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英霊の花嫁  作者: 原田修明
8/12

出征

6月の初めごろ、いつになく不機嫌な顔で、夫が帰ってきました。


こんな顔の夫は見たことがないので、美代も姑も声をかけることができませんでした。


「辞令が出た」


石を吐きだすような言葉でした。


美代と姑の体が、引きつったのがわかりました。


「戦術教官室の主任教官だ」


「それは……百里かい?」


「ああ」


姑の問いに、夫はぶっきらぼうに答えました。

美代がひそかに安堵のため息をつきました。


「おめでとうございます……鯛でも買ってこようかしら」


「何がめでたいものか! もう百里に来て3年だぞ? いつまで僕に教官をさせておくつもりなんだ!」


初めて聞く夫の怒声に、美代は息を詰まらせました。


「……教官として信頼されてるってことじゃないか。あんまり大きな声出すんじゃないよ、恵子ちゃんが驚くよ」


姑に諌められて、不安げに見上げる恵子ちゃんと、泣きそうな美代に初めて気づいたようでした。


「大きな声を出してすまなかった、美代」


夫は制服の上着を脱ぐと美代に渡し、風呂に向かいました。


「たーたーん」


恵子ちゃんが、わたくしの頭をわしづかみにして夫の後をついていきました。


「……恵子、お父さんと一緒に風呂に入るか?」


恵子ちゃんは元気良く頷きました。

夫は、いつもの優しげな顔に戻っていました。


夫が戦場に行けないのは、あるいはわたくしの力のためかもしれませんでした。

けれども、わたくしはたとえ夫を苦しませることになっても、戦場には行かせたくありませんでした。


たったひとりで残された姑の顔は、今でも胸の奥に焼きついていました。


夏頃から、夫の顔が曇りがちになりました。

そのころは、新聞にミッドウェー海戦で米軍の空母を2隻も沈めたことや、陸軍がガダルカナル島で戦っていることが載っていました。

夫が深く悩むようなことはないはずでした。


今までたしなむ程度だったお酒も、毎日飲むようになりました。


9月の、こおろぎが鳴く夜のことでした。

夫はちゃぶ台の前にひとり座り、あぶったするめを肴に、酒を呷っていました。


その飲み方は、わたくしが心配になるほどの早さでした。

「あなた、明日もお仕事でしょう? あまり飲まれると……」


さすがに美代は不安に思ったのか、おずおずと顔を出しました。


「少し、ひとりにしてくれないか」


美代の顔も見ず、夫は酒を満たした湯呑みに口をつけました。


「はい……」


背中にはっきりと表れた拒絶を見て、美代は下がりました。

そのとき鼻をすすり上げたのを、夫は聞いていないようでした。


夫は一息に酒を流しこむと、湯呑みをちゃぶ台に叩きつけました。


「最近、教え子たちの戦死報告が多すぎる……! 僕がもっとしっかり教えていたら……若いやつらを死地に送って、なんで僕は、のうのうと生きているんだ!」


ちゃぶ台に突っ伏した夫の眼から、涙が零れました。


夫は、姑にも美代にもそのことは言いませんでした。

わたくしだけが、夫の苦しみを知っていました。


いびきを立てはじめた夫を見て、ないはずの心臓がきりりと痛みました。


夫の鬱々とした顔は、恵子ちゃんが2回目の誕生日を迎えた12月の初めまで続きました。

曇りを払ったのは、恵子ちゃんの成長ではありませんでした。


ある日、帰ってきた夫の顔は、屈託が全然なく、人間離れした透明感があって、姑も美代もその変貌ぶりに声を出すことができませんでした。


「内示が出たよ」


夫の声は、重しが取れたように軽くなっていました。


「……百里かい?」


姑は諦めを滲ませつつ、あえて聞きました。


夫は首を振りました。


「日本ですか?」


美代が、割烹着の胸元をつかみながら聞きました。


夫は首を振りました。


「フィリッピンのミンダナオ島だ。正式の辞令が下り次第()つから、準備しておいてくれ」


夫は少し、気分がうわついているように見えました。


「おとーたん、ただいまー」


わたくしを胸に抱えて、恵子ちゃんがやってきました。

恵子ちゃんはいつも、夫が帰ってくると「ただいまー」と迎えてくれるのです。


「ただいま、恵子」


夫はわたくしごと恵子ちゃんを持ち上げました。

ほんの一瞬、恵子ちゃんを見る夫の眼に迷いがよぎったのを、わたくしは見逃しませんでした。


次の日、姑と美代はごちそうを用意しました。

戦時とは言え、百里は魚介類が豊富でした。

けれども、恵子ちゃんの眼を引いたのは、配給品になっている砂糖をたっぷり使ったおはぎでした。


「贅沢だと思ったけど、しばらくはこんなものも食べられないですから……」


美代は少し気まずそうでした。


「まあ、今日ぐらいはいいよ」


夫は、士官のメンツで美代の心遣いを無下にすることはありませんでした。


「あれ、だめだよ恵子ちゃん、お父さんの食べたら」


姑が注意しましたが、恵子ちゃんは両手と口をあんこだらけにしておはぎをほおばっていました。


「かまわないよ、好きなだけ食べればいい」


優しく笑って、恵子ちゃんの頭に手を置きました。


「おいしいよー」


おはぎを飲みこむと、恵子ちゃんはにっこり笑いました。


久しぶりに、家族4人に笑いが満ちました。


けれども、わたくしには姑と美代が泣いていることがわかっていました。

きっと、夫にもわかっていたことでしょう。


「おとーたん?」


何かを感じ取ったのか、恵子ちゃんは大人たちを見まわしましたが、すぐにおはぎを口に押しこむことに夢中になりました。


夫が旅装で玄関の前に立ったのは、それから10日後のことでした。


わたくしは恵子ちゃんの胸に抱かれ、夫を見上げていました。

姑と美代は、誇らしげな顔を作って、横に立っていました。


「美代、母さんと恵子を頼むぞ」


「はい、心配なさらないで」


どうやら、わたくしの力はここまでのようでした。

3年以上夫を百里にとどめ、美代と結婚して恵子ちゃんを授かりましたが、これ以上運命は変えられないようです。


わたくしは再び夫の写真の横に立てられるのでしょうか。

美代がいるのでそれはないでしょう。

わたくしはたんすの上で、ほこりをかぶって朽ちていくに違いありません。


そしてそこから、あのときの姑と同じ顔で、美代と恵子ちゃんが仏壇に祈りを捧げているのを、なすすべもなく見続けていなくてはならないのでしょう。


そのとき、恵子ちゃんが前に出ました。

別れを理解しているのか、眼にいっばい涙をため、唇を噛んで夫を見上げていました。

そして、高々とわたくしを掲げました。


「けーたんの、あげる。つれてって」


恵子ちゃんは、ずっとわたくしを差し出していました。

夫はちょっと困ったように微笑むと、わたくしを受け取って衣のうにしまいました。


「恵子だと思って、ずっと一緒にいるからね」


頭をなでると、恵子ちゃんは泣き出してしまいました。


「泣いて送るものじゃないよ、恵子ちゃん」


姑がたしなめましたが、恵子ちゃんはまだ小さいのでしょうがありません。

美代がすすりあげる音も聞こえました。


わたくしは美代に悪いとは思いましたが、再び夫とふたりきりになれたことに悦びを感じずにはいられませんでした。


それにわたくしが居れば、もしかしたら夫を生きて百里に帰すことができるかもしれません。


「じゃあ、行ってくる」


夫は衣のうを持ち上げると、歩き出しました。初めての、わたくしと夫のふたり旅でした。

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