トイレの吉田さん
これは古い時代の話だ。
スマートフォンも携帯電話もなかった。粘液によって感染し免疫細胞を侵食する性病も蔓をのばしてなかった。調べものは基本的に図書館でしたし、それで不足なら有識者にコンタクトを取って問い合わせるかした。緊急の用事には電話帳を開く。
そういう収集作業が当たり前の、情報の巡り方がとてもゆっくりというか、物事と個人の距離が遠い時代の話だ。
その頃の僕は大学を卒業してから13年間勤めていた酒造メーカーを辞めて、友人の喫茶店を手伝っていた。
この友人は吉田さんといって、50歳を超えていたが髪がずいぶんと艶やかな女性だった。
10人が彼女を見たら8人は髪が綺麗だという感想を述べると僕は確信していたし、実際これから記述する事件が起きた時、大体の人は彼女のことを、髪が綺麗な女性だと評した。
閑話休題。
残りの2人は何を語るだろうか。小柄で、胸も顔ものっぺりとしている代わりに、極端な印象を与えない人、かな。多分こんな感じだと思う。
僕は10人中の2人の方で、喫茶店の常連客も、こちら側の人間だった。温かい微笑みとか、洗練されたサービスとか、意欲にあふれた瞳とかが苦手な人は、彼女と間違いなく相性が良い。
実際、接客サービスの職業的な緊張感に食傷気味の人たちが、彼女の店を愛した。
そんな彼女の名前は……なんだっけ。忘れてしまった。思い出そうとしても、記憶の空白が強調されるばかりだ。
中学校の歴史のテストで大化の改新の年号を訊く問題が出てきて、なくよウグイス平安京、794年の平安京遷都を思い出して、それ以外の年号が思い出せないくらい、今、僕の中で彼女の名前は吉田さんとなっている。これは今回記述する事件とは別の出来事の影響だろうし、こんないたずらをした犯人にも、心当たりがないわけではないが、とりあえず、今回とは別の話だ。
回転寿司でレーンを走ってくる新幹線と、回転しない寿司屋(もちろん、世の中の大体の寿司屋の建物は回転しない。しかし僕は寿司屋の建物が回転するところを見たことがある。でも、これもまた別の話だ)だから、便宜的に彼女のことを吉田さんと名付けたい。
もちろん、実際は違う。けれどそれは大きな問題ではない。僕が吉田さんと呼びたい女性がいた。
スマホもないような古い時代、新卒から13年間勤めた酒造メーカーを辞めて髪が綺麗な以外は何もかもがのっぺりとしている吉田さんの喫茶店を手伝いを始めたということが重要なのだ。
吉田さんは喫茶店で、本能寺の変で信長公と一緒に散った森蘭丸の一般的なイメージみたいに、綺麗な髪を結い上げていた。
その髪のきりりとした感じが素敵だった以外は、注文の取り方もコーヒーの淹れ方もぼやけていて精彩というものが全くなかった。それは残念なくらい。
接客時の発音は間延びしていて、しかも抑揚が平坦だった。
現代ならカーナビとか、SIRIの方がやる気のあるしゃべり方をする。
でも、これが吉田さんの素顔だった。そもそも素顔で接客をするという姿勢はどうなんだろう。
僕は疑問を抱いてしまうけれど、吉田さんなので、まあ、仕方がないかな、とも思う。
そう思わせてくれる魅力が吉田さんにあった気がしないでもない。
例えば、客が切れた時に、店内の清掃を指示するでもなく、退屈そうに雑誌を開いて、
「ほら。最近流行ってるよね。超能力」
などとのたまって、スプーンを取り出して柄をさする。
もちろん柄は曲がらない。でもその姿はどことなく好ましい。
何気ないやりとりに過不足を感じさせない。自然体。それが魅力といえば魅力だったのだろう。
ちなみに、スプーン曲げみたいなことがちゃんと、デタラメなしにできるのは、その筋の職業人でも、100人中2人しかいない。
でも、当時の僕はそんなことも知らなかったし、100人中0人だと思っていた。
が、何も言わず、カウンターの上に広げられた、週刊雑誌を閉じ、客用の木棚に運ぼうとする。
「あ~、待って~。まだサインしてないでしょ~」
のっぺりとした声で、僕は注意される。あきれている時の僕は、まあ、今もだけど、注意力が散漫だった。吉田さんのルーチンワークを邪魔してしまった。
一応、彼女は雑誌を読んでいるだけではない。内容が店にふさわしいかを厳然とチェックし、検閲通過のお墨付きとして、プレイボーイのウサギにへの字眉毛をつけたみたいな、ウサギのマークを描く。
ちなみに、このマークの由来はシルバニアファミリーのウサギである。実際、当時は喫茶店の客席やトイレの窓枠に、ハの字眉毛を落書きされたウサギたちが、色違いで並べられていた。
喫茶店の看板も、ウサギのマークだった。
でも、彼女はペットを飼ってはいない。昔は飼っていたそうだ。やっぱり悲しい別れがあったのだろうか。多くの人と同じように、彼女はそのことについて、多くを語ろうとはしない。
代わりに、業務的にかなりどうでも良いことを、吉田さんは語る。のんびりとした抑揚で語る。
実は喫茶店のウサギマークは由緒正しい、とか。インダス文明のモヘンジョダロの壁とか、古代エジプトのロゼッタストーン石板とか、中国は殷周時代の遺跡から出土する甲骨文にも似たようなマークがあるとか。じゃあ古代世界だけかと言えば、実は平安時代の鳥獣人物戯画にも、ハの字眉毛のウサギがいるとか。
僕はそんな話をされるたびに、はいはい、鳥獣人物戯画以外は与太話ですね、とやや冷たく返す。
で、吉田さんは、そんなことはないし、大学(驚くべきことに、彼女の学歴は高かった。しかも、かなりの難関だ。僕はこの事実に、ちょっと敗北感を覚える)の卒論でも書いたし、担当教授にも褒められたと、平坦な抑揚で力説する。
