志野百合子と幽霊絵画
彼女と触れ合い。言葉と肌を交わした時に思ったのだ。
ああ。沼だ。それでいて……蛇のような女だ。
入り込んだら最後。どこまでも沈んでいき。そのままゆっくりと締め上げられて、逃げられなくなる。そんな妖しい魅力を彼女は内包していた。
気づいた時にはもう遅い。彼女は破滅をもたらす者。いわゆる――。
※
「先輩。起きたら一緒に、絵を見に行きませんか?」
そんな提案を微睡みかけた意識の中で呑み込んだのがつい昨晩のこと。
翌日の昼過ぎ。俺は気がつけば、言い出しっぺの女と共に芸術鑑賞と洒落込んでいた。
『鷹野アートギャラリー』
住宅のど真ん中にそびえるビルの一階を利用した展示スペース。今日はそこで、とある芸術家の個展が開かれているらしいが……。俺は現在、猛烈に後悔していた。どうしてロクに調べもせずに、ホイホイついてきてしまったのだろうか。
「ああ、怪談も好きですが、こうダイレクトに視覚へ訴えてくるのも素敵ですよね」
隣には目元の黒子が印象的な女が、楽しげに絵画を眺めている。
ゆるめにウェーブがかかった、濡れ羽色のロングヘアは綺麗に手入れされており、常に砂糖菓子を思わせる甘やかな香りを鼻に運んでくる。身に纏うのはワインレッドのリブニットセーターに、グレンチェックのロングスカート。本人は童顔かつ可愛らしい顔立ちだが、服装は大人っぽい方向性が好きらしい。
志野百合子。
俺をここに連れてきた張本人にして、大学の後輩。そして……。言葉にするのは難しく、それでいてあまり人には言いたくない間柄の女である。
「……先輩、どうかしましたか? 私の顔じゃなくて、絵を見ましょうよぉ」
こちらの視線に気づいたのか、まるで悪戯を咎めるかのように百合子は微笑んだ。指で口元を隠しながらこちらに流し目を送る仕草に、知らず知らずのうちに鼓動が高鳴っていく。
付き合いはそれなりに長いが、彼女の〝悪癖〟には未だに慣れない。然り気無く。だが確実に心急所をつくような……。そんな所作を彼女はわかった上で仕掛けてくる。こっちの反応を楽しんでいるのだ。
だが、一応弁明させて頂くならば、目線をちょくちょく彼女に向けていたのには、ちゃんとした理由がある。それは……。
「絵はもう見た」
「……二秒で目を逸らすのって、見たうちに入りますかね?」
「仕方ないだろ。……こういう絵は苦手なんだ」
目の前にある……否、このギャラリーに展示されている作品群は個性が強すぎた。
臓物を撒き散らした女が狼や猿といった獣達に喰い殺されている絵。
黒いセーラー服姿の少女を乗せた、巨大蜘蛛の絵。(よく見ると蜘蛛の足元に男性のバラバラ死体がある)
身体中から植物が生えて、朽ち果てていく女の絵。
他、生首の髪をくわえてたり、血を流してたりする、足元が透けた幽霊の絵が多数。
それもその筈。個展の名前は『幽霊怪異絵画展』
スプラッターかつ、ホラーチックな世界がそこには広がっていた。怪談や怖い話が大好きな百合子にとっては天国みたいな場所なのだろう。だが、そういう類が苦手な俺にとっては地獄以外のなにものでもなかった。
「……聞いてないぞ。幽霊や化け物をモチーフにした、グロい絵しかないなんて」
「藤原哲瑠はそういう作風なんだから仕方ないじゃないですかぁ」
事前に言え。と文句を重ねそうになり、俺はなんとか口をつぐむ。あまり騒いでも自分の器の小ささが更に露見しそうで、よりいっそう情けなく思えたからだ。
朝と言うには遅めの時間に、口にするのは憚れる過激な方法で起こされてから、彼女に導かれるままにここに来た。誘惑でいいように転がされたとも言う。当然、俺に発言権などあるはずもなかった。
結局、しばらくの間は百合子に連れられるまま、絵を見てアマチュアな芸術鑑賞に耽る。
時折百合子の説明が入り、ああ成る程なぁと思うことはあれど、生憎俺に響くのはそこまでだった。
「この芸術家さん、有名なのか?」
「熱狂的な一部のマニアが、いるとかいないとか。あとはまぁ、ちょっとした逸話で話題になってたり」
「……ま、そんなとこだろうな」
なんとなく予想していた答えが返ってきて、俺はそこでようやく溜飲が下がる。
