13_朝日杯三歳ステークス(1967)ー前半ー
昭和四十二年十二月。
冬の中山競馬場である。
空は高く澄んでいる。
だが空気は冷たい。
吐く息が白くなる。
それでも観客席には、朝から人が集まり始めていた。
この日の目玉は——
**朝日杯三歳ステークス。**
関東三歳王者を決めるレースである。
新聞も連日このレースを書き立てていた。
**貴公子アサカオーか。
快足タケシバオーか。**
観客席のあちこちで、その話が出ていた。
「アサカオーだろう」
「血統が違う」
別の男が言う。
「いや、タケシバオーだ」
「逃げたら止まらん」
競馬場というものは、こうして空気が出来ていく。
いつの間にか——
**二頭の対決。**
そんな雰囲気になっていた。
だが。
もう一頭、忘れてはいけない馬がいた。
**ヤマトダケ。**
五戦五勝。
まだ一度も負けていない。
父はフランスの名馬**パーソロン**。
そして鞍上は——
**加賀武見。**
若いが、すでに「天才」と呼ばれていた騎手である。
競馬場では、名前だけで客が沸く。
この馬が——
**一番人気。**
---
厩舎地区。
まだ静かである。
三井末太郎は、馬房の前に立っていた。
タケシバオーが飼葉桶に顔を突っ込んでいる。
いつもと同じ。
食欲も、様子も変わらない。
厩務員が言った。
「先生」
三井が振り向く。
「なんだ」
「今日はすごい人ですよ」
三井はうなずいた。
「そうだろうな」
厩務員が笑う。
「人気馬ですから」
三井は煙草をくわえた。
「人気は知らん」
火をつける。
煙を吐く。
「馬が走るだけだ」
馬房の中で、タケシバオーが首を振った。
鼻を鳴らす。
落ち着いている。
むしろ、いつもより元気そうだった。
厩務員が言う。
「先生」
「うん」
「勝てますか」
三井は少し考えた。
それから言った。
「さあな」
少し間を置く。
タケシバオーを見ながら言った。
「だが」
「逃げれば——」
煙を吐く。
「簡単には止まらん」
---
そのころ。
パドックは、もう人でぎっしりだった。
ざわめきが絶えない。
最初に目を引いたのは——
**ヤマトダケ。**
大きい。
毛ヅヤがいい。
歩き方にも余裕がある。
観客が言う。
「これだな」
「ヤマトダケだ」
「強そうだ」
そこへ加賀武見が現れた。
ヘルメットをかぶり、軽く手を上げる。
**どっと歓声が上がった。**
「武見!」
「加賀だ!」
スタンドの空気が一気に熱くなる。
続いて現れたのが——
**アサカオー。**
体が大きい。
肩が厚い。
首が長い。
歩き方が実に滑らかである。
観客が言った。
「きれいな馬だ」
「貴公子だな」
また別の声。
「さすがヒンドスタン」
そのあとで現れたのが——
**タケシバオー。**
観客の声が少し変わる。
「あれか」
「逃げ馬だ」
「今日も行くぞ」
体はもう小さくない。
四百八十キロを超え、筋肉も張っている。
だが歩き方は相変わらずだ。
首を振り、周りの馬を気にしている。
どこか落ち着かない。
厩務員が言った。
「またやるぞ」
三井は苦笑した。
「気が強いからな」
記者席で男が言った。
「三強だな」
もう一人がうなずく。
「ヤマトダケ」
「アサカオー」
「タケシバオー」
中山の冬の空気の中で、
人の熱気だけが、少しずつ上がっていった。
---
やがて、本馬場入場。
まずヤマトダケ。
その背に加賀武見。
観客席が揺れた。
**大歓声。**
「武見ー!」
「頼むぞ!」
加賀は軽く帽子を上げて応えた。
続いてアサカオー。
大きなストライドで返し馬に入る。
そして——
タケシバオー。
スタンドから声が飛ぶ。
「逃げろよ!」
「行けタケシバ!」
タケシバオーは耳を伏せた。
まるで喧嘩でも始めるような顔である。
三井が小さく言った。
「相変わらずだな」
厩務員が笑う。
「先生」
「なんだ」
「今日も行きますよ」
三井は言った。
「行くだろうな」
---
スタート地点。
冬の夕陽が傾き始めていた。
三歳馬たちが、静かに輪を描く。
無敗の良血馬。
貴公子と呼ばれる馬。
そして——
叩き上げの逃げ馬。
**朝日杯三歳ステークス。**
スタンドのざわめきが、少しずつ静かになっていく。
何万人もの観客が、息を止めている。
冬の中山の空気が、ぴんと張りつめた。
スターターが旗を上げた。
そして——
**スタートが切られた。**
中山競馬場が、
**どっと沸いた。**




