サラバ5月のドッペルさん。
I
碌に手入れされず、黄ばみきった畳。只でさえ暗いその和室の隅、一間の押入れの上段が、唯一僕が居られるスペースだった。扉を閉めて、引籠る。100均で買った小型のライトを点けて、片目だけで目に痛い光を見つめていた。何もする事は無い、出来ない。けれど、心がようやく落ち着いて、僕は痛みを堪えながらもほう、と息を吐いた。居間では大音量でテレビが流れているらしい。良かった。少し眩暈はするけれど、鼓膜は破れていない。唐突に、先刻まで自分をビール瓶で殴りつけていた、もうどんな間柄かも忘れた“オジサン”の大きな笑い声が響いて、思わずシャツの袖を捲り上げ、真新しいアザを数えた。…左腕だけで4個。嗚呼、また全身動かすのが辛い日常がやってきたのだ、とげんなりした。
『また殴られたのかい、“イズミ”』
…此処で三角座りをしていると、必ず“コウヤ”は僕の前に姿を見せる。僕と同じ顔立ちなのに、8歳で死んだ時のまま、半透明の体で。
『何度でも、僕が助けてあげられればいいのに。もう“触れない”。…ごめんね、イズミ』
『眼鏡、直したんだね。どう?綺麗に見える?』
コウヤは優しく言いながら、そっと僕に、1人だけ16歳になった片割れに手を伸ばした。――感触は無い。
「…“綺麗”なんかじゃないよ」何時だって、消えてしまいたかった。「コウヤ、そっちはどうなの?痛くないの?悲しくないの?」
『教えないよ。…言ったら、お前は容易く命を捨ててしまいそうだもの。第一。お前と僕じゃ、逝く所が同じかもわからないじゃないか?』
それきり会話は途切れた。知らず知らずに頭が重くなって、ぶつり、と落ちる。不意に聞こえた雨戸を勢いよく開ける音に覚醒する。ああ、また――朝が来た。
『××、マジ暗すぎ。イジメても顔色一つ変えないじゃん。キモっ!!』
『カツアゲしようとしたら100円しかアイツ持ってねーんだもん。何かガチで“弱い者イジメ”って感じになって、それから手出せてないわ』
『もう誰も絡んでないのに、あの眼帯ナニ。いきなり着けてきたじゃん。何があったんだよ?あ、これ興味だから。心配じゃないから!!』
五月蠅い高校での、机の定位置は窓際の最後尾。“嫌い”も“ウザい”も通り越した果てのゴールは無関心だった。けれど正直、それで結構。積極的かつ直接的な攻撃さえなければ。もうじき期末テストがあるから、そうなれば皆自分達の事で精一杯になって、もっと静かに生きられるだろう。
かつての名残の“生ゴミ”“学校来んな”と油性マジックで書き殴られた数学の教科書を鞄に詰め込んで、下校しようと廊下を歩いていると。不意に、鼻を擽る一種の腐敗臭。毎度毎度の其れに顔を顰めると、窓の外で蝶とも蛾ともつかない茶色の昆虫が大きな蜘蛛に貪り食われているグロテスクな光景が目に入った。
…僕が嗅ぎ分けるコレは“死臭”という奴かも知れない。車に轢かれたネコや、腹を見せる魚達。どれもこれも、同じ匂いがするのだ。僕はコウヤが死んだ瞬間、最後に目が合った“弟”だった。母親も父親も見送った。子供の頃は、誰もが一度は怪奇現象に晒されるというのが通説だ。少しだけ死に触れ過ぎた僕は、チャンネルが既に“●●”に絞られているのかも知れなかった。
「――結構じゃないか、別に。もう親しいヒトなんて居ないんだし。小動物くらい、辛くないよ」
巣に吊るされた昆虫は、もう翅だけを遺してバラバラに壊されていた。
(――16:37。その時、僕は普段通りの電車を待っていた。『四番ホームにI駅行き快速列車が、10両編成で参ります』。“…一思いに、蛙みたいにペシャンコになれたら、どんなに楽だろうね”だなんて現実逃避していた、自分の頭を揺さぶったのは。…何時にない、強烈なあの腐敗臭。)
(――これまでの矮小なモノじゃなく、“ヒトが死ぬ”。発作的に僕は走り出した。直感は確信。流石にこれ以上、見ず知らずの相手でも見殺しにするのは嫌だったのだ。…車両が入ってくる騒音の中、黄色い線の外側をひたすらに走った。どんどん、どんどんと強くなる臭いの果てに。僕はとうとう、彼に出会った。)
「…何だ、驚いたな。俺に何か用?“ミイラ男”さん」
目が不自由らしく、白杖を突いていた老人を線路に突き落とそうとしていた手を掴めば、臭いは一瞬で掻き消える。その背後で40トンの巨大な鉄製のボディが滑り込んできた。初対面の時、“エイスケ”は僕が通う底辺公立より大分偏差値も学費も高いJ高校の制服を着て、一切悪びれる事無く、僕の絆創膏と包帯塗れの姿をそう揶揄したのだ。
II
