廃棄
次の日、勇ましく職場に行ったもののやる事は変わらなかった。
掃除ばかり。それでも、少し慣れた気がする。
同じ一日を過ごし、家に帰ると陣が抱きしめてくれる。
幸せだった。
求められる事がこんなにうれしいなんて、知らなかった。
仕事の方は、ケーキの名前も値段も全部覚えて、だいぶはかどるようになると、開店までに時間が余るようになった。
航平はシェフに何か手伝える仕事はないかと聞くと、いきなりコンフィチュールを作ってみろと言われた。
突然、仕事を振られて、航平はごくりとつばを呑んだ。
大切な仕事を任された気がした。
少し痛んで使えない苺を綺麗に洗い鍋に入れる。グラニュー糖を分量通り入れて煮詰める。焦がさないようにそっとかき混ぜながら、漂い始めた甘酸っぱい匂いに息を吸い込んだ。
味見をすると、苺の旨さがぎゅっと詰ったとろりとしたジャムが出来た。陣にも食べさせてあげたい。ふっくらとした食パンに塗ったらおいしいだろうな。
よだれが出そうになって、慌てて首を振った。
一瓶作るのに十五分くらいかかるが、開店までには余裕がある。
コンフィチュール作りに夢中になっていると、パティシエに次からはお前に任せるぞと言われた。
「は、はいっ」
嬉しくてたまらない。
コンフィチュールを煮沸消毒してある瓶に流し込みながら、ため息をついた。
陣に会いたい。今すぐ会いたい。
「航平、時間だぞ。店に出ろっ」
怒鳴られて飛び上った。
「は、はいっ」
パリッとした洗いたての制服を着て店内へと出る。
航平は与えられた時間内に出来る事をしようと思った。
お金がないから制服は各自で洗わせているが、みんなあまり清潔ではない格好をしている。
だから、店の裏に置いてあった洗濯機を使って、空いた時間に制服を洗った。
店内は毎日掃除をして、狭苦しく並べてあったケーキも間隔をあけて、手作りのポップをかざってみた。
誕生日の注文が入ると、それをお祝いするお店の前に看板を出して宣伝をする。
売り上げが一パーセントでも上がる事を祈りながら、すべて手作りにした。
従業員はずぼらな人が多いのか、航平のやる事にいちいち口を出す人はいなかった。
せめて、一緒に手伝ってくれたらと思うのだが、みんな、へっちを見るだけ。
「いらっしゃいませ。あ」
常連のお客様が来た。
駅前のケーキ屋の少女だ。彼女は航平の顔を覚えていてにっこり笑った。
「ショコラはないの?」
今日で五人目だ。
「あ、あいにく今日は品切れです」
「あら、いつ来てもないわよ」
彼女は決して怒っていない。
いたずらっぽく笑って言った。
「ごめんなさい。作れる人がいないんです」
「シェフは?」
「お休みです」
「残念。わたし、あれが大好きなの」
彼女が言うのも無理はない。
ショコラは売れ筋ナンバーワンの商品だった。
先日、朝の仕込みの時間帯でレモンを丁寧に洗っていると、拓巳が入ってきた。制服にも着替えずに私服だった。
その上、なんだか青白い顔をしていて、覇気がない。
航平は胸騒ぎがした。
「みんな、集まってくれ」
拓巳がいつものように今日の一日のスケジュールを読み上げていく。残念な事にその日も特注はなかった。
「最近、廃棄が多いから品数減らす事にした。新商品と今月のお勧めはそのままで、ショートケーキとモンブラン、チーズケーキは通常通り、シュークリームは多めに作っておけ」
航平は品数が半分減った事にびっくりした。
しかも、テレビ王で優勝した時の『ショコラ』が欠品になっている。
『ショコラ』は、ふわふわのスポンジを台座にして、キャラメル風味のムースを丸い形に冷やし、その間に、ほどよい酸味が出るように薄くスライスした苺を敷き詰める。
下に生チョコと胡桃を混ぜて作ったクリームを挟むと、純チョコレートで綺麗にコーティングした上に、シェフが得意とする繊細な飴細工を少し絡めた、見た目もすばらしいケーキだった。
それを欠品にするなんて、信じられない。
拓巳は見ているこちらが気の毒になるくらいやつれていた。
厨房にも立たず、事務所にこもったままだ。
『ショコラ』は誰にも作る事はできない。
彼のオリジナル商品だった。
拓巳は自分の仕事はこれで終わりとばかりに、それだけ告げるとのろのろと厨房を出て行った。
厨房の中では、みんなやる気をなくしたように息をついた。
何も言わないが、心の中で何かを溜めているそんな雰囲気が漂っている。
「あなた、作れないの?」
「え?」
「あなた、シェフの弟さんじゃないの? そっくりだもの」
少女がほんのりと頬を染めて言った。
航平は身動きできずに彼女の小さな唇を見つめていた。




