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真似ばかりする妹に、私の“借金まみれの婚約者”を譲ってあげました

掲載日:2026/06/16


「お姉様、それ、私にくださらない?」


 それは、義妹リゼットの口癖だった。


 私のリボン。


 私のドレス。


 私の詩集。


 私の友人。


 私が誕生日に母の形見として受け取った、真珠の耳飾り。


 リゼットはいつも、私のものを欲しがった。


 そして周囲はいつも、私にこう言った。


「ミリアはお姉ちゃんなのだから、譲ってあげなさい」


 だから私は、譲った。


 何度も、何度も、笑って譲った。


 その結果、私はずいぶん上手に笑える女になった。


 嬉しくなくても。


 悔しくても。


 胸の奥で何かが小さく欠ける音がしても。


 私は笑った。


 笑えば家の中は丸く収まった。


 父は満足そうに頷き、継母はほっと息をつき、リゼットは私の隣で、私と同じ色のリボンを揺らして笑った。


 その笑顔を、昔はかわいいと思っていた。


 本当に。


 リゼットがこのランベール伯爵家に来たのは、彼女が十歳、私が十二歳のときだった。


 父が再婚し、継母エレーヌと、その連れ子であるリゼットが屋敷に入った。


 リゼットは最初、ひどく怯えた子だった。


 母親のスカートの影に隠れて、大きな菫色の瞳で私を見上げていた。


 私はその瞳を見て、単純に嬉しくなった。


 妹ができた。


 今度こそ、私にも家族が増えるのだと思った。


 実母は私が幼いころに亡くなっていたし、父は優しいけれど、仕事と社交に忙しい人だった。屋敷には使用人がいて、家庭教師がいて、何不自由ない暮らしではあったけれど、同じ高さで笑い合える相手はいなかった。


