最善の選択
ハァ…ハァ…!!と暗闇の細道を守とアレシアは走っていた。後ろからは殺人鬼がヒタ…ヒタ…と裸足で歩くような足音を響かせながら近づいてくる。
守は額から大量の汗を流しながら、後ろを振り向いた。真っ暗な闇がただ広がっているだけで、まだ奴は来ていない。しかし、確実に迫ってきているのは確か…。
守は前を走るアレシアに声を掛ける。
「なぁアレシア!この袋中の物ちょっと借りるぞ!」
「えっ!?う、うん!」
アレシアの返事が聞こえた所で守は紙袋の中を探った。殺人鬼がここまで来ているなら、手ぶらでいるのは危ないと思ったのだろう。アレシアはアレシアで魔術は扱えるが、あの殺人鬼を倒すような魔術は使えない。つまり、この状況を変えるにはアレシアの持ち物しかないのだ。
守は紙袋の中を手探りで一つ一つ調べていく。
袋の中に入っていたのは、マッチ、枕、ランプ、カード、クマのぬいぐるみ、本、白い粉。
「アレシア!この白い粉は!?」
チラチラと後ろを確認しながら、守はアレシアに問いかけた。
「それは亜鉛だよ!魔術の実習に必要だから買ったの!!」
守はなるほどな、と呟くとアレシアにこう言い始めた。
「アレシア!後で追いつくから大通りに出たら思いっきり人を呼んで来い!」
「ッ!?」
守の言葉に、アレシアは驚きを隠せず彼の顔を見た。真剣な表情でアレシアを見る守。
「そんなことしちゃダメ!!死んじゃうかもしれないんだよ!?」
信じられないとでも言いたそうな表情を浮かべるアレシアは強い口調で言う。しかし、彼の表情は崩れない。ずっとアレシアを見たままだ。
「このまま二人で死ぬよりはよっぽどマシだと思うね!あの野郎、歩いてる割にどんどん俺たちとの距離を詰めてるぜ!?」
「……!?」
ヒタ…ヒタヒタ…ヒタ…。
耳を澄ませば、足音が聞こえてくる。しかも、聴けば聴くだけ足音が大きくなっている気がしてきた。いよいよ決断しなければならない。
でなければ、死。
それだけで、アレシアの背筋は凍った。
「分かったろ。たぶんこのまま行けば追いつかれて終わりだ!誰かがここで足止めしなくちゃならない!」
「じゃ、じゃあ…私が足止めするよ!授業で魔術はそれなりに習ってるし!!」
「ダメだ!それはあくまで魔術が相手に効くかどうかの話だ!相手は殺人鬼だ!魔術師と戦ってない訳ないだろ!それに、お前の話を聞く限りには裏を返せば魔術以外何もできないってことにもなる!」
その言葉に、アレシアは前を向いて俯いた。
厳しい言葉かもしれないのだが、今の守にとってはこれは仕方のないことなのだ。できるだけ良い選択をしたい。
「…でも…!」
アレシアも食い下がる。
だが、
「いい加減にしろ!!これは生きるか死ぬかの選択なんだ!善意だけで敵わない相手に何も考えず戦うなんて馬鹿のすることだ!」
守は黙らせた。
その時、
「ッ!?」
守の後ろから何かが伸びてきた。それはまるで蛇のように守の首に纏わり付き、彼の体を持ち上げた。そして、首に何かが纏わり付きながら守は壁に勢いよく押し当てられる。
「守君ッ!?」
後ろで起こっている異変に気付いたアレシアが振り返る。その瞬間、アレシアは恐怖した。そこには、さっきまでいなかったはずの黒いフードを被った人物が守を片手で持ち上げ、壁に押し当てているのだ。
「に……げ……ろ……ッ!」
顔を歪ませながら、守は声を必死に振り絞ってアレシアに伝える。
「あっ……」
しかし、アレシアは殺人鬼に戦き返事が出来ない。
その時、殺人鬼は自然な動作で裾からナイフを取り出した。ナイフはさっきまで人を殺していた、と語るかのように血で染められ、雲の隙間から出る月の光に当てられ不気味に輝く。
「クッ…!」
守は必死の抵抗で殺人鬼の胴体を思いっきり足で押した。すると、殺人鬼の体は紙でも飛ばすかのようにいとも容易く吹っ飛んだ。殺人鬼の体は向かい側の壁に叩き付けられ、座り込むような形で動きを停止した。
ドンッ!と尻から着地した守はゲホゲホと咳き込む。だが、くっ…と唸りながらすぐに立ち上がりアレシアの元へと近づく。
「大丈夫かアレシア!」
「う…うん」
