俺のSAN値はとっくにない
蝉が、うるさい。
夕方だというのに、うだるような暑さは少しも和らいでいなかった。
「あっつ……」
警察官は額に浮いた汗を拭い、手元のメモへ目を落とした。
このマンションの一室から、飼育されていたヘビが逃げ出した。
体長はおよそ二メートル。
大きさだけ聞けばぎょっとするが、元々おとなしい種類で、人を襲うようなヘビではないらしい。
とはいえ、ここは多くの人が暮らすマンションだ。
突然目の前に現れれば驚いて怪我をするかもしれないし、子どもが不用意に近づく可能性もある。
どこかの部屋へ入り込んでいる可能性も考え、こうして一軒ずつ確認して回っているのだが。
「あと、どんだけ回ればいいんだよ……」
思わず愚痴が漏れる。
外は暑いし、蝉もうるさい。
声がけする部屋は、まだ何件も残っている。
「……まあ、市民の平和のためだ。しゃーないな」
誰に聞かせるでもなく呟いて、次の部屋へ向かう。
ここは七階。
手元のメモと部屋番号を確認してから、インターホンを押した。
ピンポーン。
少しして、部屋の奥からぱたぱたと足音が近づいてくる。
「はーい」
若い女性の声。
扉が開いた。
「すみません、警察です。少しお話を伺ってもよろしいですか?」
「はい。なんでしょう?」
「実は、このマンションの住人が飼っていたヘビが逃げまして」
「ヘビ?」
「はい。こちらなんですが」
警察官は手にしていたファイルから、一枚の写真を取り出した。
飼い主から提供された写真を複製したものだ。
「体長は二メートルほどあります。見かけていませんか?」
女性は写真を覗き込む。
「うーん……見てないですね」
「おとなしい種類なので、向こうから人を襲うようなことはまずないそうです。ただ、どこに入り込んでいるか分からないので、念のため確認して回っていまして」
「そうなんですね」
「もし見かけても、驚いて手を出したりせず、すぐに連絡してください」
「はい、わかりました」
これで、この部屋も終わり。
そう思ったときだった。
「きゅうー」
部屋の奥から、妙な音が聞こえた。
「…………」
一瞬、動物の鳴き声かと思った。
「あ、ちょっと待っててー」
女性が、部屋の奥へ向かって声をかける。
「……何か飼ってるんですか?」
「いえ?」
「今、鳴き声が……」
「ああ。彼氏です」
「…………彼氏?」
「はい。同棲してるんです〜」
女性は、幸せそうに笑った。
「……そうですか」
思わず、部屋の奥へ視線を向ける。
玄関からまっすぐに廊下が伸び、その先にリビングがあるようだった。
だが、ここからでは中までは見えない。
聞き間違いだろうか。
先ほどの音は、人の声というより、どちらかといえば動物の鳴き声に近かった。
妙な違和感は残ったものの、人にはそれぞれ事情がある。
声が出しづらいのかもしれないし、自分には分からない理由があるのかもしれない。
わざわざ踏み込んで聞くようなことでもないだろう。
「では、お時間いただきありがとうございました。また何かありましたら──」
そう言いかけて。
「…………?」
視界の端で、何かが動いた。
廊下の先に見える、リビングに置かれた大きなテレビ。
電源の落ちた黒い画面に、細長い何かが映り込んでいる。
「…………」
目を凝らすと黒い画面の中で、それはゆっくりと動いていた。
(……ヘビ?)
