後編
ひとまず1時間分だけ取って、2人用の少し小さな部屋に入って飲み物を注文する。
茜はそこで、自分の半生と共に、生きがいと呼べる物がない、という悩み事について由希に打ち明ける。
「――とまあ、そんな、訳なんです……」
すいません由希さん、なんか自慢みたいで……、と、話し終えた茜は、少し申し訳なさげにそう続けた。
「いえいえ。どんな人にだって悩みはありますよ。それに茜さんの経歴は誇るべき物です」
茜の背中を優しく撫でながら、由希は朗らかな表情で、建前は一切無しにそう言った。
「しかし、生きがいがない、ですか……」
なかなか難しい悩みですねえ……、と、腕組みしながら由希は頭を捻る。
「あっ、そうだ。何か茜さんが好きなものってあります?」
「家に帰ってゆっくり寝る」
「そ、それは私も大好きです……」
「でもそれじゃ今と変わらないんですよね……」
基本家は寝に帰るだけなんで、と言って、茜はどんよりとため息を吐く。
「他には何か?」
「他……、他……。……他?」
頑張って捻り出そうとするが、全く出ては来なかった。
「食べる系とかどうですか? 休日に商店街でスイーツの食べ歩きとか」
「いえ、単純に時間が取れないですし、基本カロリー〇イトしか食べないので……」
「運動はどうです? 通勤のときとか休憩時間でも出来ますし」
「してる時間が無いですし、あんまり好きじゃなくて……」
「ゲームとかはどうです? 隙間の時間にとか」
「時間に隙間がないんですよね……」
「うーん……。読書とか? 漫画を含めて」
「あんまり、興味が……」
「……。音楽は……」
「聴かないです……」
「……」
「……。すいません……」
思いつく限りを言ってはみた由希だが、どれも見事に当たらず、ついに何も思い浮かばなくなった。
「……じゃあその、茜さんが子どもの頃好きだったのは何ですか?」
現在がダメなら過去、という風に由希は作戦を変えてみた。
「なんかあったっけ……?」
幼少期に何をしていたか、に関して、茜は記憶の底を全力で探る。
「あっ!」
1つだけ思い当たることがあって、はっ、と茜は目を見開いて声を上げた。
「ありましたかっ!?」
「幼稚園で兎の世話を好きでやってました」
「おおっ! じゃあペットを飼えば生きがいになるんじゃ!」
「でも、家のマンションペット禁止で……」
「あー……」
答えが見つかった、と思って前のめりで歓喜しかけた由希は、それを聞いて座面へうつ伏せにパッタリと倒れた。
「私には、趣味なんてそもそも出来ないのかも知れません……」
「いやいやいや! そんな事は無いですって! なんなら私も一緒に探しますから!」
再び涙がこぼれ落ち始め、ネガティブ全開になった茜を、由希は投げ出さずに一生懸命励ます。
「なんでそんなに良い人なんですかああああっ……」
「困ったときはお互い様、ですから」
「由希ざんッ!」
面識がほぼないのに面倒くさい自分を見捨てない、心優しい彼女に心打たれ、ありがとうございますうううう、と茜は由希をひしと抱きしめて号泣する。
「……ところで茜さん、お酒飲まれました?」
赤ら顔になっている茜の身体が妙に熱いので、由希は少し落ち着きを取り戻した彼女にそう訊く。
「いえ……。お酒飲めないんで……」
「じゃあなんか、寒気みたいなもの感じませんでした?」
「そういえば、仕事中にしたような……」
「近くに風邪の人は?」
「昨日営業で来た方が、咳を……」
それだけ言うと、茜はくたっと由希に寄りかかって、ゼーゼーと苦しそうに呼吸する。
「あっ、茜さん!?」
大丈夫ですか! と軽く揺らすと、大丈夫、です、ととても大丈夫じゃなさそうな声を出した。
「とりあえず病院行きましょう!」
「じゃあタクシーに乗せてください……。あとは自分でなんとかしますから……」
「嫌です。病人をほっとける訳ないじゃないですか。……立てますか?」
なんとか立ち上がりはしたが、茜はすぐに元の場所に戻った。
「これじゃ何とか出来ませんよね? ほら、行きましょう」
「うん……」
タクシーを呼んだ由希は、そんな茜に自分の肩を貸して部屋を出た。
自分の電子マネーで部屋料金を払って店舗から出ると、ちょうど呼んだタクシーが近くの路肩に停まっていた。
「やあお嬢さん方。救急病院へ行けば良いかな?」
それに乗り込むと、妙齢の女性運転手は気を利かせてそう訊いてきた。
お願いします、と由希が言うと、運転手は、あいよ、と威勢の良い返事をして発進した。
幸い、茜の熱は単なる風邪で、飲み薬を処方されて帰された。
またしても気を利かせて待っていた、さっきの運転手のタクシーで茜の家へと向かった。
茜の指示に従って、由希は彼女の部屋である、6階にある南向きの角部屋の前にやって来た。
「私、中に入っても良いですか。茜さん」
「ベッド、連れてって……」
「わかりました」
