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2017年/短編まとめ

優しい指先が私を殺す

作者: 文崎 美生

最近、崎代(サキシロ)先輩は深爪気味だ。

男の人だけれど細めの指先に生え揃った爪は、丸く綺麗に削り取られて爪の先の白い部分、フリーエッジが一ミリあるかないかになっている。

これを深爪と言わずに、何と言うのか。


「ふーっ」


絵の具だらけの白衣を着て、大きなキャンバスと睨めっこしていた崎代先輩は、深く息を吐き出しながら、ヘッドフォンを下ろす。

絵の具で汚れた指先、爪、やっぱり短い。

元々、絵の具で汚れるからという理由から、綺麗に短く切り揃えていることを、私は知っていたけれど、最近は輪をかけて短くなっている。


満足そうにキャンバスを見る崎代先輩は、複数の筆を水の入ったバケツに入れた。

最近は、人物画以外にも挑戦するらしく、部活の時間には、背景画ばかり描いている。

美術室の窓から見える風景を描いているが、後輩の身ながら、失礼ながら、人物画の方が上手いと思ってしまった。

崎代先輩にも、得意不得意があるということだ。


「……先輩」


私も私で絵の具で汚れたエプロンを外し、そっとその背中に近付いた。

勢い良く振り返った崎代先輩は、大きな瞳を瞬いて私を見る。

それから、困ったような笑顔を見せた。


「もしかして、呼んでたりした?」


癖のある柔らかそうな髪に触れながら、緩く首を傾けてみせる崎代先輩だけれど、決して私が声を掛けたことに戸惑っているわけではない。

この人は、絵を描き終わり、筆を置いて、ヘッドフォンを下ろした後に声を掛けると、決まって困ったような笑い顔を見せる。


「大丈夫です。今、声掛けました」


私も似たような笑みを作りながら答える。

崎代先輩の首からぶら下がる、黒字に発色の良いオレンジのラインが入ったヘッドフォンからは、聞き覚えのない音楽が流れていた。


絵を描く時には、いつだってヘッドフォンをしている崎代先輩。

何の曲を聴いているのかは、聞いたことがない。

ただ、その集中力と、聴覚遮断のせいで、どんなに声を掛けても気付かないことがあった。

今となっては、美術部員全員が、崎代先輩が完全に手を止めるまで待つのだが。


「それでですね、先輩」


「うん?」


「手、と言うか爪、痛くありませんか?」


腰を曲げながら、崎代先輩の指先を見ながら、問い掛ければ、その手が持ち上げられる。

細い、けれど、骨張っている手だ。

後は、絵の具を使っていたから、汚れている。


「あぁ、ちょっと切りすぎちゃったんだよなぁ」


爪と爪を擦り合わせるようにしながら、緩く目を細めて、伏せる崎代先輩。

今日一番の柔らかな笑顔で「でも平気だから」と言うから、私は黙ってしまうのだ。




***




その日の、部活終わりに、帰路の途中で忘れ物をしたことに気付いてしまった。

丁度、家と学校の中間点に当たる場所で、何でこんな所で思い出すのかと身を翻す。

家で気付いたなら、いっそ諦められた。

学校近くなら、直ぐに戻れた。


「あぁ、最悪」


鞄を肩に引っ掛け直し、早歩きで来た道を戻って行く。

美術部は、基本的に最終下校時間よりも早くに部活を終えているので、学校にはまだ入って行ける。

問題は、美術室の施錠が終えていたら、職員室まで行かなくてはいけないことだ。


美術部顧問は、基本的に部活に参加しない。

本人は「顧問があれこれ口出すようなものではないでしょう」とのことだが、実際、面倒臭いだけなんじゃないかと思う。

自由主義の放任主義、レアキャラみたいな低確率で美術室にやって来る美術部顧問だ。


そんな顧問が、こんな時間まで職員室に残っているとも思えないので、鍵を借りに行くのは面倒で、開いてれば良いなぁ、くらいの心持ちだった。

しかし、美術室前までやって来た私は、そんな心持ち、持たなければ良かったと思うのだ。


学校を出てから帰路の中間地点まで掛けた時間よりも、短い時間で学校に戻った私は、美術室を覗き込んで息を吐く。

細く、小さく、浅く、息を吐く。


「崎代くんも、飽きないね」


「飽きないよ」


静まり返った廊下にいる私には、美術室の中にいる二人の会話がしっかりと聞こえてきた。

抑揚のない小さな、それでも良く通る声。

逆に感情がしっかりと乗って、わざとボリュームを落として、通らせないようにする声。

二つの声が、美術室から聞こえてくる。