ひやり、とした感触の、真新しい合鍵を穴に差し込んで捻る。ガチャリ、と音がして、ノブが回る。ロック解除。僕の今住んでいる平屋より、ずっと高級なのに違いないマンションは清潔で、けれどほら、また扉を少し開けただけで例の腐敗臭が鼻を突く。身を滑り込ませれば、相変わらず生活感の無い、真っ白な装丁が、酷く静かに客人を迎えた。
「来たよ、エイスケ。…今日は何を解剖したの?」
もう3週間、此処に通い続けている。僕らは初対面の日、駅員室に連行され、きつく叱られた。ようやっと解放された時、エイスケはにやり、と笑って言った。『お前、もう俺の事を見過ごせないんだろう?』。
…リビングまで入り込んでみれば、エイスケはYシャツ姿のままダイニングテーブルに突っ伏して居眠りをしていた。そして、その前には案の定、バラバラにされた雀の死体がティッシュの上に置かれていて。お気に入りのデジカメのシャッターには血が付着しているから、また数枚写真を撮ったのに違いなかった。僕は食器棚に当然の様に置かれている使い捨て手袋を嵌め、その惨状を片付け始める。ティッシュを丸めて、破れない様にレジ袋に入れ、テーブルを水拭きした。全部一纏めにし、口を締める。学生鞄にしまい込み、“帰りコンビニに捨てよう”と決めた。任務を終え、“一杯水を飲もう”とシンクに向かい、掌で水道水を掬い上げた。…途端に。
「――今日も来たのか、イズミ」
「来なくちゃいけない様な態度を取っているのは君だよ。…割と切実に、気配を消して近付かないで欲しいな」
“その上、こんな風に腰を抱くなんて。体温が染み込んで来て戸惑うじゃないか”。払いのけないのは、僕が徐々にエイスケの事を知り始めていたからだった。勉強が出来て、金持ちの家に生まれて、幸せ一杯の少年かと思っていたけれど。…実際彼は生まれ持った変えられない性癖の為に1人高級マンションに押し込められ、縁を切られかけている孤独な子供だった。
「俺の事を怖がらない物好きはお前だけだな」僅かに腕の力がきつくなった気がした。「だから、“イズミの事を殺したい”。どうせ一生に一人しか、背負えないなら。…面白い相手を選びたい」
「…でも、人を殺した事は無いんだろ?」
ずっと前から、死体を見る事も作る事も大好きだったエイスケは、毎日の様に生き物を殺していた。…それ以上は手を出せなかった。本当のサイコパスは表向きは魅力的な人を演じて皆に好かれるけれど、エイスケは其処まで完璧に取り繕えなかったのだ。彼には未だ良心というモノがある。あの日、駅のホームで、初めて人を手を掛けようとした。“俺だって、サミシイ時はあるんだよ”。唯一嗅ぎ分ける事が出来る僕は、エイスケを止める事で、ヒトの命を守る事で、背負ったトラウマを軽くしようとしたのに。互いを通して“自分が人間として生きている”事を再認識した途端に。異常性は少しだけ鳴りを潜めた。エイスケは決して僕を殴らない。まともに触れ合えるのは2人しか居ない、破れ鍋に綴蓋そのものの番だった。
『イズミ。お前、まさか素直にあの男に殺されやしないだろうね?』
初めて話を振ったその日から、エイスケの事を、コウヤは嫌った。どれだけ説得を試みても、一切聞く耳を持たずに。三角座りの押入れに響くその声は日増しに刺々しくなって、只でさえ門限破りが常習になり、同居人からの暴力が激しくなっていた僕は神経をすり減らしていた。
『――僕と会うのが面倒だなんて言わないだろ?お前はそんな事口に出来ない筈だ』
『僕は、お前を数年生かして見ず知らずの相手を満足させる為に死んだんじゃない!!』
「…わかってるよ」
“そうだ”。あの日の事を思い出す。“20××年11月30日”。元々金銭的に余裕が無かった両親にとって双子なんて望んだ結果じゃ有り得ない。帝王切開で僕達が生まれた時、どちらを愛するかを、彼らは無意識に選り分けた。元々体が大きく、産声もよく響いたコウヤは、はきはきとして賢い、人に好かれる子供に成長する。きちんと新しい服を着て、誕生日にはケーキで祝われた。僕はその逆で、部屋の隅でひたすら小さくなって、息を殺して尚ストレスを溜めた両親から頻繁に殴られ、蹴られた。同情かもしれないけれど、コウヤだけが僕に優しい。そんな世界だったのに。
(――酒に酔った父親がとうとう包丁を持ち出し、僕を刻もうとした瞬間。2人の間にコウヤが割って入り、僕を庇った。距離感が狂い、背中に深々と刺さった刃物が動転した加害者によって引き抜かれた途端に。真っ赤な動脈血が噴き出す。力が失われていく“兄”の目を、只僕は見つめ返すしかなかった)
