18_最も速い馬(1968)
五月十九日。
空は、低く垂れこめていた。
雨は朝から降り続いている。
止む気配はない。
**中山競馬場**の芝は、すでに深く黒ずみ、ところどころ水を含んで光っていた。
この日行われるのは、若駒たちの最初の戴冠戦——
**皐月賞**である。
競馬の世界には、古くからひとつの言葉がある。
——**最も速い馬が勝つ。**
それが皐月賞である。
距離二千メートル。
春の三歳馬にとって、まだ体も心も完成していない時期に争われる。
だからこそ、ここでは純粋な“速さ”が問われる。
力でも、血統でもない。
ただ、速い馬が勝つ。
その年の皐月賞は、しかし単なる速さ比べではなかった。
三頭の馬が、時代を背負っていた。
良血のエリート馬を打ち倒し野武士と呼ばれる
**タケシバオー**。
底力を秘めた
**アサカオー**。
そして、西から現れた鋭い差し馬
**マーチス**。
弥生賞。
スプリングステークス。
すでに二度、三頭は刃を交えていた。
結果は、まだ決していない。
この皐月賞が、三強の最初の決着になる——
人々はそう思っていた。
雨は止まない。
しかし、ある馬にとってこの天候は不利ではなかった。
タケシバオーである。
重い馬場を苦にしない。
むしろ得意とさえ言われていた。
だから、人気は動かなかった。
一番人気
タケシバオー。
二番人気
マーチス。
三番人気
アサカオー。
スタンドには、びっしりと人が詰めかけている。
雨の中でも、誰も帰ろうとはしない。
彼らは知っていた。
このレースは、ただの皐月賞ではない。
時代の主役を決める戦いなのだ。
やがて各馬がゲートへ収まる。
静かな緊張が、コース全体を覆った。
スターターの旗が振られる。
ゲートが開いた。
その瞬間、意外なことが起きた。
タケシバオーが、わずかに立ち遅れたのである。
ほんの一瞬。
だが、確かに出遅れた。
七番手。
いつも先手を奪う怪物が、後ろにいる。
スタンドがざわめいた。
一方、アサカオーは後方。
さらにその後ろ。
最後方に、マーチスがいた。
道中は速かった。
雨の馬場をものともせず、各馬が飛ばす。
二コーナーを過ぎるころ——
タケシバオーが動いた。
森安弘昭が、手綱をわずかに送る。
すると馬は応えた。
ぐん、と前へ出る。
五番手。
三番手。
二番手。
重い芝を蹴り上げながら、怪物が進出する。
そして第三コーナー手前。
**先頭に立った。**
スタンドがどよめく。
「タケシバだ!」
雨の中、黒い影が先頭を走る。
そのまま四コーナー。
そして直線へ。
残り四百メートル。
タケシバオーが先頭。
だが、その外から一頭が迫ってくる。
アサカオー。
弥生賞を制した馬である。
大きなストライド。
一歩ごとに差が詰まる。
直線の半ば。
**並んだ。**
そして——
一度、アサカオーが前へ出た。
スタンドが揺れる。
「アサカオー!」
だが。
タケシバオーは、まだ終わらない。
森安が追う。
タケシバオーがもう一度伸びた。
差し返す。
二頭が並ぶ。
泥を蹴り上げながら、互いに譲らない。
観客は総立ちだった。
だが——
その背後から、さらに一頭が迫る。
外。
後方から、黒い影が飛んでくる。
**マーチス。**
最後方にいた馬である。
保田隆芳が追う。
静かだった騎手が、ここで初めて動いた。
一完歩。
また一完歩。
差が詰まる。
残り百メートル。
三頭。
並んだ。
泥を巻き上げながら、三頭が伸びる。
差し返す。
再び先頭。
その瞬間だった。
後方から、もう一頭が迫っていた。
泥を蹴り上げながら、
最後方から、ただ一頭。一直線に伸びてくる。
タケシバオー先頭。
だが脚色が違う。
マーチスが、さらに伸びる。
並ぶ。
半馬身。
そして——
前に出た。
ゴール板。
一着
マーチス。
二着
タケシバオー。
三着
アサカオー。
その差は、わずかだった。
マーチスとタケシバオーの差は
**四分の三馬身。**
タケシバオーとアサカオーの差は
**アタマ差。**
そして四着の
**ジンライ**は、そこから五馬身離れていた。
つまり、このレースは——
三頭の戦いだったのである。
スタンドはしばらく静まり返っていた。
あまりにも激しい戦いだった。
やがて拍手が起こる。
勝ったマーチスの鞍上、保田隆芳は静かに帽子を取った。
この勝利には、もうひとつ意味があった。
彼はこの勝利によって、
**栗田勝**に次ぐ史上二人目の
**五大クラシック完全制覇**を達成したのである。
さらに——
日本競馬史上初となる
**八大競走完全制覇**。
偉業であった。
だが、この日の主役は
一頭だけではない。
マーチス。
タケシバオー。
アサカオー。
三頭は、ほとんど並んでゴールした。
人々は悟る。
この世代は特別だ、と。
皐月賞は終わった。
だが——
三強の物語は、まだ終わらない。
次は、東京。
日本競馬の頂点とも言える舞台。
**東京優駿**。
世に言う——
ダービーである。
雨の中山を去る人々の胸には、すでに次の戦いへの期待が宿っていた。




