 気味悪そうにヨハンを見る。

「命の誘惑に勝った……!?」

「なにそれ?」

 元あった場所に本を戻しながら、ジークはヨハンに問いかけた。

「君はあと少しで死ぬところだった……! 良いかい、君が今手にした『記憶の書』には、君の記憶が記される。そして、それを読んだ記憶の持ち主本人は、何故だか発狂して自死するんだ」

 それを聞いたジークは一瞬固まった。が、すぐに我に帰り、納得したように呟いた。

「やっぱり僕の勘は冴えてるね」

「…………おいおい、もっと危機感を持ってくれ……」

「良いじゃんか。こうして生き延びたんだ」

「――フッ、それもそうだね」

 優しく微笑むヨハン。

 二人の笑い声が書庫に響き渡った。


………

……


「フワァァ…………」

 静寂な空間に欠伸が響く。

 ゴリゴリと床を引きずるような音が絶えず鳴り響く。

 それを見て、彼は呟いた。

「よくもまぁ、それで傷が付かないね」

 彼の名はヨハン。ただのヨハン。漆黒の頭髪と瞳を持つ魔人族の青年。

 彼が今居るのは、『生命の書庫』。そこは『記憶の書』と呼ばれる書物が幾多の本棚に収められている空間。書物一つひとつが世界中の生物の記憶であり、物語のようにその者の記憶が記される。

 この日、彼は実に暇であった。

 親友のジークは、種族王の会合とやらで里に不在。里長からも特に仕事は頼まれておらず、ただひたすら、書庫の管理人として一日中書庫にいるのだった。

 図書館でも無いここは、無論人など来ない。もはや欠伸を数えることが唯一の暇つぶしとなっている。そして今日何度目かの欠伸をまたひとつした。

 その時、ゴトン、と何かが落ちる音がした。

 音の方を見るヨハン。そこには書物が一冊、床に落ちていた。

「…………珍しいね」

 ただでさえヨハン以外誰もいない空間で、書物がひとりでに本棚から落ちるなんてありえない。

 まだ謎深い『生命の書庫』。故にこんなこともあり得るのだと、ヨハンは納得していた。

 重い腰を上げて、その書物を元あった場所に戻そうと、書物を完全に視界に捉えた。

「――は……?」

 彼は固まった。

 きゅっと心臓が縮んだような気がした。

「はっ、はっ、はっ……………」

 過呼吸になるヨハン。

 よろめきながら床に尻をつく。

 本棚にぶつかって、書物が雪崩のように落ちてくる。

「あ……あぁ、ぁ…………う、あ……あ、あぁぁ、ぐ、あ、あ……あ、」

 頭を抱えるヨハン。指先に力が籠っていき、ミシミシと頭蓋骨が鳴る。

「い、や……嫌だ…………嫌だ、いやだ、イやだ…………イヤダ!!」

 恐怖、憎悪、悲哀、憤怒、あらゆる負の感情で埋め尽くされた先に見えた一つの情景(ビジョン)、“死”。

 ――自我が、崩壊する。

「ぅ……うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」

 悲痛の叫びは誰の耳にも届かず、虚しく響き渡る。

 空気がビリビリと震え、徐々に重みを増していく。

「――ガァァァァァァァァァァ!!!!!」

 肺活量の限界を迎え、声量が薄まっていく。

 やがて完全に声が消えたと同時に、彼は仰向けに倒れた。

 そして空間は、(ひず)んだ。

「……………………ケヒッ」


………

……


 ――世界歴4870年、某日、未明。世界各地で同時多発的に死亡事故発生。

 ――多量の吐血、血涙、鼻血を垂れ流す、失血死と診断された。

 ――何らかの病気である可能性は極めて低く、また、遺体は全て、脳が跡形も無くなっていたという。


 朝刊で一面に載ったその報せは世界中を震撼させた。

 さらに同日の夕刊では、地面が大きく凹み、ぺしゃんこになった肉塊とともに、鮮血を被った一人の男の後ろ姿の写像が載り、赤くでかでかと文字が書かれていた。

『新たな禁忌指定。判別名は【最凶】か?』


 その二つの資料を手に、机にドン!と置かれた。

「ジーク、これはどういうことだ……!?」

 里長がジークに問い詰める。

 当のジークも、己の目を疑った。

「――分からない」

 震える声で答えるも、里長は鬼の形相でジークの胸ぐらを掴み上げた。

「しらばっくれるつもりか!! この人物、お前も私もよく知っているはずだ!! どう見たってヨハ――」

「知るかよ!! …………僕だって、信じたくない」

 里長の手はゆっくりと下がった。

「……何故アイツは堕ちた?」

「知らない」

「書庫が半壊していた。心当たりはあるか?」

「無いよ。僕は管理人じゃない」

 里長はジークに背を向けた。

 上を向き、ジークに言いつける。

「燃やせ」

「は?」

「ヨハンの、奴の『記憶の書』を燃やせ」

「っ…………」

「そして、“ヨハン”のことは二度と思い出すんじゃない」

「…………わかったよ」


 そしてジークは『生命の書庫』を訪れた。

 里長が言っていたのは本当だった。

 夕刊で見た景色と同じものが、目の前に広がっていた。

 床が大きく凹んでいる。

「ん…………?」

 本棚から落ていたらしい、一冊の本。

 その表紙に書かれた名前を見た。

「『ヨハン』……」

 その本を掲げ、左手は、パチンと指を鳴らし、指先に小さな火を発現させた。

 ゆっくりと近づけていく。

 揺らめく火を茫然と見つめる。しかし何を思ったか、火を消して、『ヨハン』を本棚に仕舞った。

 代わりに取り出したのはジーク自身の『記憶の書』。

 ジークはそれを自らの懐に【収納】し、『生命の書庫』を後にした。


◇◇◇


 魔人王ジークは『生命の書庫』にいた。

 彼の眼前には、書庫のカウンターに置かれた一冊の書物。

 その題は『ヨハン』。旧友の記憶が記されている本だ。

 それが黒ずみ、塵ひとつ残さず消えていく。

 史上最凶と名高い禁忌、【禁忌】の消滅を確認した。

「おかえり」

 母のような優しい声音。

「さようなら」

 世界で最も冷たい声音。

「おやすみ」

 漆黒よりも暗い声音。

 それらは書庫に、空虚に響いた。

ステータス

〈シリウス・ブラウ〉

・窮極魔法【氷】

・魔導領域【氷霧冥域(ニヴルヘイム)


〈ヨハン〉

・原初魔法【無】

・魔導領域【暗垣冥域(ヘルヘイム)


〈???〉

・No data

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