見たところ、古い作品から最近のものまで、その殆どがしっかりした、美しいタッチで描かれていた。時代の流れと共に最新の技術も積極的に取り入れている様子も感じられる。
けど……。やはり万人受けはすまい。少なくとも俺には不気味なものとしか映らなかった。
「さ、先輩。次ですよ次。見たい絵があるんです」
もっとも百合子には俺が好意的であろうが嫌悪を覚えようが、どちらでもよかったのだろう。ぐいぐいと手を引く彼女からは遠慮など感じられず。俺もまた毒食らわば皿までの心境でついていく。外から見てもそれほど大きなギャラリーではなかった。多分あと一枚か二枚見れば帰れるだろう。そうたかをくくっていて……。
数秒後。俺はその認識が甘かったと思い知らされた。
「……待て。ちょっと待て」
目を奪われた。額縁に丁寧に入れられた絵画に……。白い死装束を身に纏った、百合子がいたのだ。
弾かれるように横を見て、俺はすぐに視線を絵に戻す。リアルに描かれ過ぎているからこそわかる。それは明らかに本人と同じ特徴をしていた。
違う点といえば、カッと開かれた眼に黒目がないことくらいだろうか。
「おい、まさかここに来たのって、お前がモデルで……?」
「え? 私が? 違いますよぉ?」
俺の狼狽えぶりがお気に召したのか。百合子はさながら悪戯が成功した子どもみたいな顔で、そっと絵の右下を指差した。
『魔性の女』
そうタイトルがつけられたキャプションに、制作当時の日付がふってある。……どうやら三十年以上も前の古い絵画のようだった。
「……いや、でも。それにしたって」
似すぎだ。俺がそう呟けば、「私もそう思います」と、突然真顔に戻りながら百合子も頷いた。
「先輩をお誘いしたのは、この曰く付きの絵が、久しぶりに展示されると聞いたからなんです」
「曰く……付き?」
そう言えば、確かに先程、作者には逸話があると百合子は口にしていた。それに関係しているのだろうか?
「それって……」
「怪談があるんですよ。この絵には」
それはどのような? と、俺が問いかけようとした次の瞬間。
百合子はまるで獲物を追い詰めた猫のように目を細めて……。俺の腕を胸に押し付けるようにかき抱いた。
「聞きたいですかぁ?」
耳元で、彼女は声のトーンを落としながらそう囁く。湿った吐息が俺の耳朶に絡み付き。そのまま、ピリピリするような痺れが走る。
甘噛みされた。
俺がそう気づいた時、気がつけば百合子の白い指は俺の首筋をなぞり、鎖骨。胸板、腹部へと。さながら蜘蛛のように肌を弄ぶ。そして……。
シャツの裾が僅かに捲り上げられ。冷たい手がその奥へと潜り込まんとした矢先――。オホン! と、わざとらしい咳払いが聞こえた。
思わず変な悲鳴をあげながらそちらへ振り向くと、いつからそこにいたのか。ひょろりと背の高い年配の老人が、肩を竦めながら苦笑いしていた。
「申し訳ないが、一応公共の場だからね。そういうことは他所で……おや?」
最初は、注意しようとしたのだろう。だが老人は、そこで目をしばたかせながら、百合子の顔を凝視した。
「君、は……」
「お久しぶりです。〝哲留おじさま〟私、百合子です」
雷にでも打たれたかのように固まってしまった老人に、百合子はにこやかにお辞儀する。知り合い? いや、そもそも哲留って……この個展を開いている作者の名前ではなかったか?
俺が内心で盛大に混乱しているのをよそに百合子はそっと老人に歩み寄り、もう一度笑みを浮かべた。
「ようやく、この絵に逢えて感激です」
「そ、そうか……うん。私も……君にそう言って貰えて嬉しいよ」
しどろもどろになりながら、老人はそう答える。ちっとも嬉しそうには見えなかったが、百合子はそんなのおかまいなしに、また一歩。ずずいっと老人に近づいた。
「……〝お婆ちゃん〟とっても綺麗です。確かこの頃は18歳。私と同い年だったんですよね?」
「……あ、ああ。君のように。可愛らしく。美しく……謎めいた女性だった」
その返答に百合子は「まぁ……」と、うっとりとした顔で絵の方に顔を向ける。
いまや老人の目は泳ぎ、見ていて心配になるほどに顔面は蒼白だった。彼は明らかに百合子に怯えているようだ。というか、おばあちゃん?
