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血統ー蹄の記憶ー  作者: あいまいもこ
初めて怪物の異名を冠された馬

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20_作戦

昭和四十三年の春は、長かった。


皐月賞が終わっても、決着はつかなかった。

NHK杯が終わっても、なお答えは出なかった。


むしろ——

議論は、激しくなるばかりだった。


その年の**東京優駿**は、特別な意味を持つことになる。


なぜなら、開催が七月にずれ込んだからである。

人々はそれを、こう呼び始めていた。


——七夕ダービー。


本来なら五月の終わりに行われるレースである。

しかし日程の変更によって、初夏を越え、梅雨の季節の中で迎えることになった。


七月のダービー。


それだけでも異例だった。


だが、それ以上に人々を興奮させていたのは——

三強の存在だった。


野武士タケシバオー。

皐月賞馬マーチス。

そして貴公子アサカオー。


競馬新聞の紙面には、毎日のように三頭の名前が並んだ。


ある日。


東京の場外売り場の前で、二人の男が新聞を広げていた。


「やっぱりマーチスだろ」


一人が言う。


「皐月賞も勝ってる」


もう一人が首を振った。


「いや、ダービーはタケシバオーだ」


「東京は底力だ」


少し離れたところで、別の男が口を挟む。


「アサカオーを忘れてるぞ」


「弥生賞を勝った馬だ」


議論は、すぐに熱くなる。


「タケシバオーはもう勝てない」


「二着ばっかりじゃないか」


「それでも一番強い」


「いや、マーチスだ」


競馬場だけではない。


銀座の喫茶店でも、話題は同じだった。


「今年のダービーは面白い」


「三頭とも勝つ可能性がある」


「珍しい年だ」


新聞記者たちも忙しかった。

記事を書いても書いても、読者の関心は尽きない。

ある評論家が書いた。


「これほど優劣のつかぬ世代は珍しい」


また別の記者はこう書いた。


「三強は、それぞれ違う強さを持っている」


先行のタケシバオー。

底力のアサカオー。

末脚のマーチス。


どの馬が勝つのか。


誰にも分からない。


そのころ、**東京競馬場**では準備が進んでいた。


芝の手入れ。

スタンドの整備。

警備の打ち合わせ。


ダービーは、特別なレースである。


一年に一度。

三歳馬にとっては、一生に一度。


しかも今年は——


七夕ダービー。


珍しさもあって、観客は例年以上になると言われていた。


厩舎では、馬たちが静かに調整を続けている。


タケシバオー。

マーチス。

アサカオー。


それぞれの陣営が、最後の仕上げに入っていた。

だが世間の興奮は、もう抑えきれない。

新聞の見出しが躍る。


「三強激突」


「七夕ダービー決戦」


「最強は誰だ」


街の本屋でも、競馬雑誌が山積みになっていた。

ラジオでは解説者が語る。


「今年のダービーは、歴史に残る可能性があります」


理由は簡単だった。三頭が、拮抗している。

一頭だけが抜けているわけではない。


だからこそ——


人々は、結末を知りたがった。


七月。


梅雨の雲の下で、日本中が待っている。


タケシバオーか。

マーチスか。

アサカオーか。


三歳馬の頂点を決める戦い。

七夕ダービーの日が、ゆっくりと近づいていた。


ーーー


湿り気を帯びた東京の夕暮れ。

**東京競馬場**の厩舎地区は、レースが終わると急に静かになる。人の気配が薄れ、遠くで馬が鼻を鳴らす音だけが聞こえた。


その一角で、灯りのついた部屋があった。

**タニノハローモア**の陣営である。


部屋の中には二人の男がいた。


カントリー牧場の主、谷水信夫。

そして調教師、戸山為夫。


机の上には、競馬新聞と出走表が広げられている。


皐月賞は終わった。

**マーチス**が勝ち、

タケシバオー、

**アサカオー**が続いた。


三強の時代。


だが、その陰で——

タニノハローモアは、勝てていなかった。


八連敗。


数字だけ見れば、終わった馬である。

谷水が新聞を指で叩いた。


「八連敗だ」


声は低い。


戸山は黙っている。


谷水は椅子に深く座り直した。


「だがな、戸山さん」


言い方は穏やかだった。しかし、その目は鋭い。


「わしは、こんな馬を作った覚えはない」


カントリー牧場は、普通の牧場ではない。


鍛える。

徹底して鍛える。


走れない馬は、途中で消える。

同期の半分がデビュー前に消えるほどの訓練。

それが谷水信夫の哲学だった。


「弱い馬はいらん」


谷水は言った。


「強い馬だけ残ればいい」


戸山が口を開いた。


「その通りです」


少し間を置いて続ける。


「だが、今の競馬は三強です」


机の上の紙を指した。


マーチス。

タケシバオー。

アサカオー。


「まともに走れば、この三頭が強い」


谷水が笑った。


笑い方が、少し乱暴だった。


「まともに走れば、だ」


戸山は黙る。


谷水は身を乗り出した。


「競馬は力だけで決まるのか?」


戸山は、ゆっくり首を振った。


「決まりません」


「そうだ」


谷水は言った。


「競馬は戦だ」


「戦には戦い方がある」


沈黙が落ちた。


やがて戸山が言う。


「逃げますか」


谷水の目が光った。


「そうだ」


戸山は腕を組んだ。


逃げる。


つまり——

タケシバオーと競る。


それは危険だった。


あの馬は速い。


下手をすれば、共倒れになる。


谷水は、まるでそれを楽しむように言った。


「どうせ後ろからでは勝てん」


「だったら前で戦う」


戸山は、しばらく黙っていた。


やがて言った。


「一つ聞きます」


「なんだ」


「それは——」


戸山の目が鋭くなる。


「マーチスを勝たせる競馬ですか」


マーチスも同じ谷水のカントリー牧場の生産馬だった。


谷水は、笑った。はっきり笑った。


「馬鹿を言うな」


声が少し大きくなった。


「わしは自分の馬を勝たせる」


机を指で叩く。


「タニノハローモアを勝たせる」


戸山は、その言葉をじっと聞いていた。


谷水は続けた。


「逃げる」


「徹底して逃げる」


「タケシバオーが来たら?」


戸山が聞く。


谷水は即答した。


「競る」


戸山は苦笑した。


「それでは潰れます」


谷水は、にやりとした。


「潰れるのは、向こうかもしれん」


戸山は考えた。


この男は、本気で言っている。


しばらくして戸山は言った。


「ハローモアが勝つ形は、一つだけです」


谷水はうなずいた。


「言ってみろ」


戸山は紙の上に指を置いた。


「逃げて」


「東京の直線で粘る」


「後ろが動き出すのが遅れれば——」


谷水が言った。


「残る」


戸山がうなずく。


「残ります」


二人は、しばらく黙った。


外で馬が脚を鳴らした。


谷水が立ち上がる。


「決まりだ」


帽子を取った。


「逃げろ」


戸山が言った。


「はい」


谷水は扉の前で振り返った。


「戸山さん」


「なんでしょう」


谷水は、笑った。


「ダービーはな」


そして言った。


「勝った奴が一番強いんだ」


数日後——


東京優駿。


日本中が見守るレースで、

タニノハローモアは逃げることになる。


それが、三強の運命を大きく揺らすことになるとは、

このときまだ誰も知らなかった。

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