まさか、この部屋に入り込んでいたのか。
しかし、よく見ると何かがおかしい。
その細長い何かは一本ではなく、二本、三本といくつも蠢いている。その根元には、大きな影のようなものまであった。
「…………」
少なくとも、先ほど聞いた彼氏にしては、人の形をしていない。
「……あの」
「はい?」
「部屋の奥に、何かいませんか?」
「え?」
「テレビに、何か映っているようなんですが」
女性が振り返り、テレビを見る。
「ああ、彼ですよ」
「…………」
「さっき話した彼氏です」
「……あれが?」
「はい」
女性は、何でもないことのように頷いた。
警察官はもう一度、テレビを見る。
やはり、人の姿には見えない。
反射しているだけで、はっきりとは分からないが、細長いものが何本も動いている。
家具か何かと重なって、妙な形に見えているだけなのだろうか。
それとも、本当に。
「……すみません。念のため、中を確認させてもらってもいいですか?」
「え?」
女性が怪訝そうに眉を寄せた。
「中を、ですか?」
「はい。少し確認するだけです」
「…………」
女性は一度、部屋の奥へ目を向けた。
何を確認するのだろう。
そんな疑問が、その表情に浮かんでいる。
だが、少しして。
「……まあ、いいですけど」
そう答えると、女性は部屋の奥へ向かって声を張った。
「修也ー」
「きゅ?」
「警察の人、ちょっと中に入るって」
「…………」
一瞬、部屋の奥が静かになった。
「きゅっ!?」
先ほどまでとは違う、明らかに慌てたような鳴き声。
同時に、テレビの中の影が大きく動いた。
「…………!」
何本もの細長いものが、わたわたと蠢く。
その全てが、一つの大きな影から伸びている。
(……なんだ、あれ)
先ほどは、ヘビかと思った。
だが違う。
少なくとも、写真で見たヘビとはまるで違う。
「どうぞ」
女性が玄関を大きく開ける。
「……失礼します」
警察官は靴を脱ぎ、室内へ足を踏み入れた。
一歩。また一歩と廊下を進む。
リビングの中が、少しずつ見えてくる。
黒いテレビ画面の中では、先ほどの影がまだ慌ただしく動いていた。
何かから逃れようとしているようにも見えた。
そして、リビングが見える位置まで来たところで。
「…………」
警察官の足が止まった。
間に合わなかったのだろう。
それは、部屋の隅へ身を隠そうとしているところだった。
二つの目が、こちらを向く。
「…………」
ヘビではなかった。
先ほど、テレビの中でヘビのように見えていたもの。
それは、触手だった。
柔らかく、輪郭を失った不定形の身体。
そこから何本もの触手が伸びている。
その身体に浮かぶ、二つの目。
(……何だ、これは)
生き物なのか。
そもそも、こんなものがこの世に存在していいのか。
冒涜的なナニカ。
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
「…………っ」
息が止まる。
理解できない。
目の前にいるものが何なのか。
どうしてこんなものが、普通のマンションの一室にいるのか。
「きゅ……」
「……っ!」
ナニカが鳴いた。
全身が粟立ち、手が震える。
怖い。
逃げたい。
今すぐここから逃げ出したい。
けれど。
(……駄目だ)
俺が逃げて、どうする。
警察官だ。
市民を守るのが、俺の仕事だ。
こんなものを、野放しにしてはいけない。
(……殺さないと)
震える手が、拳銃へ伸びる。
(こいつを、殺さないと……!)
「……え?」
女性の戸惑った声が聞こえた。
それでも、ナニカから目を逸らせない。
あれを殺さなければ。
ここで。
俺が。
「きゅ……?」
「来るな!!」
パンッ。パンッ。パンッ。
立て続けに三発。
銃声が、狭い室内に響き渡る。
「なっ……!」
女性の声が聞こえた。
それでも、目を逸らせない。
まだだ。
まだ、動いている。
(殺さないと……!)
もう一度、銃口を向ける。
(俺は、警察だから……!)
手が震える。
息が荒い。
それでも、引き金に指をかけた。
(俺は、市民を守る義務があるんだ!)
「修也!!」
突然、女性が飛び出した。
「──っ」
視界を横切る。
指は、もう止まらなかった。
パンッ。
「…………」
女性の身体が、ぐらりと揺れた。
そのまま、床へ崩れ落ちる。
「…………え」
頭の中が、急速に静かになっていく。
銃を握った手が震えた。
守る。
市民を。
そのために、自分は。
「……なん、で……」
床に倒れた女性を見下ろす。
赤いものが、ゆっくりと広がっていった。
◆◆◆
【修也視点】
いま、何が起きた?
「きゅ……?」
分からなかった。
大きな音がした。
一度ではない。何度も。
身体に何かが当たったような気がする。
けれど、痛みはよく分からない。
それよりも。
「…………」
目の前に、梓がいた。
さっきまで俺の隣にいたはずの梓が、床に倒れている。
「きゅ……?(梓?)」
なんで。どうして、そこにいる。
ついさっきまで、いつもと変わらない日常を過ごしていたはずなのに。
今日は暑いねって話して、一緒にテレビを見て、いつものプリンも食べた。
それから誰かが訪ねてきた。梓が玄関へ行って、警察の人が中に入ると言われて、俺は慌てて隠れようとして。
それで。
それで──。
「きゅう……(なんで……)」
梓が倒れている。
その頭の下から、赤いものが広がっていく。
「…………」
血。
梓の、血。
「きゅ……きゅう……(あ、ずさ……。梓……?)」
触手を伸ばし、梓の頬に触れる。
「きゅう(梓)」
返事がない。
「きゅう……(おい……)」
いつもなら返事をする。
俺の言葉なんて分かっていないくせに、分かっているみたいな顔をして。
勝手に話を続けて。
笑って。
「きゅう(梓)」
返事をしろよ。
「きゅう(なあ)」
頬に触れたまま、揺らす。
触手でペチペチ叩く。
反応はない。
「きゅ……(なんで……)」
なんで、動かない。
なんで、返事をしない。
なんで。
なんで。
なんで!!