 だから、私はリゼットに手を差し出した。


「今日から姉妹ね」


 リゼットは何も言わず、私の指をぎゅっと握った。


 細くて冷たい手だった。


 あの手の冷たさを、今でも覚えている。


 最初のうちは、真似されるのも嫌ではなかった。


 私が選んだお菓子を、リゼットも欲しがる。


 私が読んでいた本を、リゼットも読みたがる。


 私が青いリボンを結ぶと、翌日にはリゼットも青いリボンをつけている。


 使用人たちは微笑ましそうに言った。


「リゼットお嬢様は、ミリアお嬢様が大好きなのですね」


 私もそう思っていた。


 妹が私に懐いているのだと。


 けれど、それは年を重ねても終わらなかった。


 むしろ、少しずつ形を変えていった。


 リゼットが十三歳になったころ、私が茶会に招かれると、リゼットも行きたがるようになった。


 私の友人に、彼女は腕を絡めるようになった。


 私が半年かけて仕立てたドレスを、リゼットは試着の段階で「私のほうが似合うと思うの」と言った。


 そのたびに、継母は困ったように笑った。


「リゼットはまだ子どもなの。少しくらい譲ってあげて」


 父も言った。


「ミリアはしっかりしているからな。リゼットのわがままくらい、受け止めてやれるだろう」


 私は、その言葉を飲み込んだ。


 しっかりしている。


 大人だから。


 賢いから。


 お姉ちゃんなのだから。


 便利な言葉だった。


 私が何かを我慢するたび、周囲は私を褒めた。


 そしてその褒め言葉の裏で、私のものはひとつずつ減っていった。


 やがて私は、欲しいものを口にしなくなった。


 欲しがれば、奪われる。


 大切にすれば、譲らされる。


 ならば最初から、何も欲しがらなければいい。


 それが一番、傷つかずに済む方法だった。


「お姉様、今夜の夜会にはその耳飾りをつけていくの?」


 支度部屋の鏡越しに、リゼットが私を見ていた。


 二十歳になったリゼットは、美しかった。


 ふわりとした金の髪に、菫色の瞳。少女のころのあどけなさを残したまま、社交界の男たちが守りたがるような儚さを身につけている。


 対する私は、母譲りの銀灰色の髪に、淡い青の瞳。


 整ってはいるのだろうが、リゼットのように甘く人目を引く容姿ではない。背筋を伸ばし、表情を整え、どこまでもきちんとしている女。


 社交界での私の評は、たいていそうだった。


 美しいというより、隙がない。


 かわいらしいというより、賢そう。


 好かれる女というより、信頼される女。


 それはそれで悪くない。


 悪くないと思うようにしていた。


「ええ。お母様の形見だから」


 私は耳飾りにそっと触れた。


 リゼットは少しだけ唇を尖らせた。


「いいなあ。お姉様は、そういう特別なものをたくさん持っているのね」


「特別なものは多くないわ」


「でも、それは特別でしょう?」


「これは駄目」


 私がそう言うと、リゼットは目を丸くした。


 断られると思っていなかったのだろう。


 その顔に、ほんの少し胸が痛んだ。


 昔からそうだ。


 リゼットは私が譲らないと、ひどく傷ついた顔をする。


 まるで、私が妹を拒絶したかのように。


 けれど、今日は譲れなかった。


 この真珠だけは、母の形見だ。


 何度リゼットに欲しがられても、最後まで守ってきた数少ないものだった。


「そう……」


 リゼットは視線を伏せた。


「お姉様は、それは私にくださらないのね」


「リゼット」


「いいの。わかっているわ。私には似合わないもの」


 そう言って、彼女は笑った。


 笑っているのに、泣きそうな顔だった。


 私は言葉を探したが、その前に侍女が時間を告げた。


「ミリアお嬢様、馬車のご用意が整いました」


 私は耳飾りから手を離し、立ち上がった。


 今夜は王都で開かれる大きな夜会。


 私の婚約者であるジュリアン・フォルク子爵令息も参加する。


 正直、気が重かった。


 ジュリアンは見目のいい男だった。


 蜂蜜色の髪に、甘い声。女性に優しく、踊りもうまく、社交界では「優雅な若君」と呼ばれている。


 けれど私は、彼の袖口の宝石を見るたびに、別のものを思い出す。


 宝石商から届いた未払いの督促状。


 馬車工房への滞納記録。


 怪しい投資組合への出資証書。


 そして、母から受け継いだ商会の者がこっそり教えてくれた、フォルク子爵家の財政状態。


 破綻寸前。


 その一言に尽きた。


 ジュリアンとの婚約は、父が決めたものだった。


 父は彼の外面を気に入り、フォルク家の古い家名に惹かれた。


 けれど帳簿を読める者なら、彼がどれほど危うい男かすぐにわかる。


 彼は私と結婚したあと、ランベール家の資産で自分の借金を埋めるつもりなのだ。


 だから私は、婚約解消の機会を探していた。


 こちらから破棄すれば違約金が発生する。


 父は体面を気にする。


 ジュリアンは自分が不利になりそうなことには鼻が利く。


 私は長い時間をかけて、少しずつ逃げ道を整えていた。


 そんな私の前に、リゼットが現れた。


 夜会の広間で、彼女は私と同じ青のドレスを着ていた。


 髪型も同じ。


 胸元の飾りも似ている。


 ただひとつ違うのは、耳元に真珠がないことだった。


 彼女はそのことを気にしているのか、何度も自分の耳に触れていた。


