23_重賞男の述懐
夜の静かな酒場で、男はゆっくりと盃を置いた。
外はもう暗い。
窓の向こうには、遠くの街灯がぽつぽつと灯っている。
男は年を取っていた。
だが、背筋はまっすぐだった。
森安弘昭。
かつて“重賞男”と呼ばれた騎手である。
通算百四十三勝。
そのうち重賞が二十九勝。
しかも——
**八大競走**だけで五勝。
普通の騎手なら、ひとつ勝てば名誉になるレースを、
いくつも勝っていた。
それでも。
記者が、どうしても聞きたがるレースがあった。
七夕のダービー。
東京優駿。
そして一頭の馬。
タケシバオー。
森安は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「よく聞かれるんですよ」
盃を回しながら言う。
「あのダービーのことは」
記者が身を乗り出す。
森安は遠くを見るような目をした。
「体調はね」
指で机を叩く。
「良かったですよ」
少し間を置く。
「レースの展開も、悪くなかった」
そこまで言って、肩をすくめた。
「でもね」
静かに言う。
「縁がなかったんでしょう」
記者が聞いた。
「もし、もっと早く追い出していたら?」
森安は、すぐに首を振った。
「いや」
はっきり言う。
「勝てなかったでしょう」
記者が驚く。
森安は笑った。
「よく言われるんです」
「“あのとき、早く行けばダービー馬だった”って」
盃を持ち上げる。
「でもね」
ゆっくり言う。
「競馬ってのは、そんな単純じゃない」
少し沈黙があった。
やがて森安が続ける。
「もし」
指を一本立てる。
「もしですよ、ダービーが例年通り五月だったら……」
少し考える。
「あるいは勝てたかもしれない」
記者が聞く。
「七月が問題だった?」
森安はうなずいた。
「あの年は、東京競馬場の改修があってね」
視線が遠くなる。
「ダービーが七月七日、七夕ダービーですよ」
苦笑する。
「タケシバオーはね」
静かに言う。
「ちょうど調子が下り坂に入っていた……」
「…ほんの少し」
指で空気を切る。
「ほんの少しだけ、ピークを過ぎていたんです」
それは、騎手にしか分からない感覚だった。
馬の呼吸。
手応え。
背中の力。
それらすべてが、ほんのわずか変わる瞬間がある。
森安は言った。
「それでもね、強い馬でしたよ」
タケシバオー。
春の主役だった馬。
弥生賞。
スプリングステークス。
皐月賞。
NHK杯。
惜敗が続いた。
だが——
能力だけなら、世代でも指折りだった。
森安は続けた。
「ただね」
少し声を落とす。
「あのときの」
間を置く。
「**タニノハローモア**は強かった」
はっきり言った。
記者が顔を上げる。
森安は笑った。
「あれはね」
「いい逃げでした」
目を細める。
「ああいう逃げを打たれると」
肩をすくめる。
「捕まえに行く方は難しい」
前には逃げ馬。
後ろには強い差し馬。
マーチス。
アサカオー。
三頭で牽制する形になった。
「前を捕まえに行けば」
森安が言う。
「後ろが来る」
「待てば」
「前が残る」
指で机を叩く。
「それが競馬です」
しばらく沈黙があった。
森安がぽつりと言う。
「まあ」
「悔しくないと言えば嘘ですよ」
記者が笑う。
森安も笑った。
「ダービーですからね」
日本の騎手にとって——
**東京優駿**は特別だった。
森安は、ゆっくり盃を空けた。
「でもね」
机に置く。
「騎手ってのは」
少し笑う。
「終わったレースを悔やんでも仕方ない。次のレースが来る」
それが騎手の仕事だった。
森安弘昭。
人は彼を“重賞男”と呼んだ。
重賞で勝つ。
大レースで勝つ。
ここ一番で勝つ。
そういう騎手だった。
森安は言った。
「不思議なもんでね、重賞ってのは…」
少し笑う。
「縁がある騎手には、来るんですよ」
そして言った。
「初めて重賞を勝ったのも」
少し間を置く。
「八大競争、桜花賞でした」
八大競走。
当時、日本競馬の頂点だったレース群。
その舞台で勝つ。
森安はそれを、何度もやった。
だが、それでも。
「ダービーだけはね」
静かに言う。
「簡単には勝たせてもらえません」
そう言って、笑った窓の外では、夜風が吹いていた。
森安弘昭は、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「でも、いいレースでしたよ」
少し遠くを見る。
七夕の東京競馬場。
逃げる馬。
追う馬。
そして——
届かなかった一馬身。
森安は言った。
「競馬らしい」
それが、最後の言葉だった。
“重賞男”と呼ばれた森安弘昭はダービーの翌年1969年騎手を引退した。




