覚醒
わたくしの初めて感覚は、寒さとほの暗さ、古い木と線香の香りでした。
ささやかな祭壇の上に、わたくしはいました。
ろうそくが頼りなく灯っていて、ちらちらと影を揺らめかせています。
祭壇の上にいるのは、わたくしだけではありませんでした。
薄明かりの中で眼をこらしてみると、若者の姿がぼんやりと見えました。
若者は身じろぎもせず、佇んでいました。
おぼろげな表情はよくわかりませんでしたが、わたくしはひとりでないことを心強く思いました。
不意に、周囲が明るくなりました。
わたくしたちの前に、孤独の皺を深く刻んだおばあさんが、音もなく座ります。
地味な色の古い着物を着たおばあさんは、数珠を取り出すと手を合わせました。
星霜を重ねた悲しみを顔に湛え、しばらくの間、眼を閉じていました。おばあさんがあまりに寂しそうなので、わたくしは怖いとは思えませんでした。
明るくなって初めて、若者の顔をはっきり見ることができました。
やさしげなくりくりした眼。
意志の強そうな太い眉。
口元には微笑みが浮かんでいて、大日本帝国海軍の白い詰襟を着ていました。
思ったよりも素敵な人だったので、ほっとする気持ちと一緒に、少しときめいてしまいました。
長い祈りを終えると、おばあさんはゆるゆると立ち上がり去っていきました。
おばあさんがいなくなると明かりも消え、再び若者の姿はろうそくの火影に隠れてしまいました。
毎日、おばあさんは祭壇にやってきて、長い間手を合わせます。
拝まれるのが気恥ずかしくて、若者にはにかんだ顔を向けました。
彼は初めて会ったときとまったく同じ顔で、ただ微笑んでいるだけでした。
わたくしがわたくしであると知ってから、何十日かが過ぎました。
祭壇から動くこともなく、穏やかな日々が過ぎていきます。
薄暗く、線香の匂いが漂っているのは変わりませんが、だんだん暑くなってきたようでした。
わたくしは無口で優しげな彼と一緒にいることに、安らぎを感じるようになっていました。
おしゃべりがあまりうまくないので、そういうひとのほうが気疲れしないのです。
ある日、おばあさんがいつものように祭壇にやってきました。
今日はいつもと違い、スイカやブドウといった果物のほかに、まんじゅうやお酒をわたくしたちの前にきれいに並べました。
わたくしがわくわくしていると、おばあさんは、さらに変なものを置いていきました。
それは、馬に似せて作ってあるようでした。
ただ、それはキュウリで作られていました。
脚の場所に本の棒を刺して、四つ足で立たせてあり、胡瓜の反りがちょうど馬の首のようでした。
まさかわたくしに乗れというわけでもないのでしょう。
少し笑いそうになりました。
でも、おばあさんのいつも以上に寂しそうな顔を見て、やめました。
おばあさんは小さなコップにお酒を注ぎ、彼の前に置きました。
お酒の甘い匂いが、湿った空気の中に広がります。
いつものように、おばあさんは祭壇の前に正座をして、手を合わせました。
いつもと違っていたのは、初めておばあさんの声を聞いたことでした。
「義弘……」
殿方の名前が、おばあさんの口から零れました。
わたくしは義弘という名前ではありませんので、彼の名前だと思いました。
わたくしたちはあまりに無口だったので、お互いの名前さえ知らなかったのです。
おばあさんの頬を、涙が伝っていきました。
おばあさんがどうして泣いているのか判らず、ただ戸惑っていました。
「おまえが死んでから、もう三十年も経ってしまったねえ……」
おばあさんがとんでもないことを口にしました。
驚いたわたくしにはまるで頓着せず、彼はこれまでと同じように、微動だにしていません。
いったいおばあさんは何を言っているのでしょうか。
ずっと彼がそこに居るのを、おばあさんも毎日見ているではありませんか。
わたくしがおばあさんの正気を疑いかけたときでした。
おばあさんは彼が入っている写真立てを手に取ると、膝の上に置き、悲しみに濡れた眼でじっと見つめました。
彼は写真だったのです。
道理で動きもしなければ喋りもしないはずでした。
けれども、彼への気持ちが変わることはありません。
彼が写真だからといって、いままでの暮らしには、何ひとつ変化はないのですから。
しかし、おばあさんの言葉にわたくしは跳び上りそうになりました。
「あんたの嫁はこの子だもんねえ……」
おばあさんは憐れみをこめ、ひっそりとわたくしを見つめていました。
一瞬、自分のことを言われているとは判りませんでした。
なんということでしょう。
一言も交わさないうちに、わたくしたちは結婚していたのです。
確かにわたくしは彼にささやかな好意を持ってはいましたが、まさか結婚していたとは思いもしませんでした。
不意に、わたくしの胸に、潮のように喜びが満ちてきました。
わたくしも女として生を享けた以上、優しくて頼りがいのある殿方の妻となることに憧れていました。
もしわたくしの頬に血が通っていたのなら、きっと桃のように染まっていることでしょう。
とても恥ずかしかったのですが、わたくしは彼を夫と認めました。
おばあさんは、夫を祭壇の上に置くと、わたくしと向いあわせにしました。
夫の優しいまなざしが、まっすぐわたくしに向けられています。
わたくしは恥ずかしくて、とても眼を合わせられませんでした。
けれども動くことができないので、夫の視線を避けることができません。
おずおずと夫を見つめかえすと、写真立てのガラスに、白無垢を着た真白な肌の少女が映っていました。
それはわたくしでした。
わたくしは、花嫁人形でした。
「義弘、この子だけで寂しくないかい?」
おばあさんが、夫に訊ねました。
わたくしは息を詰めて、夫の返事を待ちました。
もともと息はしていないのですが。
夫は優しく笑ったまま、何も答えませんでした。
「ちゃんと還ってくるんだよ」
おばあさんは、わたくしたちを残して部屋を出ていきました。
ひぐらしの声が、遠くから聞こえていました。