 私は見ないふりをした。


「ミリア、今夜も美しいね」


 ジュリアンが近づいてきて、私の手を取った。


「ありがとう」


 私はいつもの笑みを浮かべる。


 その手袋は新しいものだった。


 高級な鹿革。


 先週、彼の家には仕立屋から督促が届いていたはずだ。


 支払いをしていないのに、新しい手袋。


 相変わらず、見栄の張り方だけは一流だ。


「お姉様ばかりずるいですわ」


 甘い声が割り込んだ。


 リゼットだった。


 彼女は私の隣に立つと、ジュリアンを見上げて微笑んだ。


「ジュリアン様、私とも踊ってくださらない?」


 ジュリアンの目が楽しそうに細められる。


「もちろんだよ、リゼット嬢。君のように可憐な花に誘われて断る男はいない」


 可憐な花。


 安い言葉だ。


 だがリゼットは、頬を染めた。


 私の胸の奥が、少しだけ重くなる。


 嫉妬ではない。


 たぶん、疲れだった。


 リゼットは、とうとう私の婚約者まで欲しがるのか。


 彼女はジュリアンの手を取り、私を見た。


「お姉様、いいでしょう?」


 その目は勝ち誇っているようで、どこか怯えているようにも見えた。


 私は笑った。


「もちろん」


 ダンスが始まる。


 リゼットは嬉しそうに踊っていた。


 ジュリアンは彼女に何か囁き、リゼットは笑う。


 周囲の令嬢たちがひそひそと噂する。


「まあ、リゼット様とジュリアン様、お似合いね」


「でもジュリアン様はミリア様の婚約者でしょう?」


「姉妹で同じ殿方を……?」


 私は扇で口元を隠した。


 騒がしい。


 けれど、都合がいい。


 噂はときに、契約書より早く道を作る。


 数日後、ジュリアンは屋敷に来るたび、私ではなくリゼットのほうを見るようになった。


 リゼットは私の前で彼に紅茶を注ぎ、私の前で彼に微笑み、私の前で彼の袖に触れた。


「お姉様、ごめんなさい。ジュリアン様とは話が合ってしまうの」


「そう」


「お姉様は大人だから、怒らないわよね?」


「ええ」


「私、ずっと羨ましかったの。お姉様にはこんな素敵な婚約者がいて」


 リゼットは甘えるように笑う。


 ジュリアンは満更でもなさそうに私を見る。


 私が嫉妬に震えると思っているのだろう。


 私はカップを置いた。


「リゼット」


「なあに、お姉様」


「そんなに欲しいなら、差し上げるわ」


 室内が静まり返った。


 リゼットが瞬きをする。


 ジュリアンも、紅茶を飲む手を止めた。


「……何を?」


「ジュリアン様を」


 私はにこりと笑った。


「あなたが欲しいのなら、私の婚約者を譲ってあげる」


 リゼットの顔から、すっと色が引いた。


 意外だった。


 勝ち誇ると思っていたのに。


「お姉様、本気で言っているの?」


「ええ」


「私が、ジュリアン様をいただいてもいいの?」


「欲しいのでしょう?」


「……欲しいわ」


 少し間があった。


 けれど彼女は、確かにそう言った。


 ジュリアンはすぐに甘い表情を作った。


「ミリア、君はそれでいいのかい?」


「ええ。妹が欲しがるものを姉が譲るのは、我が家の習わしですもの」


 その一言に、部屋の空気が揺れた。


 継母が慌てて言う。


「ミリア、そんな言い方は」


「違いましたか?」


 私は首を傾げる。


「リボンも、ドレスも、本も、友人も。リゼットが欲しがれば、私は譲ってきました。お父様もお義母様も、それを望まれたでしょう?」


 継母は口を閉じた。


 父は気まずそうに咳払いをする。


「だが、婚約はそう簡単な話ではない」


「もちろん。ですから正式な手続きを取ります」


 私は用意していた書類を机に置いた。


 婚約移行に関する申立書。


 持参金条件の再確認。


 債務保証範囲の限定。


 私個人の財産とランベール伯爵家の共有財産を切り分ける書類。


 ジュリアンはそれを一瞥したが、内容をきちんと読んでいない。


 読めないのではない。


 読む気がないのだ。


 彼は女性が出す書類を、刺繍の図案と同じくらいにしか考えていない。


「つまり、リゼット嬢が私の婚約者になるということだね」


「そうなります」


「リゼット嬢」


 ジュリアンはリゼットの前に膝をついた。


「君が私を想ってくれるなら、私はその気持ちに応えよう」


 リゼットはジュリアンではなく、私を見ていた。


 何かを確かめるような目だった。


 私は笑っていた。


 いつものように。


 リゼットは唇を噛み、それからジュリアンに微笑んだ。


「嬉しいですわ、ジュリアン様」


 こうして、私の婚約者は妹のものになった。


 社交界は大いに沸いた。


 妹に婚約者を奪われた哀れな姉。


 姉の婚約者に恋した無邪気な妹。


 姉妹のあいだで揺れる美貌の子爵令息。


 噂好きの貴族たちにとっては、格好の茶菓子だっただろう。


 私は噂を否定しなかった。


 黙っていればいい。


 そのあいだに、私は残りの手続きを済ませた。


 まず、私個人の財産を婚約契約から完全に外す。


 母方の商会に預けている資産も同じ。


 次に、ランベール家がフォルク家の債務を保証しないことを公証人に確認させる。


 さらに、婚約者変更に伴う持参金の支払いは、婚礼成立後に限定。


 婚礼前の前払いは禁止。


