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血統ー蹄の記憶ー  作者: あいまいもこ
初めて怪物の異名を冠された馬

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3/31

2_敗者の血統

今日は後2話を投稿予定。次はたぶん2時間後くらいには書き上がるはず・・・

大井競馬場の午後は、独特のざわめきを持っている。


潮の匂いを含んだ風がスタンドを抜け、馬場の砂をかすかに運んでくる。観客の声、新聞をめくる音、馬の蹄の響き。競馬場という場所は、人間の期待と落胆が同時に存在する場所だった。


その日、馬主席の一角に見慣れた顔ぶれが並んでいた。


小畑正雄。

高橋。

勝村。

角田。

そして

藤波国次郎。


例の牝馬――クニビキが走る日だった。

”クニジロウ“が“クジ”で引き当てたから。なんともな名付けである。


「あれだな」


高橋が双眼鏡を下ろした。


「……あれだな」


としか言いようがなかった。


パドックを周回するクニビキは、決してみすぼらしい馬ではない。体格も悪くないし、毛ヅヤもまずまずである。


だが、どこかが違う。


競馬を長く見ている者には、それが分かる。

走る馬には、走る気配というものがある。


「まあ、最初から期待はしてないがな」


勝村が新聞を折りたたんだ。


「輸送費の方が高いって話だったろ」


角田が笑う。


小畑は腕を組んで馬場を見ていた。


「しかしな」


「なんだ」


「競馬というのは、たまに分からんことがある」


「奇跡でも起きるか」


「そういうこともある」


藤波が苦笑した。


「だったらありがたいがな」


やがてファンファーレが鳴り、馬たちがゲートへ向かう。


クニビキもその中にいた。


スタート。


砂煙が上がる。


数秒後、高橋が言った。


「……終わったな」


まだ向こう正面だった。


クニビキはすでに後ろの方にいた。


直線に向いても差は詰まらない。

むしろ開いていく。


ゴール。


掲示板の下の方に、ようやく番号が見えた。


「まあ」


角田が言った。


「こんなもんだ」


勝村が笑った。


「今日は前より少し粘ったじゃないか」


「前走より一馬身くらいは良くなったな」


高橋が言う。


藤波はしばらく黙って馬場を見ていた。


負ける馬主というものは、独特の顔をする。怒るわけでもなく、悲しむわけでもない。ただ、少しだけ苦笑するのである。


小畑が言った。


「藤波さん」


「なんだ」


「そろそろ決めたらどうだ」


藤波は分かっていた。


クニビキはその後も何度か走ったが、結果は変わらなかった。


掲示板の下の方。


それが定位置だった。


ある日、また五人が馬主席に並んでいたとき、小畑が言った。


「もういいだろう」


藤波は黙ってうなずいた。


「そうだな」


勝村が言う。


「繁殖に上げた方がいい」


角田も言った。


「牝馬だからな。血は残る」


高橋が笑った。


「それに走るよりは、子供の方が速いかもしれん」


藤波は肩をすくめた。


「それを期待するしかないな」


少し考えてから言った。


「よし」


四人が見る。


「引退させよう」


それは静かな決断だった。


歓声もなければ拍手もない。

ただ、五人の男がうなずいただけだった。


こうしてクニビキの競走生活は終わった。


五戦未勝利。


それが記録として残るすべてだった。


クニビキは繁殖牝馬となり、北海道・新冠の競優牧場へ送られた。


牧場主は小畑正雄。

そして実際に牧場を切り回しているのが、小畑の兄嫁の甥にあたる榊憲治だった。


新冠の春は、まだ風が冷たい。


放牧地の向こうには海が見え、草地には冬の名残の色が残っていた。


牧柵の中で、クニビキは静かに草を食んでいる。


榊は腕を組んで、その姿を眺めていた。


そこへ、小畑が並んだ。


「どうだ」


榊は少し考えてから答えた。


「悪い馬じゃありません」


小畑が笑った。


「競馬では走らなかったがな」


「それは……まあ」


榊も苦笑した。


しばらくして、小畑が言った。


「問題はだな」


「ええ」


「何をつけるかだ」


繁殖牝馬というものは、種牡馬との組み合わせで価値が決まる。


だが――


小畑は肩をすくめた。


「金はないぞ」


榊が笑った。


「分かっています」


小畑は牧柵の中のクニビキを見ながら続けた。


「それに……そもそもクニビキだしな」


榊も同じ方を見た。


「そうですね」


期待できる血統とは言いがたい。


繁殖牝馬としての評価も、正直なところ高くはない。


「まあ」


榊が言った。


「あまり大きな期待はしない方がいいでしょう」


「だろうな」


牧場の経営というものは、夢だけでは成り立たない。


種付け料という現実がある。


一流の種牡馬は、一流の値段がする。


そんな金はない。


榊は頭の中で近隣の種牡馬を思い浮かべていた。


そして、一頭の名を口にした。


「ヤシママンナはどうでしょう」


小畑が振り向いた。


「ヤシママンナ?」


榊が言う。


「ご近所の牧場です。種付け料が安い」


小畑は少し考えた。


「成績は」


榊が言った。


「……まあ、目を引くものはないですね。」


小畑は声を出して笑った。


「まあ、クニビキにぴったりだな」


榊も笑った。


夢のある配合とは言えない。

むしろ、どこにでもある現実的な組み合わせだった。


「よし」


小畑が言った。


「それでいこう」


こうしてクニビキの最初の相手は

成績二流の種牡馬

ヤシママンナ

に決まった。


その決定に、特別な期待を抱いた者はいない。


牧場の風は静かに吹いていた。


競馬というものは、ときどき大きな夢を語る。

だがその多くは、こういう地味な選択の積み重ねでできている。


このときも、ただそれだけの話だった。


やがて、クニビキは一頭の牝馬を産んだ。


五人はまた顔をそろえた。


「名前はどうする」


誰かが言った。


少し考えてから、高橋が笑った。


「せっかくだ」


勝村が言う。


「五人で持つ馬だ」


角田が指を折った。


「高橋のタ」


「勝村のカ」


「角田のツ」


藤波が笑った。


「俺のナミか」


小畑がうなずく。


「つなげてみろ」


誰かが言った。


「タカツナミ」


しばらく沈黙があった。


「……悪くないな」


こうして、その牝馬は

タカツナミ

と名付けられた。


その名を、このとき覚えていた者はほとんどいない。


だが――


この牝馬の血が、のちに一頭の名馬へとつながる。

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