28_転換点
1969年。
日本の競馬は、ひとつの転換点を迎えようとしていた。
それまで競馬は、いわば「知る人ぞ知る娯楽」だった。
競馬場へ行く者、専門紙を読む者、ラジオで耳を澄ませる者。
そういう人々の世界で完結していた。
しかし、この年、その空気が大きく変わり始める。
四月。
テレビの競馬中継が、完全カラー化された。
色がついたのである。
それまで白黒画面の中で灰色の影のように動いていた馬たちが、はじめて本当の色を持った。
芝の緑。
勝負服の鮮やかな色。
そして、土煙を上げて走るサラブレッドの筋肉。
視聴者は初めてそれを目撃した。
しかも放送時間は、それまでの一時間から一時間半へ拡大された。
番組の構成も大きく変わった。
司会席には松本暢章と森乃福郎。
そして実況席。
マイクを握るのは若きアナウンサー杉本清。
その横でレースを解説するのが大坪元雄。
司会が進行し、
実況がレースを伝え、
解説が意味を与える。
今では当たり前のこの形が、この頃に作られた。
つまり、現在の競馬中継の原型は、この1969年に生まれたのである。
テレビという窓が開いた。
すると、それまで競馬場の内側に閉じていた世界が、
一気に外へ広がり始めた。
日本中の茶の間に、競馬が流れ込んだ。
日曜日の午後、テレビの前で人々がレースを見る。
「来た、来た、来た!」
そんな声が、各地の家庭から上がるようになった。
そして——
この年、もうひとつの出来事が起きていた。
血統である。
チャイナロック。
この馬の産駒が、1969年前後に次々と活躍し始めた。
スピードがある。
勝負根性がある。
しかも派手に勝つ。
観客は熱狂した。
それまで「日本馬は遅い」と言われた時代があった。
だが、その評価が少しずつ変わり始めていた。
チャイナロック産駒の活躍は、競馬の魅力を分かりやすく示した。
速い。
強い。
そして面白い。
テレビがそれを全国へ届ける。
この二つが結びついたとき、
日本の競馬は初めて大衆文化へ変わり始めた。
後に「第一次競馬ブーム」と呼ばれる波である。
だが、このとき、
誰もまだそのことに気づいていなかった。
それは、もう少し先の話になる。
やがて一頭の馬が現れる。
日本中の子供が名前を知るほどの馬。
アイドルのように人気を集める馬。
その名は——
ハイセイコー。
その誕生へ至る土壌は、すでに整いつつあった。
テレビ。
血統。
そして、競馬を取り巻く空気。
すべてが、新しい時代を呼び込もうとしていた。
その渦の中に、一頭の馬がいた。
タケシバオー。
長く勝てなかった馬。
だが、この年、突如として怪物のような走りを見せ始めた馬。
日本競馬が変わろうとするその瞬間に、タケシバオーは、まさにその中心で走っていたのである。