 これでジュリアンは、私を通じて金を引き出すことができなくなる。


 父は途中で「少し厳しすぎないか」と言ったが、私は笑った。


「リゼットのためよ。借金を背負わせたくないでしょう?」


 父はそれ以上何も言えなかった。


 継母も同じだった。


 娘かわいさに婚約を喜んだものの、具体的な金の話になると顔色が悪くなる。


 だが、もう遅い。


 彼女たちはいつも私に譲らせてきた。


 だから今回も譲った。


 ただし、包装紙の中身を確認しないのは、受け取る側の責任だ。


 婚約が移ってから、リゼットは少し変だった。


 もっと勝ち誇ると思っていた。


 私の前でジュリアンとの仲を見せつけ、私から奪った喜びに酔うのだと思っていた。


 でも違った。


 彼女はしばしば、私の部屋に来た。


「お姉様、ジュリアン様って、赤い薔薇がお好きなの?」


「知らないわ」


「お姉様の婚約者だったのに?」


「形式上はね」


「じゃあ、お姉様はジュリアン様を好きではなかったの?」


「好きになる前に、帳簿が見えてしまったから」


 リゼットは不満そうに眉を寄せた。


「お姉様はいつもそう」


「何が?」


「私が必死に欲しがったものを、最初からいらなかったみたいな顔で譲る」


「あなたが欲しがるから譲ったのよ」


「そうね。譲られたわ」


 リゼットは笑った。


 けれどその笑みは、ひどく弱かった。


「でも、お姉様は一度も怒ってくれなかった」


 意味がわからなかった。


 怒られたかった?


 奪った側の彼女が?


「怒ればよかったの?」


「……わからない」


 リゼットは自分でも混乱しているようだった。


「でも、笑って譲られるたび、私なんてどうでもいいんだと思った」


「どうしてそうなるの」


「だって、本当に大切なものなら譲らないでしょう?」


 私は言葉に詰まった。


 今朝、彼女が欲しがった母の耳飾りを、私は譲らなかった。


 あれは大切だったから。


 ならば、それ以外は?


 ドレスも、リボンも、友人も、婚約者も。


 私は譲った。


 譲ってしまった。


 リゼットはそれを、私の無関心として受け取っていたのか。


「あなたが欲しがるから」


「うん」


「家のために、波風を立てたくなかったから」


「うん」


「嫌ではなかったわけじゃない」


 リゼットの瞳が揺れた。


「……嫌だったの?」


「嫌だったわ」


 その瞬間、リゼットはなぜか泣きそうな顔をした。


 私は少しだけ苛立った。


 泣きたいのは私のほうではないのか。


 奪われてきたのは、私のほうではないのか。


「お姉様」


「何」


「私、ジュリアン様なんて欲しくなかったのかもしれない」


 そう言って、リゼットは逃げるように部屋を出ていった。


 残された私は、長いあいだ扉を見つめていた。


 数日後。


 夜更けに、リゼットが私の部屋を訪ねてきた。


 彼女は厚い書類の束を抱えていた。


 いつものような甘えた笑みはない。


 髪も乱れている。


 頬は青ざめていた。


「お姉様、これを見て」


 私は黙って書類を受け取った。


 借用証。


 未払い請求書。


 宝石商からの督促状。


 馬車工房への滞納通知。


 高利貸しの名前。


 怪しい投資組合の損失補填契約。


 予想していたものばかりだった。


 けれど、私が驚いたのはそこではない。


 リゼットが、これを集めたことだ。


「あなた、どうやって」


「お姉様の真似をしたの」


 リゼットは小さな声で言った。


「お姉様は、贈り物をもらったとき、宝石より先に留め具を見るでしょう。支払い前の商品は、留め具に店の仮印が残るから。お姉様は、男の人が嘘をつくとき、言葉より靴を見るでしょう。急いで金策している人ほど、服より靴の手入れが乱れるから。お姉様は、商人が怒っている手紙は、季節の挨拶が丁寧すぎるって言っていたでしょう」


 私は息を呑んだ。


 そんなことを、私は彼女に教えただろうか。


 いや、たぶん独り言のように言ったことはある。


 リゼットはそれを覚えていたのだ。


 私のリボンやドレスだけではなく。


 私の見方まで。


「ジュリアン様は、私にお金を求めたわ」


 リゼットは書類を握りしめる。


「最初は婚礼準備費。次は新居の改装費。それから、子爵家の一時的な資金不足。全部、私たちの未来のためだって」


「払ったの?」


「払っていない」


「賢明ね」


「そう言われると嬉しい。お姉様みたい」


 リゼットは少し笑ったが、すぐに顔を伏せた。


「でも、ジュリアン様に言われたの。ミリアなら黙って金を用意した、って。私は姉の真似をしているくせに、こういうところは似ていないんだな、って」


 胸の奥が、冷えた。


 私を金蔓にするつもりだったことは知っていた。


 でも実際にその言葉を聞くと、やはり不快だった。


「それで?」


「それで、わかった」


 リゼットは顔を上げた。


 菫色の瞳が濡れている。


「私、あの人のこと、少しも好きじゃない」


「では、なぜ欲しがったの」


 声が、思ったより硬くなった。


 リゼットは答えなかった。


 私は続けた。


「私は傷ついたわ。あなたが私のものを欲しがるたび、私は自分の場所が削られていくような気がした。ドレスも、本も、友人も、今度は婚約者まで。あなたはいつも私から持っていく」


