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血統 ー蹄の記憶ー  作者: あいまいもこ
初めて怪物の異名を冠された馬

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21_東京優駿(1968) ー後編ー

ゲートが開く。


飛び出したのは——


タニノハローモアだった。


速い。とにかく速い。

他の馬が位置を取ろうとする間に、もう数馬身前へ出ている。


小畑が言う。


「なんだ、あれは」


三井が眉をひそめる。


「逃げるつもりだ」


小畑が怒鳴る。


「逃げすぎだろ!」


スタンドがざわめいた。


「ハローモアだ!」


「逃げた!」


しかし、まだ誰も気にしていない。

逃げ馬が逃げる。それだけの話である。


ぐんぐん離す。


速い。


三井がつぶやく。


「……ほう」


小畑が言う。


「放っとけ」


「どうせ止まる」


三井は答えない。

ただ、馬場を見ている。


後ろには、三強がいた。


タケシバオー。

アサカオー。

そして後方にマーチス。


だが——


ハローモアは、止まらなかった。


向こう正面。


差は五馬身。六馬身。さらに広がる。


実況が声を上げる。


「タニノハローモアが先頭!」


「かなり離しました!」


スタンドの空気が、少し変わる。


「逃げすぎじゃないか」


「飛ばしすぎだ」


だが、それでも誰も心配していない。


ダービーは二四〇〇メートル。


逃げ切れる距離ではない。そう、思われていた。


三コーナー。

ハローモアは、まだ先頭だった。そして差は、まだある。


小畑が苛立つ。


「捕まえろ!」


「行け!」


しかしタケシバオーは、まだ動かない。


その後ろにアサカオー。

さらに後ろにマーチス。


三井が低く言った。


「……まずい」


小畑が聞く。


「なにがだ」


三井は言った。


「三頭で牽制してる」


小畑が吐き捨てる。


「馬鹿野郎」


二番手にタケシバオー。

その後ろにアサカオー。

さらに後方にマーチス。


三強は、互いを見ていた。


誰が動くのか。


誰が先に仕掛けるのか。


それを待っていた。


そして——


それが、勝負の綾になった。


四コーナー。


ハローモアは、まだ先頭だった。


スタンドがざわめく。


「おい、まだいるぞ」


「捕まらないぞ」


だが。

ハローモアは止まらない。


小畑が怒鳴る。


「行け!」


「森安、行け!」


しかしタケシバオーは、すぐには動けない。

前へ出れば、後ろの二頭が来る。


その迷い。


三井が歯を食いしばる。


「……今だ」


「行け!」


ようやくタケシバオーが追う。


東京の長い直線。


ここで差される。


誰もが、そう思っていた。


だが——


タニノハローモアは、まだ先頭だった。

しかも、悠々と走っている。


そのとき、タケシバオーの鞍上は迷っていた。


前へ行くか。


それとも、待つか。


もし前へ出れば——

後ろのアサカオーとマーチスの餌食になる。


その一瞬の迷い。


それが、致命的だった。


東京競馬場の直線は、長い。


四百メートル以上ある。


普通なら——

逃げ馬はここで捕まる。


しかし、この日の直線では違う光景が広がっていた。

**タニノハローモア**が、まだ先頭を走っていたのである。


しかも、脚色が鈍らない。


スタンドがどよめく。


「残るぞ!」


「逃げ切るぞ!」


その後ろで、三強が並んでいた。


**タケシバオー**。

**アサカオー**。

そして後方から伸びてくる

**マーチス**。


だが——


三頭は、互いを警戒していた。


タケシバオーが前へ出れば、その瞬間にアサカオーが襲う。

さらにその外からマーチスが来る。


それが分かっていた。だから動けない。ほんの一瞬の躊躇。

だが、競馬ではそれが命取りになる。


残り二百メートル。


ハローモアは、まだ先頭だった。


観客が立ち上がる。


「来い!」


「そのまま!」


タケシバオーが追う。


アサカオーが追う。


マーチスが追う。


しかし、差が詰まらない。


逃げ馬の背中が、遠い。


そして——


ゴール板。


最初に駆け抜けたのはタニノハローモアだった。


九番人気。


単騎の大逃げ。


ダービー制覇。


スタンドは、静まり返った。


歓声ではない。


**どよめき**だった。


あまりにも予想外の結果。


やがて結果が掲示される。


一着 タニノハローモア

二着 タケシバオー

三着 アサカオー

四着 マーチス


四着のマーチスまで、わずかな差の戦いだった。

しかし、勝ったのは三強ではない。


伏兵だった。


勝者には酷な話だが——

スタンドには落胆の空気もあった。


人々は三強の決着を見たかったのだ。


だが、競馬は筋書きどおりにはいかない。


それが、競馬というものだった。


ーーー


先頭で駆け抜けたのは

タニノハローモア。


二着

タケシバオー。


三井は、しばらく動かなかった。


小畑も黙っていた。


やがて小畑が言った。


「……逃げられたな」


三井がうなずく。


「ええ」


小畑は帽子を取った。

髪をかきむしる。


「くそ」


声が低く震える。


「ダービーだぞ」


三井は、遠くの馬場を見ていた。


タケシバオーが引き上げてくる。

泥にまみれている。


三井がぽつりと言った。


「強いんですがね」


小畑が笑った。


苦い笑いだった。


「知ってる」


少し間を置く。


「だが——」


そして言った。


「競馬は、強いだけじゃ勝てん」


夕暮れ。


人々が競馬場をあとにする。


誰もが同じ話をしていた。


「逃げられたな」


「動くのが遅かった」


「三強が牽制しすぎた」


だが、もう終わったことだった。


七夕ダービーは終わった。


そしてこの日を境に——

三強はしばらく同じレースに出ることがなくなる。


再び三頭が顔を揃えるのは、

ずっと先のことになる。


翌年。


**天皇賞(春)**。


それまで、

三強の戦いはしばし幕を閉じる。


七夕の夜。


東京の空には、星が出ていた。


だが、競馬場を去る人々の胸には

ひとつの思いが残っていた。


——本当に強いのは、誰だったのか。


その答えは、まだ出ていない。

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