3_走らない娘
次を21時ごろに投稿予定
北海道・新冠の春は、ゆっくり来る。
三月の終わりになっても、牧草地にはまだ冬の色が残っている。
空は高く、海からの風は冷たい匂いを運んでくる。
その朝、競優牧場の厩舎で、小さな出来事が起きた。
クニビキが仔を産んだのである。
夜のうちのことだった。
場長の榊憲治が厩舎に入ったとき、藁の上には、まだ湿った体の仔馬が立ち上がろうとしていた。
何度も脚を折り、また立とうとする。
どこの牧場でも見られる、ありふれた光景だった。
榊はしばらく黙ってそれを見ていた。
やがて、厩舎の戸口から足音がした。
小畑正雄だった。
「どうだ」
榊が振り向く。
「生まれました」
「牡か」
「牝です」
小畑は「ふうん」とだけ言った。
別に落胆したわけでもない。
ただ、それだけの話だった。
この仔馬に、大きな期待をかけている者は誰もいない。
父はヤシママンナ。
母は五戦未勝利のクニビキ。
血統表としては、新聞の隅にも載らない組み合わせである。
「まあ」
小畑が言った。
「無事に生まれたなら、それでいい」
榊がうなずく。牧場という場所では、まず健康であることが第一だった。
それから数日後。
東京の馬主たちへ、一通の知らせが送られた。
クニビキに仔が生まれた――と。
ほどなくして、例の五人がまた顔をそろえた。
場所は、いつものように大井競馬場の馬主席である。
高橋が手紙を広げた。
「牝馬だそうだ」
勝村が笑う。
「牝馬か。ますます地味だな」
角田が新聞を畳みながら言った。
「しかし名前は付けなきゃならん」
藤波がうなずく。
「そうだな」
小畑が考え込む。
「どうする」
高橋が冗談半分に言った。
「4人で共有した馬だろう」
「そうだ」
「なら4人の名前を入れるか」
角田が笑う。
「それは長くなるぞ」
高橋が指を折る。
「俺の“タ”」
勝村。
「俺の“カ”」
角田。
「“ツ”」
藤波。
「“ナミ”」
小畑が言った。
「つなげると……」
一瞬の沈黙。
そして勝村が言った。
「タカツナミ」
角田が吹き出した。
「なんだか波みたいな名前だな」
藤波が笑う。
「まあいい名前じゃないか」
小畑がうなずいた。
「覚えやすい」
こうしてその牝馬は、**タカツナミ**と名付けられた。
だがこのとき、五人のうち誰一人として、この名がのちに競馬史の中で語られることになるなどとは、夢にも思っていなかった。
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一年が過ぎ、タカツナミは北海道の牧草地で育った。
春の放牧地を、栗毛の小柄な牝馬が走る。細身だが、脚の運びは軽い。
榊憲治は牧柵越しにそれを見ていた。
「悪くないな……」
そう思った。
だが競馬というものは、**悪くない馬が、必ず走るとは限らない。**
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結果を先に言えば、タカツナミは走らなかった。
二戦未勝利。
それが彼女の競走成績のすべてである。だが、その二戦を見た者にとっては、少しだけ夢を見る時間でもあった。
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デビューの日。
大井競馬場の午後は、いつものざわめきに包まれていた。
馬主席には、例の五人が並んでいる。
高橋が言った。
「また馬が増えたな」
クニビキの抽選で引き当てたころを思い出しながら感慨深そうに勝村が新聞をめくる。
「今度は娘か」
角田が笑う。
「母親が五戦未勝利だからな」
藤波が言う。
「親より走れば大したものだ」
小畑は黙ってパドックを見ていた。
そこにタカツナミが現れる。
栗毛の小柄な牝馬だった。
体は細い。だが動きは軽い。
高橋が聞いた。
「どうだ」
小畑が答える。
「……分からん」
それが正直な感想だった。
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ファンファーレが鳴り、馬たちがゲートに収まる。
実況が響く。「各馬ゲートイン完了――」「スタートしました!」
ゲートが開く。
砂煙。
タカツナミは出遅れなかった。むしろ、良いスタートだった。
「お」
角田が双眼鏡を上げる。
「前にいるぞ」
一コーナー。
先頭集団の後ろ。
悪くない位置だった。
だが――
向こう正面。徐々に下がり始める。
高橋が言う。
「止まったな」
三コーナー。
もう手応えがない。
直線。
騎手は追う。
しかし伸びない。
「ゴールイン!」
掲示板の下の方に、ようやく番号が出た。
九着。
沈黙。
そして勝村が言った。
「母親よりはいい」
角田が笑う。
「クニビキは最初から後ろだった」
藤波が肩をすくめた。
「まあ……こんなものだろう」
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二週間後。
また五人は馬主席にいた。
スタート。
今度は出遅れた。
「おいおい」
藤波が苦笑する。
最後方。
向こう正面。
差は縮まらない。
三コーナー。
すでに勝負は決まっていた。
直線。
馬群は遠い。
実況が言う。
「最後方タカツナミ――」
「そのままゴールイン!」
掲示板。
十一着。
しばらく誰も何も言わなかった。
やがて高橋がぽつりと言う。
「クニビキに似たな」
角田が吹き出す。
「血は正直だ」
藤波が苦笑した。
「親子二代の未勝利か」
小畑は腕を組んでいた。
そして言った。
「もういいだろう」
四人が見る。
「牝馬だ」
「繁殖に上げた方がいい」
勝村がうなずく。
「そうだな」
角田も言う。
「競馬は諦めが肝心だ」
藤波が言った。
「二戦で引退か」
少し間を置く。
「ずいぶん短い競走生活だな」
小畑が笑った。
「だがな」
「牝馬はここからが本番だ」
それは半分冗談だった。
この血統に、大きな期待を抱く者はいない。
クニビキ。
ヤシママンナ。
そしてタカツナミ。
どれも競馬界の主流から外れた血だった。
だが競馬というものは、
**ときどき主流の外から歴史が生まれる。**
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