「うん」


「うん、ではないわ」


「ごめんなさい」


「謝れば済むと思っているの?」


「思っていない」


 リゼットは震える息を吐いた。


「でも、言わせて。私、ジュリアン様が欲しかったんじゃない」


「じゃあ何が欲しかったの」


「お姉様」


 部屋の時計の音が、やけに大きく聞こえた。


 リゼットは泣いていた。


 静かに、ぽろぽろと涙をこぼしていた。


「お姉様が欲しかった。お姉様に見てほしかった。お姉様の隣に立ちたかった。お姉様と同じものを持てば、姉妹みたいになれると思った。お姉様の友人と話せば、お姉様の世界に入れると思った。お姉様のものを奪えば、お姉様が初めて私を本気で見てくれると思った」


 私は何も言えなかった。


「でも、お姉様はいつも笑って譲った。怒ってくれなかった。取り返そうとしてくれなかった。私が何をしても、どうでもいいみたいだった」


「どうでもよくなんて」


「じゃあ、どうして一度も怒ってくれなかったの」


 リゼットの声が震えた。


「私、ずっと怖かった。お姉様にとって私は、怒る価値もない子なのかと思った」


 違う、と言いたかった。


 けれど、うまく言えなかった。


 私も怖かったのだ。


 リゼットを嫌いになりたくなかった。


 せっかくできた妹を、憎みたくなかった。


 だから笑った。


 譲った。


 怒る前に、あきらめた。


 それが彼女にとっては、無関心に見えていた。


 なんて馬鹿げているのだろう。


 私たちは十年も同じ屋敷にいて、互いを少しも見ていなかった。


「リゼット」


「はい」


「あなたのしたことは、ひどいわ」


「うん」


「私を傷つけた」


「うん」


「すぐには許せない」


「うん」


 リゼットは頷いた。


 逃げずに、まっすぐ私を見ていた。


 その顔に、昔の怯えた少女の面影があった。


 でも、今の彼女はもう子どもではない。


 私の後ろをついて歩くだけの妹ではなかった。


 自分で書類を集め、自分で嘘を見抜き、自分で間違いに気づいた。


 私は机に書類を広げた。


「リゼット」


「何?」


「ジュリアン様と結婚したい?」


「したくない」


 即答だった。


「では、婚約を破棄したい?」


「したい。でもお母様は許さない。お父様も、今さら戻せないと言うわ。ジュリアン様は、私が逃げたら評判を潰すって」


「そう」


 私は書類の端を揃えた。


「なら、潰される前に潰しましょう」


 リゼットが顔を上げる。


「お姉様が、私を助けてくれるの?」


「違うわ」


 私は彼女を見た。


「これは、あなたが集めた証拠よ。私は使い方を教えるだけ」


 リゼットは何度も瞬きをした。


 それから、泣き笑いのような顔をした。


「それでも、隣にいてくれる?」


「作戦が終わるまではね」


「そのあとも」


「調子に乗らない」


「……はい」


 リゼットは小さく笑った。


 その笑顔は、私の真似ではなかった。


 ジュリアンとリゼットの正式な婚約発表は、フォルク子爵家主催の夜会で行われることになっていた。


 借金まみれの家が、よくもまあ盛大な夜会など開けるものだ。


 いや、違う。


 だからこそ開くのだ。


 虚勢を張り、信用があるように見せかけ、ランベール家との婚約を担保にさらに金を借りる。


 ジュリアンが考えそうなことだった。


 夜会当日。


 リゼットは、私と違う色のドレスを着た。


 深い葡萄色。


 彼女の菫色の瞳によく似合っていた。


 髪型も違う。


 ふわりと結い上げた金髪に、細い銀の飾り。


 私は思わず言った。


「その色、似合うわ」


 リゼットが固まった。


「……本当?」


「ええ」


「お姉様の青より?」


「比べるものではないでしょう」


「そっか」


 彼女は少しだけ笑った。


 その笑みを見て、私の胸はなぜか痛んだ。


 私がもっと早くそう言っていれば、何か変わったのだろうか。


 わからない。


 でも今さら過去には戻れない。


 なら、今から変えるしかない。


 夜会は華やかだった。


 シャンデリアの光。


 香水と葡萄酒の匂い。


 磨かれた床に映る、貴族たちの笑顔。


 その中心で、ジュリアンは得意げに立っていた。


 今夜の彼は、いつも以上に飾り立てている。


 金の刺繍が入った上着、新品の靴、宝石の留め具。


 そのどれもが、支払い済みかどうか怪しい。


 彼はリゼットの手を取り、広間の中央へ進んだ。