僕は適当に受け流し、喫茶店本来の業務に勤しむ。窓枠を徹底的に磨く。アラブの宮殿も恥じらう位に、店内のあらゆる物体をピカピカに磨く。それが当時の僕の使命だった。
と、まあこんな風に、僕と吉田さんの日常は過ぎていたのだが、ある日、事件が起きた。
何の前触れもなかった。
だからだろう。
あの日の出来事は、凪の海に前触れもなく押し寄せた大波のように、僕の脳に色濃く残っている。
5月の晴れた日だった。
喫茶店の店内に、午後の日がさしこんでいて、テーブルを四角く切り取るように照らしていた。
時折その四角を小さく横切る影があって、目をやると、窓の向こうの空をカラスが飛んでいた。
ちょうど客が途切れた時で、僕は布巾を片手に掃除を始め、吉田さんは開いていた雑誌の、
『世界の民話:富と名誉をもたらす扉妖精の伝説』
のページの右隅に、トレードマークを記入して、一度口をアルファベットのOの形にあくびをしてから、
無言でトイレに向かった。
彼女は静かにドアを開け、同じくらいに慎ましやかに、閉めた。
そして、出てこなかった。
30分。
1時間。
客が何人もきて、出ていった。
僕はさすがに不安になり、扉をたたく。
吉田さんの本名を呼ぶ。今は思い出せないけれど、とにかく危機感をもって呼んでいた。
初めは控えめに、徐々に、大きな声で。最後は叫んでいた。
よくないことが起きている。
髪がいくら綺麗でも、吉田さんは50歳だ。
脳梗塞などの言葉が頭にあおるように浮かんでは消える。
で、その日の僕は色々なことをしたし、これでもかってくらいトイレのドアを叩いた。
ドアノブごと壊してしまおうかと思い詰めて、いや違うと、救急隊を呼んだ。
結果……、専門的な人たちの手で開けられたトイレの空間に、吉田さんはいなかった。
窓枠に敷かれた花柄の布地の上に置かれたシルバニアファミリーの白とピンクのウサギたちはそのままだったし、奥の鉄格子はそのままだった。
騒動の前と同様に、曲がったでも折れてもいない。
何の異変も見受けられなかった。
つまり、この日を境に、吉田さんは本当に、加熱された液体が気化するみたいに、消えてしまった。
という訳で、この話は吉田さんが消えてしまってから、戻ってくるまでのいきさつを語ることを目的と
する。けれど、吉田さんを含めた色々な人に、まどろっこしいよね、君の話は、と言われるので、適度に省いていきたいが、正直あまり自信がない。なので、おおらかな気持ちで読み進めて頂けると、僕としては嬉しい。
でもまずは、吉田さんがトイレのドアの向こうに失踪してからのことを記述せねばならない。
というより、レポート100枚分の文章が一瞬で溢れるくらいの苦難に、僕は直面した。
だから心情的にも、ここを省くことはできない。
吉田さんの失踪の後……。
僕は警察の取り調べを受けた。
吉田さんの親しくない親類と会って、それから内縁の夫という人に疑われて脅されて拉致されて監禁されてでも何故か気に入られて、運が良いのか悪いのか、結局吉田さんが帰ってくるまで、僕が喫茶店を営むこととなった。
この、内縁の夫は、容姿も人格も大型の肉食獣みたいで、吠えかかる時は空気をびりびりさせるような迫力だし、眼光は鋭いし、顎は万力よりも強そうだけど、職業はコンビニエンスストアの店主だったりする。
そして、件の店は、喫茶店に隣接している。
彼がどのようにして吉田さんと親しくなったのかは、お隣さんということも関係しているのだろうな、と思うが、男女の仲についてあれこれ言うのはいささか品がないので、僕はやめておく。
当時の僕はそんなことよりも、喫茶店の運営が大変で、思考も気力もそちらにかかりっきりだった。
なんせお常連客は全員が吉田さん目当て。
酒造メーカーを13年で退職した男の接客なんて誰も望まない。僕だってごめんだ。
けれど、僕は一生懸命仕事をした。
そんな僕を哀れに思ったのか、常連客の3分の1は、顧客として残ってくれた。
さらにその4分の3は通りの向かいにドトールができても、こちらを愛用してくれた。
そんなこんなで3年が過ぎた、やっぱり5月の晴れた日の午後のことだ。
1人の客が来店した。
身なりは文房具メーカーの営業マン。のりのきいた感じのスーツに手入れのちゃんとされた鞄を脇に抱えている。
顧客との約束の前に、資料を確認する場所と時間が欲しい、という顔をしていた。
彼が椅子につき、僕は注文をうかがう。
アイスコーヒー。特に変わった客ではない。
注文もいたって普通だ。けれど、コーヒーを飲み干してから、僕に話しかけてきた彼の……。
会話の内容に、僕はとてもびっくりした。
「トイレがないのですね」
「はい。ご不便をおかしますが……」
「安心します」
「はい?」
3年前の事件以来、トイレは封鎖されている。
当時からの常連客はその事情を知っているし、用を足したい時は黙って隣のコンビニエンスストアに向かう。うちの喫茶店は客の出入りは自由だ。地方都市だからか、または地域特性か、あるいは時代か。
お金や場所のやり取りもゆっくりとしている。つまり、代金を払わずに逃げる客はめったにいない。
だから、僕も細かな説明は抜きに、身振り手振り、それと精一杯の申し訳なさをもって、隣のコンビニエンスストアを案内する。
恐るべきことに、吉田さんの内縁の夫である店主は、営業時間中はずっと、レジに立っている。
愛想はない。鬼瓦みたいな顔だ。怖い。
営業は朝の7時から23時までなので、毎日16時間そそり立つ仁王像を想像してもらえると、分かりやすいかもしれない。
