21_東京優駿(1968) ー中編②ー
スタンドは、うねっていた。
七夕の午後、
**東京競馬場**は人であふれていた。
怒号。笑い声。新聞の紙の音。
そのすべてが渦になり、ダービーという一つの巨大な熱をつくっている。
だが、その喧騒から少し離れた場所に、
妙に殺気立った空気があった。
馬主席の一角である。
そこに二人の男が立っていた。
**谷水信夫**。
そして調教師、**戸山為夫**。
二人の前を、一頭の馬が歩いていく。
**タニノハローモア**。
黒鹿毛の馬体はよく光っていた。
だが、人気はない。
九番人気。
しかも、八連敗中である。
谷水が鼻で笑った。
「世間は正直だな」
新聞をくしゃりと丸める。
そこには印がほとんど無かった。
戸山は何も言わない。
ただ馬を見ている。
谷水が言った。
「ええか、戸山さん」
声は低い。
「わしはな」
煙草をくわえながら続けた。
「ダービーを“参加賞”で走らせるつもりはない」
戸山は、静かにうなずいた。
谷水は続けた。
「八連敗? 結構だ」
「だがな」
新聞を振る。
「この連中は、ハローモアが弱いと思っとる」
少し間を置く。
「気に入らん」
戸山が、ぽつりと言った。
「弱くはありません」
谷水が笑った。
「分かっとる」
そして、低い声で言う。
「だが、勝てるか?」
戸山はすぐには答えなかった。
遠くを歩くハローモアを見ている。
やがて言った。
「勝てます」
谷水が眉を上げた。
「思い切りやれ」
戸山の声は静かだった。
「止まるかもしれません」
谷水が言う。
「止まったら、それまでだ」
煙草の灰を落とす。
「だがな」
谷水の目が光った。
「止まらんかもしれん」
戸山が、うなずく。
二人とも、その可能性を知っていた。
ハローモアは、気性が激しい。
だが、逃げればしぶとい。
戸山が答えた。
「捕まえに来れば、後ろが来る」
「来なければ——」
谷水が言葉を継いだ。
「逃げ切りや」
二人は顔を見合わせた。
そして同時に笑った。
そのとき、ファンファーレが鳴った。
**東京優駿**。
スタンドが爆発する。
谷水がつぶやいた。
「ダービーか」
帽子をかぶり直す。
「戸山さん」
「はい」
谷水が言った。
「遠慮するな」
戸山はうなずいた。
「しません」
そしてゲートが開いた。
谷水氏のカントリー牧場は、皆さんもご存知のとおり後にタニノギムレットやウォッカを生産することになります。
そして戸山調教師はミホノブルボンを育て上げます。
タニノハローモアは牧場開業2年目の産駒、調教師開業2年目での戴冠だったかと思います。
タニノギムレットやウォッカ、ミホノブルボンへ繋がる。そんな源流がこの三強との戦いだったのではないでしょうか。




