1_抽選の日
戦争が終わってまだそれほど年月の経っていない頃、日本の競馬は奇妙な姿をしていた。
競馬場はある。
観客もいる。
だが、走る馬が足りない。
戦争というものは、人だけでなく馬の歴史も断ち切る。軍馬として徴発され、帰らぬものも多かった。牧場も荒れ、血統は途切れ、競走馬の数は目に見えて減っていた。
とりわけ深刻だったのが、東京の南にある
大井競馬場である。
レースは組みたい。
しかし、出走させる馬がいない。
番組編成を担当する者たちは頭を抱えた。六頭立ての競走を組むことすら難しい日もある。競馬というものは、馬がいて初めて成立する興行である。馬が足りないというのは、商売そのものが成り立たないということだった。
そこで東京都馬主会は、ある大胆な策を講じる。
海外から馬を買ってしまえばいい。
当時としては破天荒な発想だったが、背に腹は代えられない。オーストラリアから競走馬を一括して輸入し、それを抽選によって馬主たちに割り当てることにしたのである。
抽選。
実に日本的な方法だった。
良い馬もいれば、そうでない馬もいる。
だが、運命はくじに任せる。
その輸入馬の中には、後年になって振り返れば、日本競馬史に名を残す馬も混じっていた。
のちに天皇賞馬となるミツドファーム。
そして名牝として名を残すオパールオーキッド。
しかし、その日、抽選会場に集まっていた馬主たちは、もちろんそんな未来を知る由もない。
彼らの関心はもっと現実的だった。
――どの馬を引かされるか。
それだけである。
抽選会場の隅で、五人の男が一覧表を囲んでいた。
競馬専門紙「競友」を発行し、競優牧場も経営する
小畑正雄。
建設業者の高橋。
同じく勝村建設の勝村。
ホースニュースの角田。
そして馬主の藤波国次郎。
年齢も商売もばらばらだが、競馬場で顔を合わせるうち、いつの間にか気安い仲になっていた。こういう付き合いは、競馬の世界では珍しくない。
小畑が一覧表をぱらぱらとめくった。
「しかしまあ……」
彼は苦笑した。
「ずいぶん連れてきたもんだな」
高橋が覗き込む。
「当たりもあるだろうが、外れも多そうだ」
「外れどころじゃないのもあるぞ」
勝村が指を止めた。
そこに書かれていたのは、一頭の牝馬だった。
ナイスデイ。
血統欄を見て、角田が肩をすくめた。
「これはひどい」
「輸送費のほうが高いんじゃないか」
「間違いない」
五人が笑った。
競馬の世界では、血統というものがすべてではない。だが、血統が何も語らない馬というのも、また珍しい。
ナイスデイは、まさにそういう馬だった。
小畑がぽつりと言った。
「しかしな」
「なんだ」
「こういうのに限って、誰か引くんだよ」
藤波が腕を組んだ。
「それだけは勘弁してくれ」
高橋が笑った。
「いやいや、藤波さん。こういうのはな、だいたい口に出した奴が引く」
「やめろ」
「神様はそういうの好きだからな」
勝村が声を上げて笑った。
角田が言う。
「よし、祈ろう」
「何をだ」
「あの馬だけは当たりませんように」
全員が笑った。
笑いながらも、誰もが本気だった。
やがて抽選が始まる。
会場の前に置かれた箱から、馬主たちが順番にくじを引いていく。
係員が番号を読み上げ、割り当てられた馬の名を告げる。
ざわめき。
笑い声。
ため息。
その繰り返しだった。
やがて、係員が次の紙を開いた。
「……ナイスデイ」
場内に声が響いた。
一瞬、空気が止まった。
係員がくじを確かめる。
「藤波国次郎さん」
沈黙。
そして次の瞬間、爆笑が起きた。
「ほら見ろ!」
「やっぱり藤波さんだ!」
「国ちゃん、やったな!」
「本当に引いたのか」
藤波は手の中のくじを見つめたまま、深く息を吐いた。
「……参ったな」
顔を上げる。
「本当に引くとは思わなかった」
小畑が肩を叩いた。
「安心しろ」
「何がだ」
「まだ分からん」
高橋が笑う。
「競馬だからな」
藤波は苦笑した。
「そうかもしれんがな」
少し間を置いて言う。
「それでも――」
「この馬だけはご免こうむりたいと思ってたんだがな」
だが抽選は抽選である。
断ることはできない。
こうして藤波国次郎は、一頭の牝馬を引き受けることになった。
のちにクニビキと名づけられ競走馬として走ることになる馬である。
その時点で、この馬に期待していた者はほとんどいなかった。
むしろ逆だった。
しかし歴史というものは、ときに人の笑い声の中から始まる。
この日、軽口と冗談の中で引かれた一枚のくじが、
のちに一頭の名馬へとつながることになる。
その名は――
タケシバオー。




