22_信念と信頼
ゴール板の前で、歓声が一瞬、止まった。
誰もが、目の前の光景を理解するのに一拍かかったのである。
先頭で駆け抜けたのは
**タニノハローモア**だった。
そして——
差されなかった。
スタンドが、どよめいた。
それは歓声というより、驚愕の音だった。
「……残った」
誰かが言った。
「残ったぞ」
馬主席の一角で、二人の男が立っていた。
谷水信夫。
そして調教師、戸山為夫。
二人とも、しばらく動かなかった。
谷水の目は、まだ馬場を見ている。
戸山も同じだった。
ハローモアが、息を荒くしながら引き上げてくる。
泥だらけの馬体。
首を振りながら歩いている。
谷水が、ぽつりと言った。
「……勝ったな」
戸山がうなずいた。
「ええ」
それだけだった。
二人とも、大声で喜ぶような男ではない。
だが、その沈黙の奥で、何かが静かに弾けていた。
やがて谷水が笑った。声を上げて笑った。
「はは……」
帽子を脱ぐ。髪をかきむしる。
「ダービーや」
そう言った。
それは、信じていないような声だった。
戸山は、まだ馬場を見ていた。
タニノハローモア。
八連敗していた馬である。
だが、その馬が、
**東京優駿**を勝った。
戸山が言った。
「逃げましたね」
谷水が笑う。
「逃げたな」
少し間を置く。
「逃げ切った」
戸山は小さくうなずいた。
だが、表情は静かだった。
谷水が横を見る。
「嬉しくないんか」
戸山は少し笑った。
「嬉しいですよ」
「だが——」
少し言葉を探す。
「思ったより、あっけない」
谷水が、はっとしたように笑った。
「それや」
強くうなずく。
「それや、戸山」
二人とも、同じことを感じていた。
長い時間をかけてきた。
カントリー牧場。
まだ出来たばかりの牧場である。
だが、土地は肥えていた。
飼料は良い。
放牧地も広い。
谷水は、それを全部揃えた。
「馬は環境で強くなる」
それが彼の考えだった。
そして戸山は、別の男だった。
「馬は鍛えて強くなる」
その信念で厩舎を作った。
朝から晩まで鍛える。
坂路もない時代に、人間の足で馬を鍛えた。
厳しい調教だった。
若駒の半分は壊れる。
それでも構わない。
残った馬が、強くなる。
それが戸山の厩舎だった。
谷水が言った。
「覚えとるか」
戸山を見る。
「最初にこの馬を見たとき」
戸山はうなずいた。
「覚えています」
谷水が笑う。
「小さかった」
戸山が言う。
「だが、根性はあった」
谷水が頷いた。
「それでええ」
少し間を置く。
「鍛えれば走ると思った」
戸山が言った。
「ええ」
そして続けた。
「だから鍛えました」
谷水が笑った。
「鍛えすぎや」
戸山も少し笑った。
「そうかもしれません」
だが、その目は真面目だった。
戸山にとって、
タニノハローモアは特別な馬だった。
初めてだったのである。
自分の厩舎の理念——
鍛えて名馬を作る。
それを、本当に証明した馬が。
谷水が、馬場を見ながら言った。
「戸山」
「はい」
谷水は言った。
「これで分かったやろ」
戸山は黙っている。
谷水が続けた。
「牧場も、厩舎も」
「間違っとらん」
戸山が、静かにうなずいた。
遠くで、まだどよめきが続いている。
三強と言われた馬たち——
タケシバオー。
マーチス。
アサカオー。
その三頭の前を、
逃げ切った。
谷水が、もう一度笑った。
「八連敗の馬が、ダービーや」
戸山は、ゆっくり言った。
「競馬ですね」
谷水がうなずく。
「競馬や」
そして空を見た。
七月の空だった。
その空の下で、
タニノハローモアはダービー馬になった。
谷水は、しばらく黙っていた。
やがて言った。
「……戸山」
「はい」
谷水が笑った。
「次は、もっと強い馬を作ろうや」
戸山は、迷わず答えた。
「作れます」
その言葉は、静かだった。
だが——
確信があった。
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