で、喫茶店は11時から22時までなので、誰が行っても、声さえかければ、こころよく貸してくれる。
ということで僕は、鬼瓦のコンビニエンスを、紹介しようとした。
そんな僕をさえぎるように、セールスマンは、安心した。
潔癖症が重い強迫性神経症に進化してしまった女性が、糞尿と血液と臓物の飛び散った戦場に突然転移。紆余曲折を経て、現代に帰還。帰宅して、慣れ親しんだ手洗い場に立ち、まずは手を洗う。
その瞬間の女性みたいな表情を、彼はして、小さくため息をついた。
「本当に、安心しました。こちらのお店には、トイレがないんですね」
「はい」
肯く僕の前で、彼はハンカチを取り出した。額の汗を拭く指が長い。
冷房はきいているから、緊張の汗なのだろう。
「私はトイレが怖いんです」
子供みたいなことを言う人だな、と思った。
しかも、彼は僕の前で子供みたいな笑顔で笑ったものだから、身なりの印象が全部のぞかれる。
均整の取れた顔立ちというか、品の良さが伝わってきた。
トイレが怖い、品の良い子供。
「込み入った事情があるのですか?」
「ええ。とても。こちらのお店にも、何か特別なことがありそうですね」
うなずく彼に、僕はびっくりした。
あったようですね、ではなく、ありそうですね。
過去完了形ではなく、現在形。吉田さんは、進行形で、失踪していた。
僕は少し迷ってから、彼の目を覗き込んだ。
「込み入った話になります。よければ、日をあらためていらしていただけませんか。ドリンクは
サービスします」
彼は了承して、日時を言い、名刺を置いていった。
確認すると、名の知れた建設会社の営業だった。しかも、名の知れ方が良くない。
各地で住民とトラブルを起こしているし、週刊誌にも悪徳業者の代名詞、といった感じで定期的に名前があがる。
僕はちょっとため息をついた。
個々の近くにマンションでも建つのだろうか。
地上げ……がきても、隣のコンビニエンスストアの仁王像がいるから、大丈夫かな。
地上げ屋より、仁王像の方が絶対怖い。何年たっても、殺し屋の目をしてる。
などと、僕は考えたりした。
それから3日後。
指定された日に彼は来店した。
時刻は営業終了の1時間後。
身だしなみはコムサの白シャツにウエアハウスのデニム。
ずいぶんとカジュアルになっている。ウエアハウスは国産のデニムメーカーなので、こだわりがあるのだろうか。休日にショップを覗く彼を想像したちょうどその時、僕は唾をのんだ。
そして、表情を変えないように、注意を払うことにした。
彼の手の甲の皮膚が、ざっくりと赤く割れているのが、目に飛び込んできたからだ。
……やはり、各地の住民とトラブルを起こしている建設会社で働いていると、大変なのだろうか。
とても暴力的な人が、例えば隣のコンビニエンスストアの鬼瓦が激高して、刃物で切り付ける。
うん、想像が難しくない。実際みたことはないけれど、僕は彼に一度拉致されている。
つまり、この営業員も、極端な人間から極端な仕打ちを受けるのが常で、それが今夜だったのだろうか。
「お仕事の関係ですか?」
「いえ。トイレの関係です。今回はちょっと酷かったです」
包帯を彼の手に巻きながら、僕がきくと、彼は自嘲するように答えた。
僕は、鬼瓦がどういう刃傷沙汰を起こしても大丈夫なように、カウンターの奥に包帯とか緊急手当て用の一式を常備している。現在は除細動器も備えているが、幸運なことに使用した例はない。
これは僕の事情だ。
手の甲を切るのにも、人それぞれの事情がある。
でも……。
トイレで手の甲を切る?
金属製のロールカバーで?
しかも、今回、と彼は言った。
こんな事が毎回あるのか。トイレとはそこまで凶悪な空間なのだろうか。
……違う、とは言えない。
吉田さんは、トイレの空間の向こうに失踪した。
「どういうことですか?」
「とりあえず、アイスコーヒーをいただけますか。私は中々好きです。こちらのお店の味は」
要望に応える。
もちろん伝票は切らない。サービスと約束したからだ。
僕がグラスを置くと、彼は礼を言った。
それから、まだ落ち着かないから、先にそちらから話して欲しい、とお願いをしてきた。
綺麗に切れ上がった瞳が、切実な色をしていた。
僕は了承して、3年前の5月の出来事を、包み隠さず話した。
不思議なもので、あまり思い出したくない類の出来事なのに、僕の口は滑らかに語った。
吉田さんの艶やかな髪以外にも、窓の向こうの通りを歩く人種の変わり方とか、陽の弾け方とか、空とか、雑誌に記していたハの字眉毛のウサギのサインとか、あらゆることがくっきりと僕の中によみがえった。そしてそれらは思考のフィルターを介さず、そのまま舌を伝って声となる。
恐山のいたこさんたちはこんな感覚なんだろうか。
僕の話に、彼は真剣に耳を傾けた。
中でも、僕がトイレという単語を口にするたびに、彼の品の良い顔、その瞳の虹彩が、輪郭がくっきりとした。その瞬間、僕は意識や空間ごと、その瞳に吸い込まれるような、そんな錯覚を覚えた。
そうして僕は全てを話し、彼は全てを聞き終わった。
流れる沈黙がしばし、窓の外の夜を強調する。
営業マンは一言、空になったグラスの底を、ストローで2回たたいた。
「私の事情とは違いますね。でも、多分同じなのでしょう。本当に、多分、ですが」
それから、彼は彼の事情を語り始めた。
……営業マンの話によると、それが始まったのは、彼が7歳になってすぐのことだった。
場所は、小さな酒屋。コンビニエンスストアという業態が全国に広がる前、全国津々浦々にあったタイプの店で、食料品を主とする、日用の品々も販売していた。