「皆様、本日はお集まりいただき感謝いたします。私、ジュリアン・フォルクは、リゼット・ランベール嬢との婚約を正式に――」


「その前に、確認したいことがあります」


 リゼットが手を引いた。


 広間がざわつく。


 ジュリアンは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに甘い笑顔を作る。


「どうしたんだい、リゼット。緊張しているのかな」


「いいえ」


 リゼットは小さく息を吸った。


 会場の端に立つ私を見る。


 私は頷いた。


 大丈夫。


 あなたが集めた証拠だ。


 あなたの言葉で言えばいい。


 リゼットは背筋を伸ばした。


「ジュリアン様。この首飾りは、あなたが私にくださったものですね?」


 彼女は首元の宝石に触れた。


 淡い紫の石をあしらった、美しい首飾り。


 だが支払いは済んでいない。


「もちろんだよ。君に似合うと思って選んだ」


「では、なぜ宝石商への支払いが三か月滞っているのです?」


 広間が水を打ったように静かになった。


 ジュリアンの笑顔が凍る。


「リゼット、こういう場で金の話をするものではないよ」


「この馬車工房への未払いは?」


 リゼットは書類を一枚出した。


「この借用証は?」


 もう一枚。


「この高利貸しからの督促状は?」


 さらに一枚。


「この投資損失の補填契約は?」


 会場がどよめいた。


 ジュリアンの顔が赤くなり、すぐに青くなる。


「誰に吹き込まれた。ミリアか?」


 予想通りの言葉だった。


 リゼットは首を横に振った。


「いいえ。お姉様の真似をしただけです」


 その声は、驚くほど澄んでいた。


「お姉様なら、贈り物の宝石より先に請求書を見る。お姉様なら、甘い言葉より先に契約書を読む。お姉様なら、愛を語る男の靴底を見る。だから私も、そうしただけです」


 私は思わず笑いそうになった。


 靴底まで見るとは言っていない。


 いや、言ったかもしれない。


 リゼットは続けた。


「あなたは私を、お姉様より愚かで扱いやすい女だと思ったのでしょう。でも残念。私、真似だけは得意なの」


 広間のあちこちで、扇が揺れた。


 笑いを隠す者。


 驚きに息を呑む者。


 ジュリアンは怒りに顔を歪めた。


「君が私を誘惑したんだろう! 姉の婚約者に色目を使ったのは君だ!」


 リゼットの肩が一瞬揺れた。


 私は前へ出ようとした。


 だが、リゼットは自分で踏みとどまった。


「ええ、そうね」


 彼女は認めた。


「私は愚かだったわ。お姉様のものを奪えば、お姉様が私を見てくれると思った」


 広間がざわめく。


「でも、あなたを愛したことは一度もありません」


 ジュリアンの顔が、完全に崩れた。


 プライドを踏みにじられた男の顔だった。


「この、恩知らずが……!」


「恩?」


 私はここで一歩前に出た。


「未払いの宝石と、借金の督促状を贈ることを、フォルク家では恩と呼ぶのかしら」


 ジュリアンがこちらを睨む。


「ミリア、君が仕組んだのか」


「いいえ。私は以前から、あなたが破綻寸前だと知っていただけよ」


 会場のざわめきがさらに大きくなる。


 父が青ざめて私を見た。


 継母はリゼットの名を呼ぼうとして、口を閉じた。


「ジュリアン様。婚約移行に関する書類は、すべて正式に処理済み。ランベール家はあなたの債務を保証しない。私個人の持参金も、一切関係ない。婚礼前にリゼットへ資金提供を要求する権利もない」


「なっ……」


「読みましたか、契約書」


 ジュリアンは口を開けたまま固まった。


 読んでいない。


 やはり。


「女性が出す書類を、きちんと読んでいればよかったわね」


 私は静かに言った。


「あなたが受け取ったのは、妹ではなく、未払い請求書の山よ」


 その瞬間、誰かが小さく吹き出した。


 それをきっかけに、広間にざわざわと笑いが広がる。


 ジュリアンは真っ赤になった。


「フォルク家を侮辱する気か!」


「侮辱ではありません。事実の確認です」


 リゼットが言った。


 その手は震えていた。


 私はそっと隣に立つ。


 触れはしない。


 ただ、隣に立つ。


 リゼットはそれに気づき、少しだけ息を整えた。


「ジュリアン・フォルク様。私はあなたとの婚約を破棄します。理由は、重大な債務の隠蔽、虚偽の贈与、婚礼前の不当な金銭要求、そして私とランベール家への信用詐欺まがいの行為です」