「お、おい。一体……」
「先輩。ちょっと私、お花摘みに。戻ったら、そのまま帰りましょう?」
「え? お、おう」
本当に知り合いなのか。それ以前に状況を説明して欲しくて、俺は百合子の肩に手を触れようとする。だが彼女はまるで霧のように身をかわし、とってつけたかのような言葉を吐くと、そのまま楽しげにギャラリーの端へと消えて行ってしまった。
後に残されたのは、俺と老人だけ。気まずい沈黙がその場を支配する。
「君は……彼女の恋人かい?」
「え……? い、いや。俺は……まだ違います」
先に口を開いたのは老人の方からだった。
ありがちな質問ではあるが、間柄を語るのは気が進まず、俺は曖昧な返事だけをする。
一応、まだと言ったのは意地でもあった。すると老人はまるで悟ったかのようにため息をつきながら、憐れむような目で僕を見た。
「悪いことは言わない。彼女に深入りしない方がいい」
経験談だ。そう老人は付け足しながら、静かに百合子に似た女の絵をあおいだ。
「ずいぶん昔の話になるがね。十五の私は、ある幼なじみの女性に夢中だった。結局恋は実らず、彼女は別の男性と結婚してしまったがね。当時は悔しさと。憎しみと。悲しさと。他にも、色々な感情が渦巻いたのを覚えている。私自身が結婚した後でさえも」
「それ、が……。この絵の彼女?」
俺が遠慮がちにそう訪ねると、老人は頭を横にふる。
「そこから十八年経った、丁度今頃の季節のことだ。地方に制作に出向いていた私の元へ……幼馴染と瓜二つな顔の女性が訪ねてきた」
それが、この絵の彼女だ。そう言って老人は身震いした。
「砂夜子と名乗った彼女は……母から私のことを聞いたと語っていた。ずっと話をしたかったと。いつかに私が焦がれた女性と同じ笑顔でね。そして……そこからだ。私の過ちが始まったのは」
しわくちゃな左手の薬指。そこにはめられた指輪を、老人は哀しげに見つめていた。その表情を見た俺は、なんとなく起きたことを察してしまった。
「帰るまでの、たった一ヵ月。夢のような日々だった。だが過ちを犯してから久しぶりになる家族との電話で……私はようやく、自分の罪の重さを自覚した」
思っていた以上にへヴィかつ身勝手なエピソードに俺は無意識に拳を握りしめていた。
さんざん楽しんでおいて、自分だけ先に夢から醒める。……酷い話だ。そう漏らす俺に、老人は返す言葉もない。と言いながら肩を落とした。
「結局私は、彼女に何も伝えずに逃げ出した。彼女と家族を天秤にかけ、後者を取ったのだ。それが……〝呪い〟の始まりだとは気づかずに」
老人は祈るように目を閉じる。額に汗が滲んでいた。
「幾重かの夜を越えてからだ。彼女が私の枕に立つようになったのは。お怨みします。お怨みします。そう繰り返しながら、砂夜子の幽霊は私に覆い被さった」
逃れがたく。まるで魂が吸いとられるかのようだった。そう独白しながら、老人は肩を抱く。異常な程に震える彼は、時折警戒するように周りを見渡している。もしかしなくとも百合子の影に老人は恐怖しているのかもしれない。
「砂夜子の幽霊画は、その時の恐怖を封じるが為に描いたものだ。以来私は一心不乱に恐怖をテーマに描き続けた。だが……消えない。消えないんだよ……! 砂夜子は時に姿形を変えて、私の夢に忍びよってくるのだ……! それだけではない……! もっと恐ろしい事が起きたのは、そこからさらに十八年後……! 私の前に……! 前にまた……、今度は砂夜子と同じ顔の身重の女が……!」
「……哲留おじさま?」
鈴を鳴らしたかのような女の声が後ろからする。気がつくと、百合子がニコニコしながら、少し後ろに立っていた。
「すいません、先輩。ついもう一度絵を見て回ってたら、遅くなっちゃいました」
ビクリと跳ね上がる老人を一別すらせずに、百合子は悪戯っぽく舌を出しつつ、俺の腕を取る。わざとらしく自分の胸を押し付けながら、百合子は帰りましょうと俺を誘う。端からみたら、ボーイフレンドに甘える普通の女性に見えることだろう。
だが俺は、彼女の目に隠しきれない嗜虐が浮かんでいるのを見逃さなかった。
絵を見ていた? ……嘘だ。
確信があった。百合子が出てくるタイミング。演出が共に完璧が過ぎる。こっそり俺と老人のやり取りを聞いていたと言っても納得出来るくらいには。