こういう店の多分にもれず、照明は暗い。
棚の上の品はまばらで、音楽も流れていない。
時間を沈殿させたような店だ。
が、彼はこの店が好きだった。というより、彼の母親がこの店をひいきにしていた。
だから彼は彼女に連れられて、週に2回はその店を訪れていた。
接客をするのは店主。凶悪な毒蛙のような顔をしている女性だが、口を開くと出る声は甲高い。
母と気が合うのか、相好は簡単に崩れ、世間話に花が咲く。
といった感じで、その時間は、彼は自由に店内を歩くことができた。
ルールは多くない。店の品はさわってはいけない。欲しいものがあれば母を呼ぶ。騒がない。
この決まりさえ守れば、彼は自由に色々なものを見て回ることができたし、トイレも使えた。
そう。トイレも使えた。
だから、その日の前にも、彼は何回もそのトイレを使ったのだ。
洋式便所。使用の前はお声がけ下さいとの張り紙があったが、漢字が難しくて読めなかった。
でも、彼は使い方を知っていた。
手順。
ノックをして、金属製のドアノブに手をかける。
内側に引く。
足を踏み入れる。
鍵をかける。
便座の蓋をあげる。
しかるべき部位を露出させ、洋式の便座にのぼるように尻をつける(小柄だった彼には緊張の瞬間だった)。
用をたす。
下りて、尻を拭く。
その日、彼は1つのこと以外は、それまでと同じように完璧にこなした。
1つのこと。鍵をかけること。
7歳だった彼は、それを忘れた。
そしてその後の長い人生で、ずっと後悔することになる。
「開いたんです。ドアが。
金髪の人が立っていました。巨大でした。
目が合いました。トイレに入って、鍵をかけてなくて、誰かが入ってきたら、目を見るんです。
7歳だった僕も見ました。
水色がかった緑色の目でした。その色に、私は図鑑で見た宝石を思い出しました。
目は、金色の長いまつ毛に縁取られていました。
すぐ上に髪がかかっていたので、眉は隠れていました。
つばの広い帽子をかぶっていて、よれた感じの白のブラウスをきていました。
ブラウスには緑色の石がついていました。
ブローチですね。隣のあたりが物凄く開いていて、暴力的な隆起をしている物体が2つありました。
私の心臓は圧迫を感じました。
母親の胸は、もっとささやかだったもので、僕の心臓を圧迫するそれらを、乳房に関連づけることができませんでした。
本当に、大きすぎたのです。
けれどスカートがカーネーシンを逆さにしたみたいに膨らんでいたので、巨人は女性だと分かりました。2つの物体は胸で、鍵をかけていなかったから彼女が入ってきた。
そこまではちゃんと分かりました。
でも、ありえるのはそこまでです。
現実という枠組みが、いくらちょっと変わった様子を見せても、物事には限度というものがあります。
……。
ははは。ああ、すいません。営業先から言われる言葉が、出てしまいました。
建設業ですからね。交渉先から、限度があるだろうって、よく怒られるんですよ。
日がささなくなる。大きなスーパーが建つと商店街が潰れる。まあ、そんなところです。
話を戻しますね。女性が入ってきた。外人だった。そこまでは普通でした。
でも、違ったのです。彼女の帽子もスカートもブラウスも、黒いすすをかぶっていました。
そして、巨人のような輪郭の後ろから、煙と赤い光が狂ったみたいにうねり踊りながら押し寄せてきました。嗅いだことのない臭いが鼻をついて、目の前が黒くふさがれました。きいた事のない動物の声が悲鳴みたいに高く響きました。
7歳だった私は、まったく動けませんでした。
女性はそんなわたしを、何か信じられないものでも見るみたいにじっと見てから、きいたことのない言葉で何かを震えた声で言いました。
言いながら、私を抱え上げようとしました。
が、私は叫んで、両手で女性の手を押しのけました。
引っ掻いて、めちゃくちゃに暴れました。
連れ去られる、という恐怖は言葉にできません。
拍子に、緑色の石がトイレの床に落ちました。
女性はそんな私にあきらめたのか、きー、い、と言って、石を私の手に握らせて、炎と煙の方に引き返しました。そうして、静かにドアを閉めました。
Keep it
ですかね。もってて、と言いたかったんでしょう。
7歳の私も分かりました。ええと。石を握らせた手に、柔らかく、温かくこめられた力から。
女性のほほ笑みと、混乱の中でも、精一杯、彼女自身であろうとする瞳に浮かんだ優しさと、強い想いから。理屈や意志、思考を超えた理解というものが、世の中にはあるものですね。
そうして、女性が消えてからすぐ、私の気は遠くなりました。
気が付くと、煙の臭いは消えて、でも服はすすだらけで、ドアが重い音で叩かれていました。
その向こうから、母が私の名前を叫ぶ声が、動物の悲鳴みたいに響いていました」
ここまで語って、営業マンは真一文字に口を結んだ。
次の一言を出すのに、物凄い労力を必要とするような、そんな結び方だった。
僕は待ち、彼はもう一度、グラスの底をストローで叩いた。今度は1回。
それからようやく口を開いて、ちょっとぼう然とした顔をしてから、
「……それが、最初でした」
と言った。
「最初、ですか」
「はい。最初、です」
重いうなづき方だった。
医師が遺伝病の子供が抱える宿命を両親に伝える時には、もう少し気をつかった応対をすると思う。
彼も説得先にはもっと感情のこもらない表情を作るのだろう。
でも、それは彼の宿命だったし、事情だった。
最初。最も初め。つまり、続きがある。
「そんなことが何度もあったのですか」