(――逮捕された両親はそのまま片方は自殺、もうし1人も呆気なく病死して。それからだ。僕が“鼻が利く”様になったのは)
『忘れるな、イズミ。…お前は僕を殺したんだ』
III
(『…何だ、驚いたな。俺に何か用?“ミイラ男”さん』)
イズミがあの日、駅のホームで俺を掴んだ時。随分久しぶりに“人間”と関わった実感があった。一線を越えようとしたきっかけは、只ひたすらに“サミシイ”と感じたからだ。母親は、異常な息子と電話で話す時でさえ不快感を隠さず、挙句受話器を置く直前に、俺の事を間違えて“エイタ”と呼び、そのまま修正もしなかった。その瞬間、俺はこの世界で一人ぼっちになった気がして、泣こうとしても泣けない自分を恨んだ。
(『――今日も来たのか、イズミ』)
(『来なくちゃいけない様な態度を取っているのは君だよ』)
初めて目が合った時、その瞳が不純物0の蒸留水の様に澄んでいて。学校でも遠巻きにされている自分をきっ、と睨んだイズミは美しかったから。老人の代わりに線路に突き落とそうか逡巡した手が止まってしまった。
「…勝手にあった食材、使ったからね、エイスケ。デミグラスソース、もう買い置き無いよ」
「別に言わなくていいさ。金だけは不自由してないからな」
イズミは俺にヒトを殺させない為に、毎日律儀に家に“見回り”に来る。1人きりの寒々とした部屋が最近僅かに温い様に錯覚して、精神は落ち着いていたけれど、何処にも行かせない為に、また俺は小動物を殺して見せる。
「レシピ、ネットで見たのか?此処に転がり込んだ時は、もっと不味かったのに。――大分マシになったな」
「回数を重ねてるからだよ。…お陰様で」
目の前に置かれた煮込み料理の皿からは、美味そうな香りが立ち上る。知らずごくり、と唾液を飲み込む。俺は酷い潔癖症で掃除は徹底的にやる一方、食事に関してはウィダーinやレトルトで済ませる事に抵抗は無かった。イズミも(詳しい事は聞けないが)1日1食、つまり学食しか口にしない日常を送っていたらしいが、何故かこの家では律儀に毎日夕食を作っている。包丁で切れた指先に何枚も絆創膏を貼りながら。顔色も大分良くなったが、それでも首元や掌にアザは絶えない。決して自分の名字を教えようとはしない辺り、碌でもない家庭環境なのは察しがついたが。『帰らなければいいじゃないか』と声を掛けても、『有難う』と笑って、また来た道を戻っていく。…実は一度だけ後をつけた事があった。15分も歩けば、やたらとボロボロな癖に大きな平屋建てに辿り着いて、イズミが其処に入って数十秒後には怒鳴り声と皿が割れる音が響いた。――俺は助けなかった。誰でもない、イズミ本人が、手助けを求めない事を知っていたから。命の危険さえなければ、其れでいい。解決しなくても、また同じ日常を繰り返せれば其れだけで幸せだった。…けれど。
『この野郎、一体何処の女の所に転がり込んでやがる。色気づきやがって!!誰が学費を払ってやってると思ってんだ!!』
PM8:30。ここ2日間、イズミは家に来なかった。“殺されやしないか”と例の平屋に様子を窺いに来れば、極薄のレースのカーテンに仕切られた向こうに、食堂で椅子にロープで縛られているらしい痩せた体が蛍光灯に照らし出されていた。もう拘束されてから随分経つのか、憔悴しきった様子で俯きピクリともしないイズミを、ヒステリックに男が口撃している最中。軋む内扉をなるたけ静かに開き、身を屈めて窓際まで忍び寄った。
(――本当は、この時点では“何もしない”という選択肢もあったのだ。数秒後、女の楽しげな一言が聞こえるまでは。)
(――『ほら、湯が沸いたよ!!』キッチンから、女が大股に歩いてくる。『イズミ、アンタずっと風呂に入ってなくて気持ち悪いだろ?私らがきちんと“消毒”してやるからさぁ…』)
…俺の頭の中で、何かが弾ける音がした。
IV
――ドッペルゲンガーという、有名な単語がある。自分によく似た顔立ちの他人に会うと、どちらか一方は死んでしまうのだ、と。眉を吊り上げ、歯をむき出して吠えた“オジサン”を見つめ、ただ首を絞められながら僕はそんな事を考えていた。今までは“そんな怖いモノ、絶対に会いたくない”という一般論に共感していたけれど。エイスケ――多分本質がうり二つの片割れに出会って。“短い間でもいいから。…本当に自分を認めてくれる相手が居れば、それで満足だ”なんて。馬鹿馬鹿しい惚気に、自嘲する。コウヤは、僕があんまり我儘を言うから、大分前に黙り込んでしまった。片足を突っこんでしまった“向こう”で、どんな顔をして待っているんだろう?