ただ、そんな考えに至っていたのは、俺だけではなかったらしい。その証拠に、老人は見ていて可哀想になるくらいにカチカチと歯を打ち鳴らしながら、百合子から距離を取っていた。
「き、聞いて……?」
「…………さぁ? どうでしょうね? 〝おじいちゃん〟」
雄弁に。全てを知っていると百合子が宣言すると、老人はワッと頭をかきむしり始めた。
「いつまで……君たちは、一体いつまで……!」
「いや、私は正直どうでもいいんですけどね? ただ、……ほら。お母さんからそんなエピソードを聞いてたら。嫌でも興味湧くじゃないですか。せっかくなので、十八歳になったら会いに行きたくなるじゃないですか」
エヘッ。と、百合子は拳で自らのこめかみを小突く。
「いや、ならねーよ」と口を挟みたくなるのを必死に堪えつつ、俺はギャラリーの天井を仰いでいた。
ああ、そういう遊びかと納得する。芸術鑑賞なんて二の次。百合子はただシチュエーションを楽しみたかっただけに違いない。そういう女なのだ。
男女の愛憎がもたらした、怪談のごとき復讐劇。いかにも彼女好みだ。俺に振られた役は見届け人といったところか。
「時におじいちゃん。この幽霊絵画にたくさん怪談があるって本当なんですか? 例えば……毎年十月の末。丁度おばあちゃんと別れた頃になると、アトリエの中でガタゴト煩くなり、それは何処かに展示しなければ収まらないって話は……」
「やめろ、やめてくれ! もう許して。許してくれぇ……!」
ギャラリーに響くは老人の慟哭。その姿を百合子は興奮が滲み出た表情で見下ろしていた。
これ、もうしばらくはかかるかな。そう当たりをつけた俺は、ぼんやりと百合子の祖母が描かれた幽霊画をもう一度眺めることにした。
他の絵に比べたら、グロテスクさがなく、むしろ美しいとさえ思える。ただ、何で白目で描いたのだろうか。……演出?
そんな毒にも薬にもならない推測をしていたら、ふと思考の端に違和感が引っ掛かった。
……老人は結局、怪談を肯定もしなかったが、否定もしなかった。つまり、この絵が何らかの怪現象を起こすというのは本当の話で……。
「いやいや。まさかな」
背筋をはい上るかのような寒気を感じて、俺はブンブンと首を横に振る。
幽霊なんざ、漫画や小説。フィクションの中だけで充分だ。大方、女を弄び罪悪感に囚われたが故に見た幻覚か何かだろう。
そう、思う事にした。
※
「ご老人を苛めるのは楽しかったか?」
「多少は。けど、うん。お母さんが一回しか会わなかった理由がわかりますね。これ、二回目は大して楽しくなさそうです」
ギャラリーを後にした帰り道。当人が聞いたら泣いてしまいそうなことを言い放ち、百合子は上機嫌に口笛を吹く。
駅に向かう道すがらで聞いたのは、ちょっとした因縁だった。
父親が逃げ出した後、百合子の母は生まれてきた。ただ、その出産は心身ともに疲弊していた百合子の祖母――砂夜子さんにはあまりにも荷が重すぎたらしい。砂夜子さんは産後まもなくに死亡。残された百合子の母は、なんとか親類に引き取られたらしいが、随分と苦労したとのことだ。
「おじいちゃん、結婚していたのを隠しておばあちゃんと関係を持ったらしいんです。全てを知ったのは、お別れする直前だったのだとか」
「……マジかよ」
どこまで利己的なのか。そんな感想が漏れる。ついでに、絵で成功しだしたのは、砂夜子さんと別れた後だったのだという。これならば、夢枕に立たれても仕方がないかもしれない。
「お母さんが早くに結婚したのは、いち早く家を出たかったからなのかもしれませんね。今はまぁ、お父さんと仲良く……ええ。仲良く幸せにヤってますから」
「……お前が仲良くとか幸せに。って言っても不吉な響きしかしないんだが?」
「失礼ですね~」
当人らが幸せならいいじゃないですかぁ。という地味な爆弾を落としつつ、百合子は俺の方を見る。日はまだ高い。だが、俺はその瞳の中に……黄昏を見た。
辺りが闇に沈んでいく直前の、いやに不安を煽るような焦燥が俺を包み込む。
百合子の母があの老人に会いに行った理由はわかる。復讐。いや、腹いせという奴だろう。
だが……百合子は? 楽しむため? 本当にそれだけか?
