給料
初めてもらったお給料を袋に入ったまま陣に渡した。
陣は黙ってそれを受け取り、顔をしかめた。
「十万しか入ってない」
「え?」
航平は明細を見て愕然とした。
「どうして……」
呆然とする。もしかしたら、本当にやばいのかもしれない。
陣は中から一万円だけ抜き取ると航平に渡した。
「ほら」
「でも、いいの?」
「お前も困るだろ」
一万円を手に入れて航平はほっとした。
これで食費が買える。
ずっとお弁当だったから、陣の体が心配だった。
「ありがとう」
嬉しそうに笑うと、陣が頭を撫でた。
優しい手つきにうっとりする。
「おじさんたちは元気か? ちゃんと連絡してるのか?」
「え…」
急に現実に引き戻される。
「あ、うん。してるよ」
「本当か? 嘘じゃないだろうな」
「本当だよ。姉ちゃんと父ちゃんは仕事人間だから。たぶん、俺の事なんて忘れてるよ」
「おばさんは一人きりでさみしいんじゃないか?」
母の話題に触れられて航平は体が硬直した。
「どうした?」
「離婚……したんだ。母ちゃんは今どこにいるか知らない」
「え?」
陣が航平の顔を覗き込む。
「いつ?」
「二人がいなくなってすぐ」
「拓巳は知っているのか」
拓巳には知らせてある。もちろん、二人の血が繋がっている話もしてある。
無言で頷くと、陣がイライラしたようにため息をついた。
「俺の知らない事ばかりだな」
突き放した言い方にむっとした。
「じ、陣がどこにいたかここに来るまで知らなかったから」
「拓巳に聞けばよかったじゃないか」
「じゃ、じゃあ、陣のお母さんはどこだよ。一緒に東京に出てきたんだろ」
「死んだよ。この部屋で」
あまりに冷たい言い方にぞっとした。
「嘘…」
「本当だよ。過労で死んだ」
航平は陣に抱きついた。
「ごめんっ。陣、ごめんっ」
「謝るなよ。俺も黙っていたんだから」
「ごめんっ」
知らなかった。おばさんが亡くなったなんて。
知らなくて、ごめん。
陣と一日中一緒にいたくて、月曜日から土曜日は一日も休まないで、日曜日だけ休みをもらっていた。
今日は一日、陣と一緒にいられる。
航平は朝から桃のコンポートを作った。
昨日、仕事の帰りに桃を安く手に入れたのだ。
ガスコンロを引っ張り出して、小さな鍋を置いて火にかける。
レモンを細かく刻み同じように刻んだオレンジとグラニュー糖を水から入れて煮たす。それから、綺麗に皮をむいた桃を静かに入れた。
ぷかりぷかりと桃が浮かぶ。
弱火でじっくり煮ていると、部屋の中を甘い桃の匂いがあふれ出した。
まだ、眠っていた陣が寝返りを打って体を伸ばした。
「何してるんだ…?」
寝ぼけ眼で近づいてきて、鍋を覗き込む。
「それ何だ? どっかで見た事がある気がする」
航平はシェフに教わったばかりの桃のコンポートをじっくり煮た後、荒熱をとるために火を消した。
「桃缶。ほら、スーパーで売ってるだろ」
「ああ、あれか…」
陣の中で一つになったのだろう。納得したように頷いている。
「この間、シェフに教わったんだ。桃って高級品だろ、昨日、八百屋をのぞいたら運よく棚落ち品が出ていたから買ったんだ。こうして火を通して冷やしておけば長持ちするしさ。後で、冷やして食べようね」
小さいけれど保冷温庫を粗大ゴミ置場から拝借してきた。
まだ使えるそれにコンフィチュールやお茶を入れて冷やしておいた。
粗熱が取れたらすぐに冷やそう。
陣の腕がそっと伸びて航平を背後から抱きしめた。
「航平……」
熱い息が首筋にかかる。
「ど、どうしたんだよ…」
航平はドキドキしながら顔を伏せた。こんな赤い顔、朝から見られたくない。
「言いたい事がある」
言いたい事? 怖くて手が震えた。
顔を上げられない。出て行けと今言われたら、本気にしてしまう。
「航平…。お前、本当は何が目的でここに来たんだ」
陣が訊ねる。
航平は観念して顔を上げた。
言いたい。ずっと好きだったと言いたくて、ここに来たんだと言ってしまいたい。
「航平……」
口を開いた時、ジリリリとけたたましく目覚ましが鳴り響いた。
二人は飛び跳ねるように驚いて顔を見合わせた。プッと二人で吹き出す。
「うるさいよ、陣」
「分かってる」
陣が時計を止めに部屋に戻った。




