25_惨敗
十一月十一日。
アメリカ東海岸の空は、すでに冬の気配を帯びていた。
ローレルパーク競馬場。
その芝の上に、世界の強豪が集まっていた。
舞台は国際競走、
ワシントンD.C.インターナショナル。
欧米の一流馬が顔を揃える大レースである。
この日、日本から一頭の馬が出走していた。
タケシバオー。
日本の四歳馬。
日本の競馬界が送り出した挑戦者だった。
鞍上には、
保田隆芳。
かつて
**マーチス**でクラシックを制した男である。
この遠征の前、タケシバオーは九月のオープン戦で二着。
完全な復調とまではいかなかったが、状態は決して悪くなかった。
だが、今日の相手は違う。
世界だった。
まず目を引いたのは、
サーアイヴァー。
イギリスのクラシック二冠馬。
欧州を代表する名馬である。
さらに
ララギューン。
こちらはオークス馬。
そして前年の覇者、
フォートマーシー。
芝の王者たちだった。
日本の競馬関係者が、この光景をどこか現実離れした思いで見ていたのも無理はない。
世界の一流馬と、日本の馬が同じレースに並んでいる。
それ自体が、まだ珍しい時代だった。
やがてファンファーレが鳴った。
ゲートが開く。
スタート。
保田は迷わなかった。
タケシバオーを前へ出した。
先頭。
逃げである。
日本の競馬と同じように、
自分のリズムでレースを作る。
それが保田の判断だった。
向こう正面。
タケシバオーは先頭を走っていた。
芝を蹴る音が軽い。
保田は馬の呼吸を感じていた。
悪くない。
決して悪くない。
「行ける」
一瞬、そう思った。
だが——
世界は甘くなかった。
第3コーナー。
後方から、一頭の馬が迫ってくる。
サーアイヴァー。
その巨体が、外から並びかけてきた。
保田が軽く手綱を引く。
その瞬間だった。
接触。
サーアイヴァーの後躯が、タケシバオーの後ろ脚にかかった。
ほんの一瞬。
しかし、それで十分だった。
タケシバオーのリズムが崩れた。
一歩。
二歩。
脚色が鈍る。
保田は必死に立て直そうとした。
だが、すでに勢いは消えていた。
直線。
欧米の馬たちが、一気に差してくる。
芝の上を、巨大な影が通り過ぎていく。
保田は追った。
それでも追った。
だが、差は広がるばかりだった。
ゴール。
タケシバオーは、最後だった。
八頭立て。
八着。
最下位。
日本から来た挑戦者は、世界の舞台で大きく敗れた。
観客席は静かだった。
勝者は歓声を浴びている。
しかし、日本の関係者の周囲だけ、妙な静けさが漂っていた。
レース後。
引き上げてきたタケシバオーの脚を、厩務員が確認した。
後脚。
球節に、傷があった。
接触のときのものだった。
血がにじんでいる。
調教師の
**三井末太郎**は、しばらく何も言わなかった。
ただ馬の脚を見ている。
その隣に、馬主の
**小畑正雄**が立っていた。
小畑が言った。
「……負けたな」
三井が、ゆっくりうなずいた。
「ええ」
短い返事だった。
惨敗。
八頭立ての八着。
世界との距離を、はっきり見せつけられた結果だった。
小畑は空を見上げた。
アメリカの空だった。
「強いな」
ぽつりと言った。
三井が答える。
「ええ」
小畑が続ける。
「思っていたより、ずっと強い」
しばらく沈黙があった。
「ですが」
小畑が見る。
三井の目は、静かだった。
「やれない相手ではない」
小畑の口元が、わずかに動いた。
三井が続ける。
「今日の負けは、力の差だけじゃない」
「遠征」
「芝」
「展開」
一つ一つ指を折る。
「全部が初めてです」
小畑が笑った。
「言い訳か」
三井は首を振った。
「違います」
そして言った。
「次は勝てます」
その言葉に、小畑の目が光った。
しばらく黙っていたが、やがて言った。
「そうか」
そして笑った。
「面白い」
タケシバオーは、まだ若かった。
四歳。
これから、まだ走る。
小畑が言った。
「世界は遠い」
三井が答える。
「ええ」
小畑が続けた。
「だが」
ゆっくり言う。
「届かん距離でもない」
三井がうなずく。
遠くで、まだ歓声が聞こえていた。
世界のレースは終わった。
日本の馬は負けた。
しかし——
この敗戦が、終わりではなかった。
むしろ、始まりだった。
三井は馬の首を軽く叩き、タケシバオーが鼻を鳴らす。
「帰るぞ」
小畑が続けた。
「日本へな」
そして小さく笑った。
「もう一度、強くなって」
その目には、敗者の色はなかった。
むしろ——
闘志だった。