「はい。現れる人間は様々です。言語も人種も性別もとしかっこうもばらばらです。傷を負った鎧武者が、源氏物語みたいな言葉使いですごんできたりします。神父のような衣装の老人が若い女性の死体を抱えている時もあります。顔の半分を血で赤くしたすっぱだかの黒人が目をひんむいて、それがとても純粋な様子で、私は心を奪われたりします。
1年に1回、彼らが現れる時もあれば、1週間に3回来る時もあります。
ですから、出くわすのは完全にランダムと言えます。ですが、場所は決まってトイレです」
「しかも、ドアの向こうは修羅場」
「はい。修羅場です」
彼は頷いたが、僕の視線は焦点をうしなった。
これはとても失礼だし、喫茶店の店主としてあるまじきことだ。
が、僕はその時、彼を見ていなかった。
意識は記憶を掘り返していた。
吉田さんは……。吉田さんも。
「違うけれど、同じというのは」
「はい。消えてしまった方も、鍵をかけ忘れたのだと思います。そして……」
言いかけて、彼は黙った。
僕が強い力を込めて、彼を見たからだと思う。
「何とかできませんか」
「無理です。私は怯えることしかできません。彼女は、外に連れ出されてしまったのでしょう」
沈黙が続いた。
壁掛け時計が嫌に無機質な音を刻む。
彼は時計を見上げた。
「午前を回りましたね」
「はい。閉店時間は過ぎていますが、気にしません。夜はさびれますからね。通りも。隣のコンビニだって、24時間ではないですし」
「そうですか。でも、そろそろおいとまします」
立ち上がる彼を、外まで見送る。夜風が湿っていた。
「そういえば」
「はい?」
振り返った彼に、僕は首をかしげた。
「これを受け取ってください。私の話の、証拠のようなものです」
穏やかな、でもうむを言わせない口調で彼が握らせてきたのは、緑色のブローチだった。
造形が無骨で、洗練されていない印象がある。
夜だから暗い緑だが、陽にかざせばきらめくのかもしれない。
「最初の、ですか」
「はい。最初の女性、です。思えば、綺麗な人でした。グラマーでしたし。女優でいうなら、最近の映画の……」
彼は世界を席巻した映画のヒロインの親友役を述べた。
確かに暴力的な乳房をしている、と僕は思った。
感じの良い微笑みを浮かべて、少し照れたように会釈をする彼。
女性なら、少なからずの好感を抱くのだろうな、と思った。
不意に、尋ねるべき疑問が浮かんだので、僕は去ろうとする彼を呼び止める。
「あの、ですね」
「はい?」
「のっぺりとした女性があらわれたことはありませんか? 髪が艶やかな、日本人女性が」
営業マンは僕から喫茶店の窓の1つに視線をずらした。
僕もつられる。
暖色が満ちた店内を、シルバニアファミリーのウサギたちが眺めている。
彼らは何年間もずっと、寄り添うように窓枠に座って、店内を見守っている。
人形たちを買ってきたのも、窓枠に配置したのも、吉田さんだ。
僕はなるべく、その位置を変えないように、日々の営業に勤しんできた。そうしながら、彼女の帰りを待ち続けてきた。
「現代の女性とは、トイレでお会いしたことはありません。残念ながら」
視線を僕に戻して、申し訳なさそうに彼は言った。
僕は、そうですか、と呟く。
繰り返すが、これは昔の話だ。
スマートフォンもインターネットもなかった時代だ。
でも、僕は誠実な(少なくともそういう印象を彼は僕に与えたし、それは彼の職業的な資質が関係していると思う)営業マンからエメラルドのブローチを入手した。
このブローチが結局、とても色々なものをつなげたのだった。
ここから先はそんなに複雑な話ではない。でも、複雑ではないということと、簡単は違う。
単純な正解ほど、たどり着くのにとても難しいのだ。
コロンブスの卵を発見できる人間は、そんなにたくさんはいない。
で、僕は凡庸な大多数だ。
でも、凡庸な思考力でも、僕は最大限に活用したいと想った。
だから、営業マンの訪問の後は、寝るときも起きる時も、もちろん仕事中も、ひたすら考え続けた。
考え過ぎて、アイスコーヒーと注文した客にホットコーヒーを出してしまったりした。
常連客で良かったと思う。
あやまりつつ、視線は手元のブローチに落ちる。そして開かずのトイレに視線は泳ぐ。
そうだ。吉田さんはあのトイレの先のどこかにいってしまったのだ。
炎の修羅場を今も逃げまどっているのか。こことは違う場所で、もう死んでしまったのか。
元素から年代を特定するという施設に、ブローチを出すことも考えられた。
が、それでは、不可視の細い糸のようなものが、切れてしまう気がした。
そもそも、そんな施設が僕のたわごとを聞いてくれるはずもない。僕は文学部の出身だし、そもそも大学のレベルだって中程度。公立のこじんまりした大学で、そもそも工学部も小さかった。
つまり、大学のつてもたどれない。
だから、僕は思考を始めから繰り返す。
情報を最初から確認。
始まりは……7歳の彼だ。
彼が初めに、鍵をかけ忘れた。そして、映画女優に似た女性に、ブローチを託された。
そんな風に考えに考えた2週間後。僕は長く商いをしているという古物商に連絡を取って、ブローチの鑑定を依頼した。帰ってきた答えは、これはやっぱりエメラルドとのことだった。
装飾のつくりが特徴的で、19世紀の中期に流行ったものらしい。
19世紀。1800年代。日本なら江戸、アメリカなら南北戦争。僕はその足で図書館に行く。
喫茶店はしばらく休業。大丈夫。大して客はこない。
というよりも、もし、吉田さんが戻ってきたら、絶対客は増える!!!!