返事が返ってきたことにとりあえず安心した。もしここで気絶でもされたら、守はアレシアを守りながら逃げなくてはならない。
その時、大人しく座っていた殺人鬼がよろよろと動き始めた。
「大丈夫なら早く人を呼んできてくれ!アイツは俺で何とかするから!!」
守の中に焦りの色が浮かんでくる。
(早くアレシアを逃がさないと…)
アレシアがここに残っては非常に戦いずらい。邪魔と言うのもない訳ではないのだが、守が一番懸念しているのは彼女が怪我をしてしまうこと。これから行う戦闘は多分、ほとんどの確率で怪我をする。もっとひどいと、死なせてしまうかもしれない。
「そ、そんなっ!」
アレシアが心配そうな顔で守を見る。
「大丈夫だ。俺にはアイツを撒ける策がある!」
その言葉でアレシアの心は折れ、ゆっくりだが首を縦に振った。
「でも、これだけは約束して……」
「……?」
アレシアはしっかりと守を見据え、こう言う。
「……絶対生きてね」
彼女の表情は真剣だった。アレシアは本当に守の事を心配している。今までに女子にこんな心配されたことはなかったため、不謹慎かもしれないが正直嬉しい守。だから、彼女のその気持ちに応えなくてはならない。
「おう!!」
守が元気良くそう返事をするとアレシアはフッと微笑んだ。そして、アレシアはその場から離れていく。
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守と悦楽殺人鬼、二人は睨み合ったまま動きを見せない。ピリピリとした空気がこの場を支配し、動くことすら悲痛に思えてくるくらいに重く感じる。
だが、そんな空気の中で守はこう言い放った。
「どうせお前は捕まる。大人しくしたらどうだ殺人鬼さん?」
紙袋の中の物をガサガサと漁りながら、挑発をする守。とにかく、今は相手の出方を窺うしかない。
「……」
殺人鬼は何も言わない。ただ黙って守との距離を詰めようと歩き始めた。片手には血塗られたナイフ。もう片方の手にはどこから取り出したのか銀色に光るナイフが握られている。
徐々に進む速度が上がると思えば一気にダッシュ。気づけば守との距離は二、三メートル位だ。
守は待っていた!と言わんばかりの笑みを浮かべると、紙袋からランプを取り出し、迫りくる殺人鬼に…。
「オラァァァ!!」
ランプを思いっきり横に振る。
パリィィィン!!!
「……」
ランプが殺人鬼のこめかみ辺りに直撃。ガラスが砕け散り、ランプの油が飛散。殺人鬼はその場に倒れこんだ。
「うまく引っ掛かったな」
守は安堵のため息を吐いた。この攻撃なら普通の人なら伸びてるだろう。殺人鬼も普通の人間と同じ作りだからどういう原理で気絶するかも、いとも簡単に予想が出来る。だが。
「ッ!?」
ガシッ、と守の足首に違和感を感じる。そう、それはまさに乾いていて生地の荒い布で擦られたような感触が守を襲った。
まさか…と思いながら守は視線を足元へと向ける。
そこには緑色に変色した細い手が守の足首を握っていた。しかも細い腕の割には握力が強い。
「渋てぇ!!」
守は掴まれている足を振り上げ、そのまま殺人鬼の顔面へと蹴り上げた。殺人鬼は手を離し、大きく仰け反って仰向けに倒れた。
だが、すぐに殺人鬼は起き上がり始める。
その様子を見て、今までにない位に守は背筋がゾッとした。この殺人鬼から生気が感じられない。むしろ、ネットリとした物が纏わりつくような嫌なオーラがあの殺人鬼から放たれている。
その時だ。
どこから吹いたのか、風が殺人鬼のフードを脱がせた。守もこの時は予想はしなかっただろう。まさかこの殺人鬼が死ぬことはない不死身の存在であることを。そして、その殺人鬼は人とはかけ離れた顔をしていたことに。
「……嘘だろ?」
守は目の前に映し出された光景を見て唖然としていた。それと同時に納得もした。
(道理で気味の悪い雰囲気が漂ってる訳だ……コイツ…)
守は紙袋の中をゴソゴソと探りながらある物を取り出した。それは、マッチ。魔術に使う予定だったのだろう。守はそのケースからマッチ棒を取り出し、擦った。
ボッ、と燃える火の光が辺りを明るく照らし、守の目の前にいる殺人鬼の顔が暴かれた。
「……死んでる」