 リゼットは書類を公証人へ渡す。


「証拠はすべて揃っています」


 ジュリアンは何かを言おうとした。


 だが、その前に債権者のひとりが会場から進み出た。


「フォルク子爵令息。では、こちらの支払いについても今夜お話しいただけますかな」


 別の商人も前に出た。


「当方への未払いも」


「馬車代も」


「宝石代も」


 華やかな夜会は、あっという間に債権者の集会へと変わった。


 ジュリアンは逃げ場を失い、父であるフォルク子爵は卒倒しかけた。


 私の父は、青ざめた顔で私に近づく。


「ミリア、これはどういうことだ。保証しないとは、本当に?」


「本当よ」


「だが、リゼットの婚約者で」


「保証したいのなら、お父様個人でどうぞ。ただし、伯爵家の共有財産にも、私の母方の資産にも触れさせない。すでに公証人の確認済み」


 父は言葉を失った。


 継母がリゼットに駆け寄る。


「リゼット、あなた何をしているの。こんな大勢の前で」


 リゼットは母を見た。


「お母様。私はもう、お姉様のものを欲しがる子どもではありません」


「リゼット」


「欲しいものは、自分で選ぶ」


 その言葉は、私に向けられているようにも聞こえた。


 夜会はそのまま終わった。


 ジュリアンは債権者たちに囲まれ、フォルク家の信用は地に落ちた。


 婚約は破棄。


 ランベール家は保証責任なし。


 父はしばらく寝込んだ。


 継母は泣いた。


 だが、私もリゼットも泣かなかった。


 少なくとも、人前では。


 夜会のあと、私は会場のバルコニーに出た。


 春の夜風は少し冷たい。


 遠くに王都の灯りが見える。


 真珠の耳飾りが、風に揺れた。


「お姉様」


 振り返らなくても、声でわかった。


 リゼットが立っていた。


 葡萄色のドレス。


 私とは違う髪型。


 私とは違う表情。


 それなのに、昔よりずっと近くに見えた。


「よく言えたわね」


「怖かった」


「そうでしょうね」


「でも、お姉様が隣にいたから」


「私は何もしていないわ」


「いたわ」


 リゼットは私の隣に立った。


 肩が触れそうな距離。


 昔なら、私は一歩引いていた。


 今日は引かなかった。


「ごめんなさい」


 リゼットは夜景を見つめたまま言った。


「お姉様のものを奪ってばかりで」


「傷ついたわ」


「うん」


「あなたが私のドレスを着るたび、私の友人と笑うたび、私の選んだものを欲しがるたび、私は自分の場所がなくなる気がした」


「うん」


「あなたを嫌いになりたくなかった。だから笑って譲った」


 リゼットの目から、涙が落ちた。


「私は、お姉様に嫌われるくらいなら、怒られたかった」


「面倒な子ね」


「知ってる」


 リゼットは泣きながら笑った。


 その顔があまりに素直で、私は小さく息を吐く。


「でも、今夜のあなたは少し好きよ」


 リゼットが固まった。


「少し?」


「ええ。少し」


「私は」


 リゼットは私を見た。


 その瞳は、夜会の灯りを映して揺れていた。


「私は、ずっと好きだった」


 言葉の意味が、胸に静かに落ちてくる。


 姉妹として。


 憧れとして。


 そう受け取ることもできただろう。


 けれど、リゼットの瞳はそれだけではなかった。


 もっと重くて、面倒で、不器用で。


 逃げ場のない好意だった。


「姉としてじゃないわ」


 彼女は自分で続けた。


「お姉様みたいになりたかったんじゃない。お姉様の隣にいたかった。お姉様が誰かのものになるのが、ずっと嫌だった」


 私は夜風を吸い込んだ。


 怒るべきか。


 呆れるべきか。


 突き放すべきか。


 わからなかった。


 ただ、不思議と嫌ではなかった。


 戸惑いはある。


 傷も残っている。


 すぐに許せるわけではない。


 それでも、今夜のリゼットは逃げなかった。


 私も、逃げたくなかった。


「なら、まず姉の真似をやめなさい」


 リゼットは目を見開いた。


「やめたら、見てくれる?」


「見るわ」


「私のことを?」


「あなたのことを」


 リゼットの顔がくしゃりと歪んだ。


 泣きそうで、笑いそうで、子どものようで、大人の女のようだった。


「お姉様」


「何」


「隣にいてもいい?」


「奪わないなら」


「奪わない」


「真似しないなら」


「たぶん、少しはする」


「リゼット」


「だって、お姉様が好きなお茶とか、お菓子とか、そういうのは一緒に楽しみたい」