「…………っ」
背後で、何かが動いた。
警察官だった。
青ざめた顔で立ち尽くしている。
その手には、まだ拳銃が握られていた。
「ち、違……俺は……」
「…………」
「ただ、守ろうと……」
何を言っているのか、頭に入ってこなかった。
梓の頬から触手を離し、警察官を見る。
「きゅう……?(お前か?)」
こいつがさっき、大きな音を出した。
梓が飛び出した。
それから。
梓が、倒れた。
「…………」
そうか。
こいつが。
「……来るな」
「…………」
「来るな……!」
警察官が拳銃を持ち上げる。
銃口が、こちらを向いた。
その瞬間。
何かが動いた。
「──っ」
自分の身体だった。
何本もの触手が、一斉に警察官へ伸びる。
止めようと思うよりも早かった。
止めようとしたのかさえ、分からなかった。
ただ。
これ以上、撃たせてはいけない。
それだけだった。
短い声が聞こえ、何かが床に落ちる音がした。
「…………」
静かになった。
警察官は、もう動かなかった。
殺した。
俺が。
でも、そんなことどうでもよかった。
俺はすぐに梓へ目を戻した。
「きゅう……(梓)」
警察官がどうなったかなんて、どうでもいい。
俺が何をしたのかも。
そんなことより。
「きゅう(起きろよ)」
梓が、動かない。
「きゅう……(なあ……)」
もう一度、頬に触れる。
「きゅぁ(梓ぁ)」
冷たくはない。
まだ温かい。
だったら。
「きゅう……(まだ、大丈夫だろ)」
大丈夫だ。
だって、温かい。
さっきまで普通に話してた。
今日だって、一緒にプリンを食べた。
明日だって。
明後日だって。
そんな日常が続くはずだろう?
なのに。
どうして。
返事をしてくれないんだ。
◆
どれくらい、そうしていたのだろう。
何度呼んでも、梓は目を開けなかった。
「きゅう……(梓)」
頬に触れる。
「…………」
冷たい。
いや、まだ温かい。
でも、さっきよりも。
「きゅ……(待って)」
頬から首へ、首から手へ。触れる場所を変えても、同じだった。
少しずつ。少しずつ。
梓の身体から、温かさが失われていく。
「きゅううっ!(待って、まだ……!)」
嫌だ。冷たくなるな。
まだ温かい。だったら、温めればいい。
俺は何本もの触手を伸ばし、梓の身体を包み込んだ。
「きゅう……(大丈夫だから)」
もっと。
隙間がなくなるくらい、しっかりと。
俺の身体は温かい。
だったら、この温かさを梓に分ければいい。
「きゅきゅう(ほら、あったかいだろう?)」
もっと近くへと抱き寄せる。
少しでも熱が逃げないように、自分の身体へ押しつけた。
ぞぷり。
「…………?」
妙な感触がした。
目を向けると、梓の腕が俺の身体に沈んでいた。
「きゅ……?」
何だ、これ。
慌てて身体を離そうとする。
ぞぷ。
さらに沈んだ。
「きゅっ……!(待って!)」
違う。
こんなことをしたいんじゃない。
梓を温めたかっただけだ。
俺の身体から引きずり出そうと、沈んだ腕を触手で掴む。
けれど、抜けない。
俺の身体と梓の腕の境目が、なくなっている。
「きゅうっ!(離せよ!)」
自分の身体に向かって叫ぶが、返事なんてあるはずもない。
ぞぷり。
また少し、梓が沈む。
「きゅうっ!きゅうっ!(なんでっ!やめろって!?)」
やめろ。
梓を食うな。
梓を──。
「…………」
そこで、気づいた。
沈んだ腕に触れる。
温かい。
「…………?」
もう一度、触れる。
俺の中に沈んだ部分だけが、温かい。
冷たくなっていない。
「きゅ……」
なら。
このままなら。
全部、俺の中に入れてしまえば。
梓は、もう冷たくならない?
「…………」
ぞぷ。
今度は、止めなかった。
梓の身体が、ゆっくりと俺の中へ沈んでいく。
腕が、肩が、足が。
少しずつ、俺と梓の境目がなくなっていく。
「きゅう……(梓)」
温かい。
ちゃんと、ここにいる。
もう冷たくならない。
いなくならない。
「…………」
ああそうか。
これなら。
これなら、もう。
(ああ、コレなら)
残った梓の身体を、そっと抱き寄せる。
(ズっと、イッショだネ?)
ぞぷり。
エンド1:同化