そのための、投資だと意気込む僕に、スマートフォンさえあれば、物事は簡単だったのに、と今なら思う。
図書館の資料は残念ながら貸し出されていた。僕はとてもあせった。
しかもむきになって、その足で駅に向かって翌日の東京行きの切符を買った。
目的は国会図書館での資料閲覧。
とどこおりなく、興奮と意気込みと共に到着して、入館。
ブローチに関する、ありとあらゆることを調べ、そして……。
ブローチの主が、分かった。ちゃんと、映像がモノクロの形で残っていた。
風と共に去りぬを地でいったような、女性。
彼女は暴力的な胸の女優の祖先だった。南北戦争を家と大農場と夫を失ったが、生き延びはした。
そして、風と共に去りぬの主人公と違って、次の夫と9人の子供をこさえた。
次の夫は貿易商で、前の夫は大農場の長男だった。
写真も残っている。顎が割れた黒髪の大男だ。もみあげがながい。
兵士として徴用された先でも勇敢に戦ったのだろう。
彼は兵士として戦場に赴く前に、彼女にブローチを贈った。
「きー、い」
資料に視線を落としながら、僕は発音する。
KEEP IT
持っていて。
炎の中で、彼女はブローチだけは守りたかった。
願いと共に時空はつながり、彼女はブローチを7歳の子供に預けた。
それが始まりで、原因ではないのか?
彼女がそこを開けた。そして、そこは開くようになった。
持っていて。
意志は7歳の男の子に伝わった。
ブローチは『預けられたもの』だと彼はちゃんと認識した。
そう。本来、仮託されたものは、所有者に戻されるべきなのだ。
つまり、扉を開いたのは金髪の彼女だった。
そして、取りに来るために、彼女はドアを開こうとする。
でも、つながらない。
どこの扉を開いても、それは物理的に連結された先しか示さない。でも、多分彼女は開いていたのだ。
どこかの扉を。どこかの扉に向けて。
20世紀のトイレという空間は、19世紀の人間には異世界のそれに見える。
だから、彼女の目には鮮明に映った。彼女はドアを開くたびに強く願った。
どこかで、ドアとドアはつながる。
ただし、彼と彼女のドアではない。無関係な人の、時間も場所も全然違う同士のドアが、無秩序につながる。
おそらく、トイレという条件で、吉田さんのドアがどこかにつながってしまった。
なら、どうするか?
叶えてあげれば良いのだ。託されていたブローチを、本来の所有者に返す。
そうすれば、多分ランダムに、時間も空間もめちゃくちゃにつながり続けるという現象が止むかもしれない。吉田さんもトイレの向こうから帰ってこれるかもしれない。
そこまで考えて、僕は絶望的な事実に気が付く。
彼女は100年以上前に、死んでいる。
ブローチは返しようがないし、扉のつながりを、誰も阻止することはできないのだ。
落胆と共に僕は国会図書館をあとにした。
それから2週間。脱色されたような日々が続き、僕自身も虚脱していたのだが……。
鬼瓦が突然、来店した。
滅多にないことだ。僕は当然、恐れおののいた。
「いらっしゃいませ」
「おい」
「はい」
「何だお前。苦情が俺に来てるぞ」
「はい?」
「お前が燃え尽きてるから、お化けが淹れてる店でコーヒーでも飲んでるみたいだ。あんた何かしたんだろうって、言いがかりがお前の客からくる。俺の客からもだ」
……それは普段の行いとか愛想の良さとか平たく言うと人望に由来するんじゃないか、と思ったが、もちろん僕は言わなかった。危険だからだ。
でも店主として、ポーカーフェイスは保つ。威厳は営業に不可欠だからだ。少なくとも僕の場合は。
「そうですか」
「そうだ。だから何とかしろ」
睨んでくる鬼瓦。絶対に素人のそれではない。
コンビニエンスストアの制服が、これほど似合わない人物もいない。
でも、当たり前だけど、制服ののりはきいているし、身だしなみにも清潔感を……。
「あれ?」
「何だ?」
「しみ、ですか。ネームプレートの下。何かにじんでますよ。ええと……何ですか。これ」
「……俺の話を聞いていないのか」
「いいえ。でも、何ですか。これ。滲んでる。多分、洗濯とかで滲んだんですよね?」
「話したくはない。恥ずかしいし、悲しくなる」
思春期の男の子が秘密の本の所在を家族に暴かれた時、こういう顔をするのだろう。
僕はそんな鬼瓦に、なるほど、と思った。
多分、吉田さんに関する想いでが関係している。
大方、制服にトレードマークのウサギを落書きされたのだろう。
経営一緒にしようね~、いつかはさあ~、とか何とか、抑揚のない口調で、遠回しに、いつかは一緒になろうね、とか言われて、鬼瓦は照れたのだ。で、結局落書きはそのままにした。
洗濯で滲んでしまったが、ネームプレートで隠せば問題ない。実際、僕は何年間もその存在に気が付かなかった。
……何かが。
そう。何かにたどり着きそうな気がする。
というより、僕はとても大切なことを、思いっきり勘違いしている。
……。
「ああ!!! そうか!!!!」
僕は叫んだ。
鬼瓦はびくっとのけ反った。ネームプレートが揺れた。
この後、僕は鬼瓦にアイスコーヒーをサービスし、笑顔で、しばらく店を閉めます、と言った。
不思議な顔をしつつも、鬼瓦はゆるく固めた拳で僕の頬を殴り、勝手にしろ、だが半端はするんじゃねえぞ、とドスをきかせた。
半端などする気は毛頭ない。
だって、吉田さんの帰還がかかっているのだ。
僕は、すっかり見逃していた。吉田さんはウサギのマークを落書きするのが好きだ。
雑誌に描けばそれは記入されたシンボルとなるが、他のものに描くと、それはただの落書きだ。
窓枠に歩く。ウサギの人形たちがギンガムチェックのクロスの上に鎮座している。
掃除の時にはクロスをどける。
いつも。
いつも、目に入っていたはずなのに。気が付かなかった。
吉田さんは、店内のあらゆるクロスに、ウサギのマークを記入、もとい落書きしていた。
つまり、のっぺりとした声と顔の彼女は、実は情熱にあふれていたのだ。
ウサギのマークを落書きしたい。
どういう心理か分からない。単純に可愛いから、かもしれない。または人格的なかげりが投影されているのか。でも、それはこの場合関係ない。
大事なのは、彼女が落書きするのが好きだ、という一点だ。
そして、僕は思い出す。吉田さんとの日々を。数々の記憶の断片を。
退屈そうに雑誌を開く吉田さん。耳に残るのっぺりとした発音。
「ほら。最近流行ってるよね。超能力」
超能力。時空をつなげるのは、超能力だ。言語を超越して意志を伝えるのも、その一例になるのかもしれない。
「あ~、待って~。まだサインしてないでしょ~」
のっぺりとした声。サイン。
そう。僕にとっては落書きでも、彼女にとってはサインだった。サインと落書きの違いは?