由希の質問に首をゆるゆると縦に振った茜は、鞄をまさぐって鍵を探しながらそう言った。
少し手間取りながらもやっと鍵を見つけた茜は、上手く鍵穴にさせないので由希に鍵を渡して開けて貰った。
「ええっと、どちらが寝室ですか?」
「左……」
由希の示した方のドアを開けると、そこは生活感がまるでない様に見える洗面所だった。
「こっち、違いますね……」
「じゃあ逆……」
そのドアを閉めて、逆方向にあるドアを開けると、今度は間違いなく寝室だった。
こちらもベッドの上以外は、洗面所と同じ状態になっていた。
由希は少し驚いた様子を見せつつ、1人用にしては大きいダブルベッドに寝かせた。
「どなたか家族の方に連絡とれますか」
「取れる……。でも遠くて……。多分、来て、もらえない……」
茜の実家はかなり遠くの少し山深い所にあり、このマンションまで来るのには、最短でも半日はかかる。
「そんな事は無いと思いますよ。話すのが辛いようなら、私がお電話――」
「やだ……。迷惑、かけたくない……」
代理で電話する事を申し出た由希に、茜はやや強い口調でそう言って嫌がった。
「いやいや。ご両親はそうは思われないと思いますよ」
「でも……、風邪くらいで……、呼んじゃ……、ダメな子に、なっちゃう……」
途切れ途切れにそう言いながら、茜は泣きそうな顔で断固拒否する。
「分かりました。じゃあせめて、今このときぐらいは私が何とかしましょう」
「いえ……。自分で……」
「はいはい。大人しく世話されててください」
無理やり身を起こした茜をそっと寝かすと、由希は、にこり、と微笑んで彼女にそう言う。
「でもそれじゃ……」
「迷惑とか考えないで下さい。私が自分でやりたいと思っていますから」
なおも食い下がる茜を制して、だから任せてください、と言いながら、由希は借りた鍵と自分の財布だけ持って外に出て行った。
少しして、飲み物のやパウチゼリーなど、由希はおおよそ必要な物を買って帰ってきた。
「パジャマとかってどこにありますか?」
「シャツで、寝るから、持ってない……」
「じゃあ新しいの探してきますね」
「お願い……」
洗面所には乾していなかったので、由希はとりあえず居間へと向かった。すると、思った通り居間のカーテンレールにぶら下がっていた。
ついでに下着も持って寝室に戻り、熱に浮かされて唸る茜の隣に置いた。次に由希は洗面所へ向かって、洗濯乾燥機の中にあったタオルをお湯で濡らし、また寝室に戻った。
「廊下に居ますから、終わったら声かけてください」
手を貸して茜の半身を起こしてから、由希は蒸しタオルを彼女に渡し、寝室から出ようとする。
「拭いて……」
すると彼女の服の裾を掴み、茜は潤んだ目で甘えるようにそう頼んできた。
「分かりました。……失礼します」
由希は茜からタオルを返して貰うと、丁寧にじっとりと肌を湿らせる汗を拭き取っていく。
流石に着替えだけは、茜が時間をかけつつも自分で済ませた。
それから、スポーツドリンクをゆっくりと飲み、茜はくたっと横になった。
「ではこれで。お大事――」
出来ることを全てやり終えた由希が、鍵をベッド脇にあるドレッサーに置き、部屋から去ろうとすると、
「……」
茜はまるで子供の様な目をして、由希の事をじいっと見つめていた。
「茜さん、私にどうして欲しいですか?」
それで帰るに帰れなくなり、由希はくるりと身体の向きを変え、包み込む様な優しい声で彼女にそう訊く。
「ここに、居て……。寂しい……」
「ふふっ。喜んで」
茜の答えを聞いて快諾した由希は、スタスタと彼女の傍までやって来て、茜の手を両手で包み込む様に握った。
*
「で、そこからなし崩しみたいに同棲、だったよね。茜」
「そうそう」
映画を見終わって寝室に移動した2人は、茜が由希を後ろから抱いた状態でベッドに横たわっていた。ベッドの横の床には、2人分の衣服が脱ぎ散らかされている。
ぼんやりとベッドサイドランプに照らされた時計は、午前2時過ぎを指していた。
「なんかもう、由希無しで居られなくなっちゃったんだよね」
「だったねえ。あれだけ人を頼るのを拒否ってたのに」
2人はそう言い合った後、懐かしそうにクスクスと笑う。
そのあと、由希に3日ほど世話された結果、茜はすっかり彼女に頼り切りになって、生活能力がより低下してしまっていた。
人に頼られるのが好きだったし、茜の傍は居心地が良かった事もあり、由希は気がついたら元済んでいたアパートに帰らなくなって、茜との同棲状態になっていた。
そしてちょうど1年前、この際本当に同棲しちゃおうか、という話になり、断る理由がなかった由希は、アパートを引き払って茜の部屋に引っ越してきたのだった。
一通り笑った後、由希は寝返りを打って茜と向き合い、
「これからもよろしくね。茜」
「それはこっちの台詞だよ。由希」
2人はそれぞれそう相手に言って口づけを交わした。