「ほら、湯が沸いたよ!!――イズミ、アンタずっと風呂に入ってなくて気持ち悪いだろ?私らがきちんと“消毒”してやるからさぁ…」
「…エイスケは泣いてくれるかなぁ」
ぼそり、と呟いた、こんなクズそのものの思考に、“消毒”という台詞は言いえて妙だった。近付くヤカンの熱気に、水の揺れる音に。呆気ない程簡単に、走馬灯が始まりかけた。その瞬間。…この世で一番美しい死神を、僕は見たのだ。
(――くすんだ刃が、窓の向こうで瞬いて。同時にその先端が、ばきり、ともざくり、ともつかない感触で硬質のガラスを叩き割る。)
(――『ミイラ男の親は、本当のバケモノだったんだな』。外から窓の鍵を開き、土足で床に上り込み。吐き捨てたエイスケの目は酷薄そのものだった。『…ヒトデナシの腐れた内臓、俺が捌き出してやるよ!』)
“駄目だ”。赤と黒。エイスケの手が、顔が、服が。汚れてしまう。一切容赦のない殺意に、皮膚が裂け、肉が切れ、血が噴き出す。溢れだした、悲鳴。…全てが網膜に焼きついていく。そして。ほんの数十秒で、散々僕を苛んだ夫婦は只のモノに成り果てた。もう救命なんて思いもよらない、無様な姿だった。
「悪かった。…もう俺は、お前の事を殺せない」エイスケは最後に水道で手とナイフを洗い、僕の縄を解いてくれた。「何の事は無かったんだな。ネコでも人間でも。こんな下らない欲の為に、イズミは解剖できない」
エイスケ、と唇が動いたのに、溢れたのは只の喘鳴でしかなかった。そんな僕の頬を一撫でし、そっと笑って。ある意味僕のカミサマは踵を返し、夜道を駆け出していく。僕は反射的に追いかけた。“さもないと、もう二度と彼に会えない”と嗅覚がつげていたからだ。まだ関節が動き辛かったけれど、決して足は止めまいと、動く、動く。…だのに、距離は広がるばかりだ。ひたすらに、前だけを見た。
(――“見失った”。そう思ったのは町の外れ。小高い廃ビル群に囲まれ、周囲を確認する。…瞬間、僕は小石が靴底に噛まれる音に、勢いよく上を仰ぎ見た。)
(――『じゃあな、5月のドッペルゲンガー』最期の時。フェンスの外側でぐらり、と傾いだ影すら、僕には愛しかった。背にした三日月すら、霞んで見えた。『愛してるよ、イズミ』)
…ぐしゃり、と。椿の花の様にアスファルトに叩きつけられ、バラバラになった体を眺めて。その中で割れた頭を見つけ、僕はそれを抱き上げ頬にキスをした。エイスケの遺体は悪臭じゃなかった。何処か甘く、凛々しい香りがした。
「ほら、あの子よ。××家惨殺事件の生き残りですって。…虐待されてたらしいし、容疑者の高校生とも通じてたって噂。…ほら、どう見てもマトモな顔をしてないじゃない?」
『ほら、またお前の噂だ。…随分“人気者”になったじゃないか?初めから僕の言う事を聞いていれば良かったんだよ』
1ヶ月が過ぎた。また2人きりに戻ってから、コウヤは『自分の事を軽んじた』と僕の事を徹底的に敵視し始めた。押入れ以外の場所では姿は見えない。それでも声は妙にぐわんぐわんと反響して頭の奥の奥を叩いた。僕は無視してスーパーでの買い物を続けた。未だに料理の楽しさを忘れられないのだ。多分エイスケは僕が彼の財布を持ち出した事を叱りはしないだろう。時間は無い。次の親類に押し付けられる前に。僕は何処に脱出しようか、それにばかり集中していた。
「“四六時中幻聴が聞こえてる”って考える事にするよ。“兄さん”は僕に優しい自分に酔ってただけなんだ」
“こちらこそ有難う、さらば5月のドッペルさん”。…今でもたまに、『エイスケが側に居るな』と思う事はあるけれど。
Goodbye May Doppelganger.
2014/10/3~10/5