意味があるか。ないか。
僕にとって、当時の彼女の言動はかなりどうでも良かった。でも、吉田さんは、大切なことしか話さなかったのだ。
喫茶店のウサギマークは由緒正しい。由緒。歴史の重なり。
インダス文明のモヘンジョダロの壁。
古代エジプトのロゼッタストーン石板。
中国は殷周時代の遺跡から出土する甲骨文。
全てにマークがある。
一番分かりやすいのは、平安時代の鳥獣人物戯画。ハの字眉毛のウサギ。
つまりはうちの店のトレードマークが、あらゆる時代に存在しているのだ。
誰がそんな落書きをしたか?
もちろん、吉田さんだ。
この確信に僕は笑ってしまう。
彼女は卒業した大学で、マークをテーマに卒論を書いた。時空を超えた、壮大な自作自演だ。
僕はとても嬉しくなった。
トイレがつながるのはもれなく修羅場。だから彼女は修羅場を惑っている。
そう思っていたけれど、実は違ったらしい。
彼女は過去の遺跡に、出土品に、記録を残し続けている。
インダス文明のモヘンジョダロの壁に青銅の道具で絵を刻み。
古代エジプトのロゼッタストーン石板にいたずらをし。
中国は殷周時代の遺跡から出土する甲骨文の土器には紋様を入れて焼いた。
多分、平安時代の鳥獣人物戯画の作者は吉田さんなのだろう。
彼女は、あの日、トイレの扉の外に出た。
外は修羅場で、彼女は容易に戻ることができず、そして空間は切り離された。
では、吉田さんはどこを使って移動をする?
……思い出すのは、あの日の吉田さんが開いていた雑誌のページ。記事のタイトル。
『世界の民話:富と名誉をもたらす扉妖精の伝説』
僕は笑った。
「扉妖精、か」
一人呟く。この姿を吉田さんが見たら、ん~? と不思議そうに首を傾げるだろう。
でも、分かりやすい。
吉田さんは、扉を使って移動をしたのだ。営業マンの彼がつながるのはトイレ。
でも、トイレというのは、少なくとも個室型が普及したのは、人類史的には最近の話だ。
けれど、扉はどの時代にもある。だから、彼女が開くたびに、それはつながる。
スプーンを曲げようとする吉田さん。あの人は一度も成功したことはなかった。
そんなことができる人間は、皆無なはず。でも……もしかしたら、100人中2人くらいはいるのかもしれない。時空をつなげるアメリカ人女性がいるのだ。
南北戦争の未亡人は、ドアを開くたびに、願い、果たされず、能力だけが暴走して、時空をつなげる。
なら、吉田さんだってできたのかもしれない。少なくとも、彼女はインドやエジプトや中国を移動している。平安時代だけど、日本にだって帰ってきているのだ。
でも、それなら何故、ここに帰ってこない?
鬼瓦が嫌だったとか?
もっと違う理由があるのか?
などと考えながら、僕はNTTに電話をした。番号をきくためだ。
係の女性がして、目的の大学の番号を教えてくれる。
吉田さんの出身大学。学部の卒論担当教授に連絡を取りたい。
彼女が書いた卒論を、僕は読む必要がある。
吉田さんは時間旅行者になっているとするならば、行き先は、卒論に書かれた順番となる。
扉妖精の民話も併記されていたら、手間がはぶけるのだが。
……と、思いながら、僕は担当教授にコンタクトを取ろうとした。が、退官されていた。
でも幸いなことに連絡は取れた。電話の向こうの彼に吉田さんの本名を告げると、一瞬考えるような沈黙があった。あらゆる印象が薄い女性ですが、髪はとにかく綺麗です、と伝えると、ああ、あの子か、と彼は言った。
「ユングの共通無意識と民話を絡めた卒論を出した子ですね。原本を預かっていますよ。懐かしいです。おっとりとした学生でしたが、卒論には情熱が燃えていました」
結論を記述すると、僕は元教授の家を訪ねたし、卒論も読ませてもらえた。
幸運なことに、扉妖精のエピソードものっていた。
髪が夜の神の祝福を受けた、凹凸のない顔の小柄な妖精。知恵と富と名誉をもたらす。
木炭を希望し、あらゆる場所に狐の絵を描く。
……吉田さんは、狐はウサギではないかと推論していた。キリスト教的な価値観から、童話で悪者となりやすい、狐に変えられたのではないかと。つまり、インドやエジプトや中国のように、妖精が描いたのはウサギではなかったのか、と。
この論文に、担当教授は優をつけた。僕も花丸をあげたい。それも二重で大きく。
にしても、扉妖精か。吉田さんは妖精というよりも、妖怪だろうなあ、と思ったりしながら、帰途につく。
足跡は分かった。でも、ではそこから先は?