「あの絵には、怪談があるんです」
スルリと。まるで猫が家具の隙間に入り込むかのように、百合子は俺の胸に飛び込んでくる。そのまま彼女は俺の耳元に唇を寄せ、抑揚のない声で囁いてくる。
「あの爺さんの夢枕に立って、だろ?」
「いいえ。違います。それもありますが、もう一つ。お母さんがおじいちゃんにたどり着いたきっかけがあるんです」
聞きたいですか? と、百合子は微笑む。どうせ嫌だと言っても語ろうとするくせに。そう思ってはいても、彼女の引きずり込むような雰囲気にあてられて、気がつくと、俺はノロノロと頷いていた。
すると百合子はとても嬉しそうに舌なめずりして――その怪談を紡ぎはじめる。
「ちょうど、十八年くらい前ですかね。藤原哲瑠がテレビに生出演したことがあったんです。そこでお茶の間を騒がせる、大事件が起こったそうなんですよ」
「大、事件……?」
頬をひくつかせる俺に、百合子は「ええ」と頷いて、ゆっくりと自分の目を指した。
「そもそも箪笥に入れたらポルターガイスト……あ、ご存じない? 誰もいないはずの場所で騒音や発光が起きる、通常では説明がつかない現象のことです。それが頻繁に起きるという理由で哲瑠本人が絵と一緒にお祓いした……。という話題をテレビで実物と一緒に流すという内容だったらしいんですが……そこで、動いちゃったらしいんですよね」
ニタリと、百合子が嗤う。何処が動いたのかは、百合子の指が明確に指し示していた。
「目が……動いたってのか? いや、でもあの絵は白目むいてて……」
「ええ。そう、動いたんです。出演者が談笑しているすぐ後ろに飾られていた絵の瞼がゆっくり開かれて……。黒目が、哲瑠おじさまを睨んでいた。視聴者からそんな声が殺到したんだとか。その時のおじさまの怯えっぷりは尋常じゃなかったらしいですよ」
物凄く場面が想像できてしまい、俺はなんとも言えない顔になる。同時に、それが話題となって藤原哲瑠は多少有名になったのだろうなと気づいてしまった。
皮肉な話だ。それによってあの老人は百合子の母に見つけられてしまったのだから。死者の念なんて非科学的な理論が脳裏をよぎるが、俺はすぐに馬鹿馬鹿しいとそれを封じ込めた。
「今日はそれも一緒に確かめたかったんですよ~。ほら、私は孫娘ですし? 反応しないかな~? 目もパッチリ開いてくれないかなぁって」
「バカか。テレビの企画なんざ、八割がやらせに決まってるだろうが。何かの仕掛けがあったに決まってる」
「ええ~っ。先輩夢がないですぅ」
つまんないですぅ。と言いながら口を尖らせる百合子に、俺は多少強気に鼻を鳴らすことで強引に話を打ち切った。
……逆にあの絵が動いたりしたら、更にあの老人をいじめる気だったのだろうか。……その可能性が高すぎて、俺はつい身震いしてしまう。幽霊なんかより、お前の方がずっと怖いよ。という台詞を飲み込んだ俺は、早く帰ろうぜという意味も込めて足を早める。
怪談を聞いたからだろうか。妙に背筋がざわめいていて落ち着かない。テレビはやらせだと自分で断言したくせに。俺はどうしてか、冷や汗が止まらなかった。
「……先輩」
すると、不意にずいぶんと遠くから、百合子の声で呼び止められた。俺はそこではじめて、隣を歩いていた筈の足音が聞こえなくなっていたことに気がついた。
「……百合子?」
足を止めて振り返る。百合子は俺に怪談を語った場所から一歩も動かずに。何故か俯いたまま震えていた。
「オイ、どうし……」
「先輩。〝本当に気づいてないんですか?〟」
顔をあげ、俺を見つめ返している百合子の顔は……。恐怖と興奮が入り交じり、ほのかに紅潮している。
淫靡で、妖しい。だというのに、俺は彼女から目を離せなくて……。だから。
「……先輩。ここで一旦解散しましょうか。今夜――、お伺いしますから」
気がつけば、俺は正体もわからぬ恐怖に蓋をするかのように頷いていた。
※
お菓子は用意しなくていいですからね。
そう言って百合子は俺とは反対側のホームに消えていった。何を言っているのだと最初は意図をつかみそこねていたが、後々に今日の日付を思い出して納得した。今宵は――ハロウィンだったのだ。
