24_招待状
秋の気配が、わずかに漂いはじめていた。
夏の熱気がまだ残る東京の夕暮れ。
机の上には、数通の書類が置かれていた。
封筒には、外国の文字が並んでいる。
アメリカからの招待状だった。
**タケシバオー**に対するものである。
送り主はローレルパーク競馬場。
そこから、ある競走への出走が打診されていた。
ワシントンD.C.インターナショナル。
当時、世界の一流馬が集う国際競走として知られていた。
机の前に二人の男が座っている。
二人の間に置かれた招待状が、妙に重く見えた。
小畑が煙草に火をつけ、煙をゆっくり吐く。
「アメリカだそうだ」
紙を叩く。
「ずいぶん大した話になったもんだな」
三井は腕を組んだまま黙っている。
小畑が言った。
「どう思う」
三井はすぐには答えず、しばらくして言った。
「無茶です」
小畑が笑った。
「はっきり言うな」
三井は続けた。
「四歳馬ですよ」
「しかも遠征経験もない」
指で机を叩く。
「日本からアメリカまで、どれだけの距離があると思います」
小畑は煙を吐いた。
「知っとる」
三井が言う。
「輸送だけで馬が変わる。着いた頃には、まともに走れないかもしれない」
「輸送費だけで大赤字だ」
少し声が強くなる。
「それに——」
机の上の別の紙を指す。
そこには別のレース名が書いてあった。
菊花賞。
三井は言った。
「この馬は、まだクラシックが残っている」
三歳馬にとって最後の大一番である。
距離三千メートル。
日本の伝統。
三井は続けた。
「菊花賞を捨ててまで行く意味があるとは思えません」
小畑は黙って聞いていた。
煙草の灰を落とすと、やがて言った。
「先生」
三井が顔を上げる。
小畑の目は、静かだった。
「日本のサラブレッドは、どこまで通用すると思う」
三井は眉をひそめた。
「どういう意味です」
小畑は言った。
「世界だ」
机の招待状を叩く。
「アメリカやヨーロッパの馬と走って勝負になると思うか」
三井は黙った。
その問いは、簡単ではない。
日本の競馬は、まだ発展途上だった。
血統も、調教も、レースの格も。
世界の中心とは言い難い。競馬後進国だった。
三井が言った。
「分かりません」
小畑がうなずく。
「そうだろう」
少し身を乗り出す。
「だから行くんだ」
三井が眉を上げる。
小畑の声は静かだった。だが、その奥に熱があった。
「日本の馬がどこまでやれるのか……」
「見てみたい」
煙草をもみ消す。
「俺はな」
ゆっくり言う。
「競馬新聞の社長だ」
三井は黙っている。
小畑が続けた。
「日本の競馬を盛り上げるのも仕事だ」
少し声が強くなる。
「いつまでも国内で走ってるだけじゃ、競馬は大きくならん」
机を叩く。
「外へ出るんだ」
三井は、しばらく黙っていた。
「社長」
声は低かった。
「それは、理想です」
「ですが…」
少し言葉を選ぶ。
「私は調教師です」
小畑は黙って聞いている。
三井は続けた。
「馬を預かる仕事です」
机の上の紙を見る。
そこにはタケシバオーの名前がある。
「この馬は、まだ完成していない」
「四歳です。これから、もっともっと強くなる」
小畑が言う。
「だからこそだ」
三井が首を振る。
「違う」
少し声が荒くなる。
「だからこそ、日本で走らせる」
「この馬は、日本の馬です」
三井の目が鋭くなった。
「日本で一番強い馬になる。その途中なんです」
沈黙が落ちた。
外では、蝉が鳴いている。
小畑が言った。
「先生」
三井は黙っている。
小畑はゆっくり言った。
「ダービーを負けたとき…」
三井が顔を上げる。
東京優駿。
七夕のダービー。
小畑が続けた。
「あのとき、思った。強いだけじゃ勝てん」
三井は何も言わない。
小畑が言う。
「だがな」
少し笑う。
「強い馬は、外でも走らせてみたい」
三井は、深く息を吐いた。
「社長」
「はい」
三井の声は静かだった。
「もし」
「遠征して」
「壊れたらどうします」
小畑はすぐ答えた。
「責任は俺が取る」
三井が言う。
「馬の責任は、私です」
二人の視線がぶつかった。
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて、小畑が笑った。
「先生」
三井は黙っている。
小畑は言った。
「喧嘩になってきたな」
三井も、少し笑った。
「ええ」
小畑が立ち上がり窓の外を見る。
夕焼けが広がっていた。
「日本の馬が世界で走る日が来る」
振り向く。
「日本の馬はまだ勝っとらん」
「だが、その最初が、この馬かもしれん」
三井は、しばらく考えていた。
やがて言った。
「……菊花賞は」
小畑が言う。
「出ない」
三井が悔しそうにうなずく。
「はい…」
そして続けた。
「そのあと」
小畑の目が光る。
三井は言った。
「そのあとなら」
小畑が笑った。
「交渉成立やな」
二人の男は、しばらく黙っていた。
机の上には、まだ招待状がある。
そこには、遠い国の名前が書いてあった。
ローレルパーク。
そして——
ワシントンD.C.インターナショナル。
日本の競馬は、まだ小さい。
だが、その小さな競馬が、世界へ手を伸ばそうとしていた。