元気そうだ。のっぺりおっとりと現地民と楽しくやっている。
でも、帰ってこない。または、これない。また、手詰まりだ。
と思いながら、駅につき、電車を待っていた時だ。
腹痛を覚えた。トイレに向かう。
大用の個室は1つしかなかった。塗装の剥げた板の向こうで、息遣いがきこえる。
僕は困って、結局駅を出て、隣のコンビニエンスストアで用を足して、手を洗い、
「ああ!!」
と叫んだ。
後から入ってきた人が、びっくりして僕を見た。
単純な事実に、僕は気付かなかった。
トイレは、先に人が入ってたら、使うことができない。
吉田さんの時空が、喫茶店のトイレを求めていても、トイレという概念を誰かが使用していたら?
つながらない。では、誰が使用するのか。
1人しかいない。営業マンの彼。
あの夜、店を出てから、彼は店内をかえりみた。窓枠にはウサギが座っていた。
そして、印象は強く残った。ウサギ。トイレ。
つまり……。
原因は彼か? 吉田さんが能力を持っているのなら、彼にそれができてもおかしくはないのだ。
しかも、営業マンは望んでいる。彼は、南北戦争の女性にブローチを返したい。
だから能力が発動する。そしてうちの喫茶店のトイレは占有されるのだ。
結局のところ吉田さんの帰還をはばんでいるのは、7歳のころの彼の想いなのだろう。
そして、故人に物を返すことはできない。せいぜいが墓に捧げるとか。
僕は困り果て、喫茶店に戻り、翌日からの営業再開を準備するべく、週刊雑誌の整理をしている時に、瞠目した。
表紙のあおり文句に
「ポルターガイストはサイコキネシス!!」
と書かれている。震える指が頁をめくる。
内容は色々ふざけているが、要約すると、虐待された子供が無意識的に超能力を発現して、大人を戦慄させるらしい。
やっぱり、まさしく彼ではないか。そう、彼なのだ。正確には7歳の彼。おそらく、南北戦争の火や煙や、動物(馬)のわななきはトラウマだった。だから、彼は彼女の表情によって、ブローチを返すことを、強迫観念的に植え付けられた……とするならば。
そしてその想いが営業マンとなった今でも発動し続けているのならば。
「あれ? てことは」
時間がループしている。吉田さんのトイレが別時空につながった原因が分かった。
僕とトイレの話をした彼に、強い印象が生じて……。
7歳の彼が喫茶店とどこかを、つなげてしまったのだ。
何だこの皮肉は。でも、それなら、すべきことは明らかだ。
ようやく、僕は正解にたどり着いたのだった。
営業マンが吉田さんを別時空に飛ばした。そして、彼の能力が吉田さんの帰還をはばんでいる。
つまり、彼の、正確には彼の中の7歳の気をはらしてあげれば良いのだ。
その日のうちに、僕は南北戦争の女性の子孫あてに、手紙を送った。
返事がなこかったので、翌月、ブローチの写真もそえて、同じ内容の手紙を送った。
とても奇妙なことですが、貴女の家の歴史的なブローチは、こちらにあります。
預かった本人は、本人に直接返すことを希望しています。願わくば……。
以 降。延々と、煩雑なやり取りが続き、1年もかかり、僕の英語はとても達者になった。
でもヒアリングもスピーキングもてんで駄目。だから筆談能力を頼りに、僕と営業マンの彼は渡米した。子孫の女優に面会するためだ。
そうしてようやく、僕らは、女優に会った。
場所は彼女の自宅で、僕も営業マンも緊張していた。
そこで僕はポーカーフェイスを作り、営業マンは微笑みを作った。
女優は僕と彼を見比べて、貴方は顔が怖いわね、でも貴方は笑顔が魅力的。手紙を忍耐強くくれたのは貴方でしょう?
と首を傾げながら、営業マンに笑いかけた。
世界中の薔薇を吸引しそうな、とにかく魅力的な笑顔だった。
僕はちょっとだけ不本意に思いつつも、成功を確信する。女優の美貌が先祖由来だからだ。
それから、トイレの空間を拝借して、営業マンの彼にこもってもらう。
事前の打ち合わせ通り、女優には、彼の記憶とほぼそっくりのかっこうをしてもらった。
南北戦争当時のご婦人がドレスルームの向こうから出現し、僕は胸が暴力的過ぎて、目のやり場に困った。
そんな僕を彼女は須通りする。
その優雅な長い手はトイレのドアを開く。
そして、トイレの奥の彼からブローチは、彼女に返却された。
帰国後。
僕は虚脱感を覚えていた。成田で別れた彼はつきものが落ちたみたいで、いや、実際に落ちたのだろう。はつらつとしていた。
断言する。もう、扉は開かない。
しまも彼の営業成績はうなぎのぼりで雲を超えるだろう。
でも、僕が解決の鍵となったのは、彼の問題だけだ。
吉田さんがいつ帰ってくるのか。そもそも帰ってこれるのか。
何の保証もない。いや、いつかは帰ってこれるだろう。
でもそれは100年後かもしれない。
まったく、全てが現実離れしているし、夢みたいだ。
ドルを円に換えて、気だるく通帳を確認。
女優から振り込まれた謝礼金が0をひたすら羅列している。現実感がさらに吹き飛んでいく。
こめかみに鈍い痛みを抱えながら、帰宅して、眠る。
翌日。ジェットラグ。なんだっけ。時差ぼけ? とにかくだるい肉体をひきずって、僕は店の鍵を開けた。
「た~す~け~て~」
ドンドンと叩く音。開かずのトイレの向こうから、吉田さんの声がした。
顔面と同じく、のっぺりとしているが、元気そうな声だった。