そこにいたのは、顔だけなら良く知っている女の先輩と、崎代先輩だ。

女の先輩は、顔以外に名前も知っている。

作間(サクマ)先輩だ。

崎代先輩と同じクラスで、美術部でもないのにコンクールに出品して上位の賞を掻っ攫っていく人。

その作間先輩の幼馴染みの先輩も、同じような理由で有名だ。


「ボクよりも、(アヤ)ちゃんの方が綺麗だよ。MIO(ミオ)ちゃんの方が可愛いよ。オミくんの方が色っぽいよ」


「男に色っぽいって、褒め言葉なのかなぁ」


ゆるゆるふわふわした内容の会話だった。

会話の中の文ちゃんも、MIOちゃんも、オミくんも、全員作間先輩の幼馴染みで、全員が美術部では有名な人だ。

何なら、写真部や文芸部でも有名だ。


忘れ物を取りに来たのだが、どうにも入るタイミングが掴めずにいる。

ぼんやりと二人の会話を聞きながら、扉へと伸ばせない手を握った。


中の様子としても、キャンバスの正面に崎代先輩が座り、ヘッドフォンを首に引っ掛けた状態で筆を持っている。

そして、キャンバスの裏側、崎代先輩の視線の先に椅子に座って、膝の上では本を広げている作間先輩。

これで、何も喋らずに、崎代先輩が筆を動かし、作間先輩が本を読んでいたのなら、入れたのかもしれない。


「俺は、作ちゃんが一番綺麗で可愛くて色っぽいと思ってるよ」


筆を置いた崎代先輩が言う。

その声は、何よりも甘くて、何よりも優しくて、何よりも柔らかかった。

ぞわりと鼓膜を揺らし、触れる声だ。


「……うわ、絶対ないわぁ」


返されたのは抑揚のない声だ。

本を閉じた作間先輩が、何を考えているのか分からない声でそう言うから、崎代先輩が立ち上がる。

美術部として活動していた時には、絵の具で汚れていたはずの手が、何故か、今は絵の具汚れ一つ、傷一つなかった。

いや、何故って、私はその理由を知っている。


作間先輩の前に立った崎代先輩の手が、細くて、骨張っている手が、作間先輩に伸びた。

作間先輩は微動だにしない。

ただ一つ、静かに瞬きをしてみせる。


「……うーん。もうちょっと、こう、危機感とか、ですねぇ」


指先で、緩く円を描くように、作間先輩の頬を撫でる崎代先輩が、ほんの少し困ったように言う。

それでも、横顔は笑顔だ。

目の前の作間先輩は無表情で、軽く首を傾けながら不思議そうに、今度は瞬きを二つ。


「聞くけど、そういうつもりで、触ってるの?」


「うーん。そうじゃないけど、好きだよ」


深爪で痛そうな指先が、作間先輩の頬をなぞり、横髪に差し込まれて、髪が掻き上げられる。

「なら、良いんじゃない?」と、酷く大人びた声と言葉に、自然と体が後ろへ逸れた。

でも、目の前の崎代先輩は、そんな様子がなくて、ケタケタと小さな笑い声を響かせる。


「それに、そういうつもりなら、蹴り上げてでも逃げるよ。MIOちゃんから、防犯ブザー貰った」


「えっ、嘘」


「うん。嘘」


ぱちり、二人の視線が合って、クスクスと二人分の笑い声が、小さく小さく反響する。

秘密、内緒、蜜事、似たような、飾り気のある大人びた単語が頭の中で回り出す。

その間にも、崎代先輩の手は、作間先輩の頬を、髪を撫でていて、目がチカチカする。


薄暗く、夕日が侵食するように差し込む美術室で、男女が二人。

一体、何の純愛小説だろうか。

いや、あんな目の前がチカチカして、頭がぐるぐるして、心臓がドクドク言うものを、純愛小説なんて言っても良いのだろうか。


「ところで、崎代くんは最近深爪みたいだけど。痛くないの?」


滑っていた指先が止まるのが見えた。

絵の具で汚れてもいない、深爪の目立つ手。

私、私は、知ってる。


「うん。全然痛くない」


にっこり、そんな効果音の似合う笑顔があった。

目尻を下げて、眉尻も下げて、口角を上げて、口なんかちょっと開いて、首を竦めて、それから指先を動かして、両手で頬を包み込む。

それを最後に、私は身を翻す。

忘れ物なんて、もう、どうでも良くなっていた。


最近、崎代先輩は深爪気味だ。

部活で汚れた手をしっかりと洗って、また部活動時間外に絵を描く。

その時は、ヘッドフォンをしていないし、手だって汚れていない。


最近、崎代先輩は深爪気味だ。

それは、作間先輩に触るためだ。


最近、崎代先輩は深爪気味だ。

その理由は、きっと、私だけが知っている。

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