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血統 ー蹄の記憶ー  作者: あいまいもこ
初めて怪物の異名を冠された馬

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21_東京優駿(1968) ー中編①ー

スタンドは、人で埋まっていた。

人の波が、建物を揺らすように動いている。


怒号。笑い声。新聞の紙の音。

熱気が、初夏の空気に溶けていた。


だが、スタンドの喧騒とは別に、

静かな場所があった。


馬主席である。


そこに、二人の男が並んでいた。


一人は調教師、**三井末太郎**。

もう一人は馬主、**小畑正雄**。


二人の視線の先には、一頭の馬がいる。


**タケシバオー**。


春、三歳王者と呼ばれた馬。

だが、その後——勝利だけが遠かった。


弥生賞 二着。

スプリングステークス 二着。

皐月賞 二着。

NHK杯 二着。


誰もが強いと認めながら、

勝ち星だけが手に入らない。


二人とも黙っていた。


だが、その沈黙は静かではない。

張りつめた沈黙だった。


馬場の向こうでは、三歳馬たちが輪乗りをしている。


三井は腕を組んでいた。

小畑は煙草を指に挟んでいる。


「……来ましたね」


小畑が言った。


パドックから本馬場へ向かうタケシバオーを見ている。


三井はうなずいた。


「状態はいい」


それだけ言った。

余計な言葉はない。


小畑が笑った。


「先生は、いつもそれだ」


三井は答えない。

ただ、馬を見ている。


やがて、小畑がぽつりと言った。


「勝てますか」


三井は、少し考えた。


そして言った。


「分からん」


小畑が煙を吐く。


「正直だな」


三井は続けた。


「だが——」


そして言った。


「この馬は、強い」


それは、断言だった。


小畑は、ゆっくりうなずいた。


「そうですね」


そして、付け加えた。


「だから困る」


三井が横目で見る。


小畑は苦笑した。


「強いのに勝てない」


煙草の灰を落とす。


「競馬ってのは、難しい」


三井は黙っていた。


そのとき、ファンファーレが鳴った。


スタンドが揺れる。


「ダービーだ……」


小畑がつぶやいた。


馬たちが、ゆっくりとゲートへ向かう。

タケシバオーも、その列の中にいる。


そのとき——


再び、ファンファーレが鳴った。


日本ダービーの音楽。


スタンドが、どっと沸く。


三井が、低い声で言った。


「社長」


小畑が目をやる。


「なんだ」


三井は顎をしゃくった。


「今日は、勝ちますよ」


言い方は、断言に近かった。


小畑は少し笑った。


「そうか」


煙草をくわえ、煙を吐く。


「だが」


新聞の紙面を叩いた。


「世間は、そう思ってない」


そこには三頭の名前が並んでいた。


**マーチス**。

タケシバオー。

**アサカオー**。


三強。


最近は、どの紙面にもこの言葉が載っていた。


小畑が言う。


「マーチスだ、マーチスだと騒ぐ」


三井が苦笑した。


「皐月賞馬ですから」


小畑は鼻で笑う。


「皐月賞なんて、展開一つだった」


少し声が荒くなる。


「タケシバが弱いわけじゃない」


三井はうなずいた。


それは彼も同じ思いだった。


弥生賞。

スプリングS。

皐月賞。

NHK杯。


負けた。


だが——


負け方が、気に入らない。


あの馬は、本来もっと強い。


三井が言った。


「今日は逃げる」


小畑が聞き返す。


「逃げますか」


「いや」


三井は首を振った。


「逃げたい」


そして続けた。


「だが、逃げられるかどうかは別だ」


三井は、馬場を見た。


「東京なら、止まりません」


小畑がぽつりと言った。


「ダービーか」


煙草を投げ捨てる。


「俺はな」


三井を見る。


「このレースのために競馬をやってる」


三井は黙った。


小畑は続けた。


「専門紙の社長なんて、どうでもいい」


「馬主として——」


声を落とす。


「ダービーを勝ちたい」


そのとき、ゲートが開きレースが始まった。

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