 私は思わず笑ってしまった。


 まったく、本当に面倒な子だ。


「それは真似ではなく、共有と言いなさい」


「共有」


 リゼットは大事な言葉を覚えるように繰り返した。


「うん。共有がいい」


 数か月後。


 私はランベール伯爵家を出た。


 母方の商会を本格的に継ぐためだ。


 父は最後まで渋ったが、私がいなくなれば誰が家の帳簿を見るのか、という問いに答えられなかった。


 だからこそ、私は出た。


 私の代わりを見つけるのは、父の仕事だ。


 リゼットも屋敷を出た。


 継母は泣いて引き止めたが、リゼットは首を横に振った。


「私は、お姉様の後ろに行くんじゃない。隣に行くの」


 その言葉を聞いたとき、私は少しだけ困った。


 困ったけれど、嬉しくなかったと言えば嘘になる。


 商会の執務室で、私たちは並んで帳簿を見るようになった。


 リゼットは覚えが早かった。


 真似だけは得意。


 彼女はそう言ったが、それだけではない。


 彼女はよく見る。


 人の表情も、書類の癖も、数字の違和感も。


 ただ今まで、その力の使い方を知らなかっただけだ。


「この数字、おかしいわね」


 ある午後、私が帳簿を指差すと、リゼットは身を乗り出した。


「お姉様なら、どこを見る?」


 私は眉を上げる。


 リゼットは慌てて咳払いした。


「違った。私は、ここを見る」


 彼女が指差したのは、支払い日と納品日のずれだった。


 正しい。


「よくできました」


 私が言うと、リゼットは頬を染めた。


「子ども扱いしないで」


「褒めたのよ」


「なら、もっと普通に褒めて」


「優秀ね、リゼット」


 彼女はますます赤くなった。


 面倒だ。


 本当に面倒だ。


 でも、悪くない。


 夕方、仕事を終えるころ、リゼットが棚から茶葉の缶を二つ取り出した。


「今日はどちらにする?」


「あなたが選んで」


「私が?」


「ええ」


 リゼットは驚いた顔をしたあと、真剣に缶を見比べた。


 そして、私が普段あまり選ばない果実の香りの茶葉を取った。


「今日はこれ」


「珍しいわね」


「お姉様が選ばなさそうだから」


「私の真似をやめる努力?」


「違うわ」


 リゼットは湯を注ぎながら言った。


「私が選んだものを、お姉様と一緒に飲みたいの」


 私は何も言わなかった。


 ただ、カップを二つ用意した。


 リゼットが私の隣に座る。


 かつて彼女は、私のものを何でも欲しがった。


 ドレスも、宝石も、友人も、婚約者さえも。


 けれど今、彼女が欲しがるのは、私の持ち物ではない。


「お姉様」


「何?」


「おいしい?」


 私は紅茶を一口飲む。


 甘酸っぱい香りが、夕暮れの部屋にほどけた。


「ええ。悪くないわ」


「よかった」


 リゼットは嬉しそうに笑い、私の肩にほんの少しだけ寄りかかった。


 昔なら、私は離れていた。


 今は、そのままにした。


 真似ではなく。


 奪うのでもなく。


 ただ、隣にいるために。


 私はその距離を、もう嫌だとは思わなかった。


 窓の外では、春の光がゆっくり沈んでいく。


 机の上には、二人分の帳簿。


 二人分のカップ。


 そして、まだ空白の多い未来。


 リゼットが私の顔を覗き込む。


「明日も、隣に座っていい?」


 私はカップを置いた。


「明日の帳簿を最後まで片付けたらね」


「頑張る」


「あと、私のドレスを勝手に着ない」


「着ない」


「私の耳飾りも」


「それは絶対に欲しがらない」


「友人も横取りしない」


「紹介して。横取りじゃなくて」


 私はため息をついた。


「本当に面倒な子」


「嫌い?」


 リゼットが不安そうに聞く。


 その顔は、十年前に私の手を握った少女と少し似ていた。


 でも、もう同じではない。


 今の彼女は、私の後ろに隠れる子どもではない。


 私のものを奪って隣に来ようとする妹でもない。


 自分の足で、私の隣に立とうとしている。


 私はリゼットを見る。


「嫌いなら、隣に座らせないわ」


 リゼットは目を丸くした。


 それから、花がほどけるように笑った。


 その笑顔は、私の真似ではなかった。


 だから私は、その笑顔を見ていた。


 ちゃんと。


 今度こそ、見逃さないように。


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