「Trick or treat」
その日の夜、真っ白な着物を身に纏い、幽霊の仮装をした百合子が、その口上と共に俺の部屋に来た。言われた通りお菓子を用意していなかった俺はそのまま彼女の悪戯を受けることになったのだが……。この辺は割愛する。
問題はその直後。事の余韻に身を委ねながらベッドの中でぴったりと身を寄せていると、不意に俺のスマートフォンが鳴動した。
通話は〝百合子〟からだった。
「おい、話があるなら直接……」
話せばいいだろう。そう言いかけて俺は違和感に気づく。
彼女の顔は俺の胸にうずめられ、腕は身体に回されている。こんな状態で電話などとれる訳がなかった。
「も、もしもし?」
家族だ。きっと何かがあって、きっと家族が緊急で連絡してきたのだ。あるいは、ハロウィンらしいこいつの悪戯に違いない。
沈黙を保つ百合子に痺れを切らし、俺は内心で必死に祈りながら電話に応じる。
『あっ、先輩~。すいません、遅くなってしまいましたけど、今から行きますね!』
だが、無情にも相手は〝百合子〟だった。
その瞬間、俺は全身に鳥肌が立つのがわかり……。同時に、すぐそばにいる百合子らしき誰かは、まるで俺を絞め殺さんばかりに、強く抱きついてきた。
『あっ、先輩! お菓子は用意してないですよね? 他に誰も招き入れてませんよね? 言い忘れましたけど、気を付けてくださいね~。お菓子を幽霊にあげてもてなす。これ、ある種の魔除け的な儀式の側面があるのでぇ。〝本物〟が来た時に持ってなかったら、わりと洒落になりませんからぁ』
まぁこのご時世に部屋までお菓子をねだりに来る輩はいないでしょうけど。と、付け足す百合子の声が、俺には随分と遠くに感じられた。
『……先輩? おーい、聞こえてますか?』
「今、どこにいる?」
『はい? ………………ああ、成る程』
辛うじて、声を絞り出す。震え声に気づいたのか。百合子は最初こそ訳がわからないといった雰囲気だったが、やがて何かに納得したかのように声を低めて。
『……まさかとは思いましたが、本当に魅入られてしまったんですね。先輩』
そう言って、百合子はスピーカーの向こうで楽しげに嗤いはじめた。
『……先輩。私は言いましたよね? テレビでは目が開いたのだと。あの絵は……〝目を閉じた〟おばあちゃんの絵だった筈なのに』
「あ、ああ。そうだな。黒目が……。おい、ちょっと待て。目を閉じただって?」
聞き捨てならない事実に俺の体温が一気に下がる。だが、百合子はそれを覆してはくれなかった。
『ええ、私から見ても、あの絵はしっかりと目を閉じてましたね。でも……あれれ~? おかしいぞぉ? 先輩は確かぁ……』
あり得ない。だって俺は、ずっとアトリエで見ていたのだ。あの絵においてしっかりと眼を開いていた『魔性の女』の白い視線を……!
身体が冗談のように震え出す。首を下に向けられない。恐ろしいのだ。そこにいるナニかと目を合わすのが。
誰だ? ここにいるのは……。俺は何を部屋に招いてしまったんだ?
白い手が、俺の頬に添えられる。静かに……音もなくその女は俺に顔を近づけて……。
そこで俺は気を失った。
※
翌朝、俺は百合子の胸の中で目を覚ますことになる。
「怪談のお味はいかがでしたか?」
窓から射す朝日の光に包まれながら、百合子はそう俺の耳元で囁いた。
彼女は裸でも白い着物でもなく、普段俺の部屋に泊まる時に着るパジャマに袖を通している。
当然俺は混乱した。果たして昨夜の出来事はどこまでが夢でどこまでが現実なのか。それを百合子に問いかければ、彼女はキラリキラリと目を輝かせながらこう言った。
「さぁ? ……ところで先輩。今の私は〝どっち〟だと思います?」
後日、藤原哲瑠の絵画が一点紛失したというニュースが小さめに報道されることになる。ただ、奇妙なことに何の絵がなくなったのかは公表されることはなかったということを、ここに追記しておこう。
また、余談だが最近百合子と話が噛み合わない時が度々あるのだが……。多分彼女も憑かれているのだろう。そう思わねば気が狂いそうだった。