瀬戸際に追い込まれる者
サーと心地良い風が吹き、アレシアの髪を揺らす。あれから数分経つが、一向にエルダントが来る気配はない。準備に手間取ってるのかな、と思いながらもついこう呟いてしまう。
「遅いなぁ…」
そんな時、コツン、コツンと誰かの足音が鳴った。足音は次第に彼女の方へと近づき、そして立ち止まる。
「……?」
それに気が付いたアレシアは足音が聞こえた方へと視線を向けた。
「ッ!?」
そこには全身黒ずくめの人物が立っていた。顔はフードで隠されよく分からないが小柄なアレシアと比べると親子に思える程に大きな身長差がある。だが、何よりもアレシアが驚いたのはそこではない。その人物が握っている物。太陽に照らされ嫌に輝くナイフ。刃渡り十センチはあろう長さだ。
アレシアはこの人物を見たことがある。昨晩、男性の遺体から心臓を取り出していた殺人鬼。悦楽殺人鬼。エルダントの話では焼死体で発見されたとアレシアは聞かされていた。
「……」
殺人鬼はまるで当たり前かのようにナイフを静かに振り上げると、獲物に狙いを定める。早く逃げなくては…。アレシアは足を動かそうとする。しかし、恐怖ですくんで言うことを聞かない。
「誰か…」
力のない声で助けを呼ぶが、誰も助けに来る気配はない。恐る恐る周りを見てみると、アレシアは自分の目を疑った。あんなに人が通っていた道がいつの間にか人一人いなかった。
「……何で?」
アレシアの中で絶望と言う名の液体が体全体に広がっていく気がした。
殺人鬼は何も言わずナイフを逆さに持ち直し、彼女に振り下ろす。アレシアはギュッと固く目を閉じ、自らの死を覚悟した。
だが、数秒経過したが一向に痛みは伝わってこない。感覚もある。ゆっくりとアレシアは目を開ける。
すると、思ってもいない光景が広がっていた。アレシアに向けられたナイフが彼女の目の前で停止していたのだ。殺人鬼が自ら止めるはずもない。アレシアはよく殺人鬼の手を確認してみると誰かの手が殺人鬼の手を掴んでいた。
誰が掴んでいるのか確認しようと視線を移動させた時だった。ドォォンと言う音と共に殺人鬼の体は吹っ飛んだ。
「大丈夫ですかアレシアさん!」
すると、聞き覚えのある声が響いた。
「エルダントさん!」
右手を突き出したエルダントが厳しい表情で立っていた。恐らく殺人鬼を吹っ飛ばしたのはエルダントだと言うのが分かる。
「アレシアさん、急いで中に戻ってください!」
チラッとアレシアの方を見ると、すぐに殺人鬼の方へと向き直った。殺人鬼はすぐに体を起こし裾から新しいナイフを取り出す。
「でもそれじゃあエルダントさんが……」
「大丈夫です!悦楽殺人鬼であろうとも私は治安を守る人間なのですから!こんな奴には負けません!」
「わ、分かりました。気を付けてください」
アレシアは心配そうな表情を浮かべるがここはエルダントの行為を無駄にしないように取り調べを受けた建物へと入って行った。
――――――――――――――――
アレシアは廊下を突き進んでいた。走り走り走りまくる。さっきまで人がいた建物の中も誰もいない。さっきの外と同じ状況だ。まるで自分だけが別の世界に迷い込んでしまった気分だ。
外の方ではパン、パンと乾いた音が聞こえてくる。エルダントが殺人鬼と戦ってるのだろう。アレシアは自分の下唇を噛み、自分の不甲斐なさを呪った。
アレシアは目の前に見えた階段を駆け上がり、再び見えた廊下を走る。とにかく自分が身を潜められる場所を探すことに専念しなくてはならない。決してエルダントの事を信用してない訳ではないが、もし殺人鬼がこの建物に入ってきたら逃げる場所が限られてくる。
ハァ…ハァ…と息の方もそろそろ上がってきた。アレシアは手近にあった部屋へと飛び込み、扉を閉める。鍵もしっかりかけると、ホッとしたのか扉にもたれるように座り込んだ。
少しの間肩で息をするが、頭を左右に振り気合を入れる。
「まだだ……早く…応援を呼ばないと」
そう呟くと、この部屋をよく確認した。部屋は資料室か何かか、本棚がひたすら並んでいた。外と比べると妙に薄暗い。不安が募るが今はそうは言ってられない。
アレシアは立ち上がり、キョロキョロと何か探し始める。すると、目当ての物が見つかったのか少し表情が明るくなる。アレシアは大きな長机に近づき、ある物を手に取った。
それはインク。この世界は物を書く時、羽ペンとインクをセットで使う。だがしかし、生憎にもこの場にはなぜか羽ペンがない。辺りを見渡すアレシアだがどこにも見当たらない。
仕方ないと思い、アレシアはインクの入った容器に人差し指を突っ込み、繊細で綺麗な指を真黒に染め上げる。そして、その指で机に何か書き始めた。指に付いているインクが乾くとまたインクを付け書き始める。
そして、出来た…と呟くアレシア。机にはこの世界の言葉が書かれていた。
アレシアはスッと目を閉じると、こう呟いた。
「コ―リング、118774」
書かれた文字が青白く光り始める。しかし、起こったのはそれだけだ。しばらくの間、ずーとその状態でいるのだけで何の変化もない。アレシアはそんな…と絶望に満ちた表情をするとペタリと座り込んだ。
「なんで…繋がらないの?」
絶望に打ち伏される彼女に追い打ちをかけるようにドン!ドン!ドン!と扉を叩く音が聞こえてきた。頭の中が真っ白になった。次第に体も震え始め、自分で落ち着かせることができない状態だ。
扉を叩く音は次第に大きくなり、そして。
ドシャン!!!
アレシアの背後で扉が破られた。
もう駄目だ。もう終わりだ。頭の中で負の文字が浮かんで止まらない。その時、ポタッポタッと液体が床に落ちる音が聞こえた。音のした方へとみると、発生源は自分の足元。それを見て、アレシアは悟った。
(あぁ…そうか。私……泣いてるんだ)
目に涙を溜め、頬に流していた。これは恐怖で流しているのか、それとも悔しくて泣いているのか、それは彼女自身分からない。だが、これだけは言えた。
「好きって……言いたかったなぁ……」
その時だった。
「アレシアぁぁ!!どこだぁぁ!!」
突然聞こえてきた声に驚き、アレシアは立ち上がった。そして、その声の主を見るとアレシアは唖然とした。扉の前にいたのは守だった。
「守君ッ!?」
思わずそう叫ぶアレシア。その少女の表情は嬉しいと言うよりも驚きに近かった。それもそのはず、守の腹部に巻かれた包帯が真っ赤に染まりそこから血が滴り落ちている。
「大丈夫か、アレシア……」
そう言いながらヨロヨロとアレシアに近づく守。アレシアは急いで守に近づき、倒れないよう体を支える。すると、アレシアが守の体に触れた瞬間目を見開いた。
「すごい熱だよ!それにその傷……早く手当てしないと!」
「いや、いい。それよりもお前大丈夫か!?何もなかったか!?」
見た目が酷い割によく話す守。声を荒らげるだけで傷口から血がどんどん滴り落ちる。
「お、落ち着いて守君!」
それを見たアレシアはとりあえず守に横になるよう催促するのであった。